サキ①
おっとっと。
私はファミレスに行くと、いつもドリンクバーでグラスいっぱいにジュースを入れる。ケースに整頓されたグラスをひとつ優しく取り上げて、まるで初恋のあの子の瞳のように透明なグラスを綺麗なオレンジ色に染め上げたら、溢れそうになるグラスを右に左に、丁寧に丁寧に席まで運ぶ。側から見たら、その姿は正に油断大敵そのものなんだろうな。何だか偉い王様の家来になった気分だ。そんなことを考えながら私は足元をかけていく子供を避けて席へと向かう。飲み物を零してしまったら一大事だ。なぜなら、まず店員さんに迷惑をかけてしまうし、何よりみんなの視線が私に釘付けだ。それは絶対に避けなければならない。それなのにこんなことをしているのは私がとっても面倒くさがりだからだ。なるべくエコに生きたいと常々思っている。一度に沢山持っていけばその分席を立たずにすむ。席を立つだけでエネルギーを使う。歩きなんてしたら、もう考えたくもない。なんなら席にドリンクバーをつけてくれたらいいのに。ドリンクバーを見るたびそんなことをよく考える。
均等に力を込めていくこの感覚も丁度ジュースを運ぶ時に必要なあの平衡感覚に似ている。この儀式とも呼ぶべき神聖な行いでは、少しの力加減の差が全てを台無しにしてしまう。ゆっくりとゆっくりと辛抱強く力を込めて行く。そうすると、ふと自分の右手に膜を破ったような感覚が確かに伝わる瞬間がやってくる。この瞬間、私は生を実感することが出来る。ああ、私は生きているのだ。私は生きていていいのだ。それから世界が色づき始め、小鳥の囀りや川のせせらぎが私を癒してくれる。まるで、泣きじゃくった赤ん坊が親に抱きかかえられた時のような安心感を与えてくれる。自分が最も興奮出来るこの力加減を習得するまで、私は一体どれだけの時間を掛けてきたのだろう。そして一体どれだけの命を奪ってきたのだろう。これはどこかで聞いた話だけれど、この世には他人の臓器を食べることで自身の体を増強させようとする部族がいるらしい。私のこの行いもその感覚に近いのかもしれない。
ふと、以前仲良くなった男にこの話をして糾弾されたことを思い出した。あくまで私は、そういうことをするのも面白いかもしれないね。というスタンスで話していた。それなのに、あの男は私があたかもそういうことをしているかのような勢いで怒ってきた。正義感の強い男だった。私にはそれが許せなかった。いかにも私はそういうことをしているのだが、自分の中の正義などという曖昧なもののために他人を断罪しようというその考えが気に食わなかった。そもそも命というのは他の命の犠牲のうえに成り立っているではないか。それなのに、どうして私だけ責められねばいけないのだ。食べてしまえば許されるのか。無駄な殺生とは一体何なのか。人々は家畜を殺し、その肉を食べることで生きている。私のこの行いだって殺して生きると言う点では同じじゃないか。そうしなければ私が死んでしまうのだから。私にはその違いが到底理解できなかった。
柄にもなく憤っていたが、自分の目に汗が入ったその痛さで我に帰る。そういえば今日はとても暑くなるらしい。今朝のテレビ番組で容姿だけで生きてきたような綺麗な女のキャスターが、その可愛らしさを存分に振り撒きながら、熱中症に気をつけましょう。と注意を促していた。
この時の私の胸の昂りは蝉時雨をも掻き消し、燦々と照りつける真夏の太陽よりも熱くなっていた。