超能力を目の当たりにした話1―これからの時代のヒント
あなたは超能力に興味ありますか?
超能力を信じますか?
まるで「宇宙人はいると思いますか?」のように、幼稚な質問ですが、この手の問題は実際に事実を目の当たりにしたもの以外、信じられないし、また信じてはいけないというのが、本当のところでしょう。
人間は懐疑的であってはじめて前進し、信じることで終わるからです。
だから、プレアデス星人と新橋の焼き鳥屋で政治や社会の問題を話してきました、ということがご自身の体験であれば、それはあえて「信じる、信じない」以前の事実であって、つまり、それはそれだけの話なわけです(まあ、焼き鳥は食べないでしょうが(笑))。
このところ、そうした超自然現象をあたかも否定するような記事ばかり書いて来たので、おや? と思われる方もいるかもしれませんが、私が言いたいのはそうした方向へ目を向ける姿勢(期待・人為)への否定であって、そのものではありません。
そうした方向へ向かうとき、それは人間の力です。
(当然のことながら)そこにいわゆる超能力は生じません。
逆にもしそうした人間のうるさい作為を完全に滅することができたとき、
向こうからそれはやってくるでしょう(人間からではありません)。
私は、修行や鍛錬で得られる「力」には全く関心がないのです。
そもそも「努力」を私は否定するものだからです。
(あなたはそれらで蚊一匹作れますか?)
そして、事実、超能力はそれによっては得られないものです。
だから、洋酒のボトルの中に帆掛船が入っていたり、卵の白身黄身が逆転したりすることに興味がないのです。
(すなわち一般でいう超能力は「霊力」であり、時にイリュージョンであり、それは人間世界のものです=当然裏<反動>があります)
加えて、人間の「考え」というものがそこに参入しても同様です。
だから、「来るべき未来」になにがしかの期待を預けるスピリチュアルに馴染めないうえ、それどころか、それは恐ろしいことだと思うのです。
今変わらなければ変わらない
もし「真理」というものがあれば、これがその真理の”あり様”です。
ポンポンと病を癒す
広い会場を埋め尽くす人、人。
その演壇には、やや肉付きの良い小柄なおじさんが立っています。
真っ白いシャツにサスペンダーがチャーミングです。
彼は早口でポンポンと話します。
その辺に笑いが絶えません。
彼は理屈は大嫌いです。
何も考えておらず、「口から出まかせ」と言います。
難しい話はしません。
あくまでも日常の出来事で、それは個人の悩み事です。
彼は悩みません。
だから、彼は即行動します。
病に悩む人、いや、見たところそうした方々が多く詰めかけているようです。
彼は30秒数えます。
時には演壇の向こうを向いて数えます。
30秒というのは別に数字に意味があるわけではなく、「それ以上人間集中できない」からだそうです。
ここでの「集中」は、考えないことの持続時間です。
どんな「病」が飛び出すかも分からない。
しかし意に介せずにポンポンと治していきます。
”キリストの奇跡”の大量生産です。
話していては面倒だから、彼は会場で、その場で病人を治します。
しまいに、会場の一般人に治させます。
彼の力(彼曰く自分の力ではないそうです)は無機物にも通用しますが、
「病気が一番わかりやすいでしょ」
です。
「ガンも腰痛も同じものですよ」
と、こともなげに言います。
患部は動くそうです。
それを空中で掬い取って投げます。
なかには、蛇のように体をくねらせる女性もいます。
きつい信仰をされていたとか。
そうして、そのものが抜けて、彼女は晴れやかな笑顔を見せます。
昭和のひところ、一大センセーションを巻き起こした”超念力”石井普雄さんの講演風景。
大事な書類の入ったカバンを失くした
次にあげるエピソードは、私自身の恥をさらすことで汗顔の至りというやつですが、このテーマの前ではぜひ必要なことでしたので書きます。
まあ聞いてください。
旧い話ですみません。
今から、かれこれ35年ほど昔のこと、当時私は都心にある、さる大手内装デザイン会社で営業職に携わっていました。
その頃は、某有名フランス化粧品会社の専属デザイナー・エマニュエルさんの、業者泣かせの、なんともアーティスティックなアールのみの什器デザインに腐心していたころでした。
その通訳兼国内代理店のある方が、これまた絵にかいたようなオネエっぽい口調でガンガン駄目出しを言われるもので、ほとほとまいった心理状態。
(客観的に見ればコントです)
ついに池袋の西武百貨店で納品の日(といっても深更)、泊りがけで什器を設置までこぎつけたものの、またもや彼から駄目出しが・・。
「ここの穴に口紅は入らないわよ」
「😨💦」
(「え? 今頃? 今って、もうオープン数時間前よ」って、こっちまでうつってしまう体💦)
というストレスの極まで行って、翌日だったか、打ち上げ・飲み会がありました。
泥酔したのでしょう、タクシーでの午前様まではよかったとして、朝、大事なカバンがないのに気が付きました。
当時5万円も出して買ったお気に入りの英国製カバンが・・ではないのです。
そんなことはどーでもいいのです。
その日に限って、中には、それこそ大事な図面始め書類がごっそり入っていたのです。
今と違って、そのデータベースがPCに保管されて・・いない、一点物がです。
青ざめて、卒倒しそうでしたが、出勤してもさすがに上司にその話は切り出せず。
当然その晩に行ったバーや、タクシーやなんやに電話で聞くも、見かけなかったと・・
もうどうしようもないですね。
ニ三日たっても状況は変わらず💦
「かくなる上は腹を切るしかない!」
私は、思い立ち、夢遊病者のように湯島にあった石井さんのおられるはずのビルに向かっていました。
お忙しく全国を飛び回られていた石井さん本人がいると限ったわけでもないのに、いなければ事務員の方かなんかにどうか便宜を図ってもらえないか懇願するつもりでした。
便宜?
