秋の戯れ
秋は人を詩人にするのでしょうか。うんざりするばかりの暑い季節がこちらを名残惜し気に振り返りつつもようやく去っていく気配のなか、気温がひんやりしてくると、身体がこわばって防御の構えをとるようになります。それと軌を一にして、感性が前面に出てきて研ぎ澄まされるような気分も生まれます。暑い時には詩的な興趣など湧きもしなかったのですが、秋は人間に詩的な思索を強いるのかもしれません。人間の思考というものは所詮、身体感覚がもたらすところの影響からは逃れられないのだろうか、などと考えてしまいます。しかし人間に強制されるよりははるかにまし、とは言えるのかもしれません。
秋のもたらす物悲しさに、若い頃は魅せられたものでした。冬という枯れた、薄暗い、仮死の季節に向かってひた進む中で、手探りで体温のようなものを求めて足掻くことに、人間の卑小な美しさを感じるような気がしたのです。人工的なワンルームの区画に引きこもっていたとしても、冷気という自然現象はある時期になると否応なく入ってきて、お前の生きる力を見せてみろと迫って来るのです。冬支度をしながら、心の中が整理されてゆく、というよりは、心の中の夾雑物が乱雑に混ざったまま明確になる、という感じでした。
思えば自分は自然に任せて、流れるままに生きてきたように思っていましたが、実はそうではなかったと今にして思います。寒い季節に、寒さに抗って生き延びねばならないように、世間あるいは集団というものに、ひたすら抗って生きてきたのかもしれません。抗ったというと格好が良すぎますが、それをいなしたり、避けたり、そこから逃げたりして生きてきたということは間違いなさそうです。そのままじっと暮らしていけたらよかったのですが、この資本主義社会ではそういうわけにもいきません。もちろん生き抜くための原資、稼ぎというものが必要だったのです。七転八倒しながらなんとか職を得て、そこでスキルを磨くというよりは長年の経験だけで習熟したという感じでした。時々自然の流れに任せて生きてきたという方もおられますが、自分の場合は、これまでの人生、自然の成り行きに任せていたら、環境が良くなることも悪くなることもなく、何も起こらずに時間をただ浪費するだけでした。自分を積極的に投企するということが苦手で、特になにもしないまま過ごしていけるような人間というものは、存在するのです。百姓の血を引いているせいかはわかりませんが、毎日が似たような生活の繰り返しでも、何ら苦痛というものを感じないようなのです。しかし人間関係はいやなのです。生活の中に人間関係が入ってくると、嫌気がさして逃げたくなるのです。
秋と詩人の話から完全に逸れてしまいましたが、些事の合間になにやら取り留めなく考えてしまうのも、秋の戯れというべき現象なのかもしれないと思ったりするところです。