何の?
おかしな話です。
とにかく、エレベーターに乗り込み、階を昇っていきます。
と、そこに女性事務員となにやら楽し気に立ち話をされている本人がいるではないですか。
私は吸い込まれるようにそちらに向かい、一応事務員の方に要件を伝えてから、石井さんに事情を説明しました。
彼は開口一番笑顔でこういいました。
「大丈夫ですよ」
その後、彼は30数えなさいと言って、その場で立ったまま一緒に声を出して数え、「はい、終わりました」です。
「営業は最高です。楽しいですよ」
(た、たのしいったって、その)
30秒をあなたは数えたことがおありですか?
「一、二、三、・・」と、おそらくあなたの思っている以上にそれは早いのです。時計の30秒は予想以上に速いのです。
あっけない。
そして何を根拠に「大丈夫です」と、言い切れるのか?
(普通で考えれば責任が重い言葉です)
しかし、それが大丈夫だったのです。
翌日、会社にある方から電話があり、最寄りの交番に届けてありますと。
わたしの名刺を見て電話してくれたのでしょう。
その方は名を名乗らなかったそうですが、カバンの出所が奇妙でした。
なんと、行った記憶のない銀座の通りの歩道ど真ん中に置いてあったということでした。
もちろんカバンの中身はそのまま。
天にも昇る心地でした。
こうした話を聞かれると、必ず「それはたまたまラッキーだったんだよ」とか「偶然だよね」とかいう声が出ます。
そうかもしれません。
またそうみるべきです。
奇跡の日常化
しかし、私自身はこの世に偶然はない、という見方に賛成です。
偶然といわれるものも実は必然かもしれないからです。
なぜなら、十あるうち、それが一であれば偶然という言い方もできるでしょうが、十のうち十がそうであったらどうでしょう?
つまり、奇跡が当たり前の空気のような世界であれば、それは奇跡ではなく、常識とか、日常とか、当たり前の景色になります。
そして、実はそんな当たり前の世界に片足突っ込んだ(という表現は別な時にしそうですが)世界があるのです。
私には、幼少時のころ体が弱かったせいで食養面でお世話になっていたKさんという方がおりました。
何度かこのNoteでもピックアップしましたが、簡単に言えば「玄米食」(今日のマクロビオティック)の先生です。
Kさんは、その奥にある陰陽哲学を身につけられており、私はその方によってその自由な精神に開眼させていただいたものです。
彼は長らく聖者のように手のかかる食養療法を縁のある方にされており、その地方都市では多くの方々に慕われていた方でした。
その方が、ある日から突如として「念力導士」(初期のころはそう言っていました)という看板に切り替えたのです。
陰陽哲学は、判断力を養うものですから、当然そのたぐいには批判的であるはずのその張本人がです。
私は、Kさんに「”君子は豹変す”ですね」と言ったものでしたが、彼は堂々と手書きの大書された看板を掲げ、念力治療を始められました。
それが石井普雄さんの力を”伝授”された導士誕生といったわけです。
オーバーな表現でしょうが、それこそ門前市を成す盛況ぶりでした。
なぜでしょうか?
効果が即、その場で現れるからです。
(病の場合は即わかりますが、それ以外の仕事、人間関係、失くしものなどは数日かかります)
夏休みに海水浴に行き、砂浜で失くしたコンタクトレンズが見つかった、
失くした財布が出てきた、
動かなかったPCがシールを張っただけで直った、
持病の○○が全快した・・などの不思議体験の山は、そこにも溢れました。
他人事であれば実感が湧かないものですが、また、あなたもお感じのように胡散臭いアレか、でしょうが、それも目の当たりにすると不思議に、さもそれが当然のような気持にさせられるものです。
事実、何度かKさんのお宅にお邪魔して、お話をしている最中にも電話が鳴ります。
電話越しに先方の喘息のような苦しそうな息遣いが聞こえます。
Kさんは「ハー」と言ったり無言で(おそらく)送念します。
と、みるみる相手の声が静かになって、平静に戻っていくのが伝わります。
また、以前にも書きましたが、誤って鍬を踏んずけて、足裏から血がどくどくと噴き出しているのが、即刻止まります。本人のみならず、その家族のものの動揺と、一転した驚嘆が伝わってきます。
電話でです。
石井さんも言っていますが、咄嗟(急性)のものは百パーセント即刻その場で快癒するとのこと。
そうした唖然とするような出来事が、さも当然のように、余計なジェスチャーもなく、それを説明するでもなく、平然と行われているのを見るにつけ、そこに別世界を感じます。
キリがないので止めますが、そんな体験を私もしているからこそ、先のカバンの件でも迷うことなく石井さんのもとを訪ねたのでしょう。
当然のことながら、あまりにも”そっち系”の世界を前に、人は眉に唾をつけて遠くからそれを観察します。
「常識人」という型にはめられた人間は、その常識を超えた世界を激しく否定します。
「非常識」の中身には、多く狂信的な人間の異常な心理も内包しているから、これはむしろ健全な態度でしょう。
そこで、私たちの「常識」は、こう答えます。
「そんなものは気のせいだ、ばかばかしい」
「考える」という行為
精神世界の探査を突き詰めていきますと、最後に「今」という何ものかが顔を覗かせてきます。
現代屈指の哲人も、また先端の科学者も、最終的にはそこに焦点を当てざるを得ないようです。
そこは、「考える」ということから生じてきた時空それ自体が存在しない世界であり、ひょっとしてそれは私たち人類の悲願であった「愛」「平和」「恒常」「無限」「永遠」「自由」そのものか、あるいはそれらの収蔵されている世界かも知れません。
「次元」という言葉で言うのであれば、そこにこそ多層な次元が存在しているのかもしれません。
そこは広い広い(という形容も届かない)不思議な世界に違いありません。
「今」は確かにそこにあるくせに掴めませんでしょう?
掴んだそれは「過去」だからです。
掴んだと思った「過去」が実際にはどこにも存在しないものであるのに引き換え、掴めない「今」はいつだってそこにあります。
だれにでもあります。
おかしなもので、存在しない過去は椅子やテーブル、大はギザのピラミッドなどの”遺物”を残しますが、それを生み出した今という実在は形がありません。
(これであなたも、人間の狙いというものが「今」という的に集約されていることを見ます)
しかし、人は考えるとき、振り返ります。
「反省」というとき、振り返ります。
なぜなら、「考える」または「胸に手を当てて考える」という行為自体が、過去に遡ることだからです。
しかし、過去はそこにありますか?
未来は何処にありますか?
「考える」ということは、過去というすでに死んだ、存在しない世界から何か自分に都合の良いものを掬い上げる行為のようです(釣り堀のようなものです)。
自分そのものが(自分を含めた)人類の意識の集合体ですから、そこにアクションをかけるしか手立てはないわけです。
しかしながら、その「意識」の中身は、まさに玉石混交、叡智と狡知、明晰さと愚鈍さ、亡霊と生霊、それらの集合体です。
しかも、どれ一つとして未知のものはなく、すべて既知のものしかありません。
「考え」というものが、そうした澱みを下地にしている限り、そこに明るい日の差す出口は見つからないのではないですか?
いつの日も人類の悲劇は、自らというエゴの拠って立つ「考え」が巻き起こしてきました。
人間の考えそのものが二元性を基盤にして立つ以上、そこに分裂や葛藤、闘争が現れます。
たとえば「戦争のない世界」。
(「非暴力」同様、そもそもその考え自体が典型的な二元論ですが)
それが「悲願」であれば、いい加減叶えてもよさそうなものですが、それを悲願として遠くに置くことで、かえってそれは永遠に実現しないものになってしまいます。
悲願である限りそれを考えているでしょう?
だから、私たちは「永遠(平和・自由・・)」そのものを手中に収めることなしに、その前であぐらをかきます。
考え。
それがどんなに良い、素晴らしい、叡智にあふれるものであっても、それは必ず反対者を生じ、無効化、劣化、無知に堕します。
ひとは、なにか困難に直面すると考えこみます。
実はすでにそこから泥沼に片足を入れている格好です。
なぜなら、その行為は、事実を事実として見ない、または見たくないということにほかならないからです。
事実が不本意であることから何か別の脱出口を探します。
それが過去の経験、記憶、本や他人の意見などから身につけた「考える」という行為のやり方です。
それにはときに長い時間を要します。
というよりも、その当人が長い苦悶の時間を生み出しているのです。
考えは、やがてそこに幻想(イメージ)を描き、それにしがみつこうとします。人は何かしら虚構の自己防衛、安全策を創り出すのです。
自分を差し置いてどこかの権威や教義、グルに縋る行為がそれです。
しかし、言うまでもなく、それが幻想であることから、儚く消え去ります。
いかなる崇高な哲学、思想、宗教であれです。
石井さんも口癖のように言い続けました。
「考えるから駄目なんですよ」
「人間の考えは苦労が多い、考えずに思ったことをすぐやりなさい」
私は、彼の言葉を200ほどリストアップし、プリントアウトしたものを大事に持っています。
では、彼の発言の、一体何パーセントくらいがそうしたことを言っているとお思いですか?
驚くなかれ、実に100%です。
彼は、生涯「考えずに思ったことをやる」哲学を提唱してきたのです。
それが彼の「超念力」の源泉です。
「念」すなわち今の心
かねがね思っていたことですが、「念」の「力」とは、「今」の「心」の「力」です。
念は、一般的に言われるように、何か一つのことを強く念ずる、意識するということではありません。それは「集中」であり、「我執」が入ります。
では、今の心とはこれ如何に?
念とは、まさに今思ったことです。
人によってはそれを「ひらめき」といいます。
素直にそうです。
それを行動に移すだけです。
後にも先にもそれだけ。
では、そこにある力とは?
それこそがとてつもないものであることは想像に難くありません。
ここで、今さらっと書いたことは、ひょっとして、実は過去にさまざまな哲人がさんざん叡智を絞っても辿り着けなかった真理(という表現は嫌いですが)ではないのか、と思うのです。
なぜなのか、と言いますとすでに答えは出ていますね。
彼らは考えているからです。
ある意味、偉大な哲学者、またベクトルは違いますが偉大な芸術家というもので幸せな方はいません。
まるで、彼らの生命がその「叡智」や「美」というものに吸い取られ、彼ら自身はボロボロになるまで犠牲になったかのごとくにです。
それが「考え」というものの限界であり恐ろしさです。
逆に、いわゆる「世紀の大発見」というものが、その発見者が考えた末に絞り出したものではなく、自我のないとき、明け方の寝覚めのときなどにふっと差し込む天啓のようにしてやってくるのはなぜでしょうか?
わたしは、いま、○○を思いました、それをやっています。
これ以上ありのままの生き方はありますか?
あなたは、ありのままですか?
おかしな話ですが、あなたにそれができますか?
する勇気がおありですか?
拍子抜けしてしまいますね。
それを真理というのなら、なんで人生こんなに苦労して生きているんだ。
そんなんで幸せになれるならだれも苦労なんてしやしない。
そんなものが真理であった日には、なぜにわざわざ難解な哲学や心理学、精神分析学やらで人智を絞る必要があるんだ。
では、仏門に入ったり、修道院に入ったりして、彼らはいったい何をやってるのかってことになるじゃないか。
思ったことをやるって? それではこの世は修羅場になるだろうに。
彼らは一人残らず考えています。
こうすればああなる、ああなればきっとそうなる、そうなれば・・。
それがこれまでの私たちの「やり方」だったのです。
石井さんの行為を見ていますと、それは何か歪んだもの、軌道を外れてしまったもの、あらぬ方向に行ってしまったものを元通りに収める、元の位置に戻すといったことのような気がします(病にせよ「不幸な出来事」にせよです)。
そう、ありのままの姿にです。
勘違いをされたくないのですが、私は彼の崇拝者でも信者でも何でもありません。
石井さんご自身が墓参りもしたことがないような無信心だそうです。
大の宗教嫌いで、彼の団体を宗教法人にはせず、株式会社にしたほどです。
もとより宗教ではないですから当然ですが、他の誰においても私は「その人物に付く」ことはしません。「人物」とは、私たちが勝手にそこに投影したイメージでしかないからです。
私が問題にしたいのは、人物ではなくその中身です。
人物というのは、その中身があふれ出たものだからです。
そのうえでのお話です。
ことごとく人心の荒廃、人間性の劣化、鈍化があからさまな現代社会では、特に未来への夢、理想像を持つことが美徳として扱われています。
瞳をキラキラと輝かせんばかりに・・。
また、私たちは、その孫子の世代にまで大きな期待を寄せています。
それは、今の私たちでは社会をよくできないから、未来へ子孫へとそれの実現を託す、という「先延ばし」に過ぎません。
それは、ダイナマイトの手渡しのように、核心を「今(私たち)」からずらしています。
さあ、どうやら私たちは、何かただならない世界への入り口に立ってはいませんか?
過去に人類が一度もその扉を開けたことがない世界の。