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ショートスリーパー鷗外

 内田魯庵による明治文壇人物評は、実際に対面した印象に加えて、しばしば噂話にまで及んでいる。明治の中頃に森鷗外と知り合った魯庵は、しばしば鷗外宅を訪問するようになって、世間に言われる「冷たい」とか「人間嫌い」というイメージとは反対の、いつも客を招いていたという鷗外の人間臭い一面を知るようになる。
 官吏でもあった鷗外宅を訪問していくのは、いつも夜遅い時間にならざるをえない。ある時、夜更けまで鷗外宅に居座ってしまった魯庵が、若い下女に対して時間を尋ねたところ、下女が「モウ十二時です」と答えたのに対し、鷗外は「『マダ十二時』だと言え」と一喝し、魯庵に対し「僕の処は夜るが昼だからね」と言ったという。

こんな塩梅で、其頃鷗外の処へ出掛けたのは大抵九時から十時、帰るのは早くて一時、随分二時三時の真夜中に帰る事も珍らしくなかつた。私ばかりぢやなかつた、昼は役所へ出勤する人だつたからでもあらうか、鷗外の訪客は大抵夜るで、夜るの千朶山房は品詩論壇の盛んなる弁護に更けて行つた。

内田魯庵「鷗外博士の追憶」

 こんな具合で鷗外はいつ寝ているのか。引き続き、鷗外のショートスリーパー具合について、魯庵はいくつかの逸話や噂を述べている。
 たとえばこんな話。魯庵の知人(一説には東大生であったという)が、鷗外の近所に引っ越した。その知人は、鷗外宅の窓の明かりが消えるまで競争して勉強しようと考えたが、いつも負けて先に就寝してしまった。ある時、寝付けずに鷗外の窓を見ると、点灯していた明かりがふっと消えるのを見た。時間を確認すると、明け方四時だった。その知人は、「これではとても競争ができない」と魯庵に語ったという。

『人間は二時間寝れば充分だ』といふ言葉は度々鷗外から聞いた。『那破烈翁ナポレオンは四時間しか寝なかつたさうだが、四時間寝るのを豪がる事は無いさ。』と平気な顔をして、明け方トロトロと眠ると直ぐ眼を覚まして、定刻に出勤して少しも寝不足な容子を見せなかつたさうだ。

内田魯庵「鷗外博士の追憶」

 他方で、さすがの鷗外にしても、生活や仕事と睡眠との関係に無頓着ではなかったという話もある。森於菟は「必要なだけの睡眠を適当な時間に分配してとる習慣をつくっていたので、夜半起きてものを書く時もその前後に深い眠りの時間があったと見るべきである」として、夜の眠りの短さは、時間を効率的に使うための鷗外の睡眠管理術の一環であったと証言する。
 また、長谷川泉『森鷗外論考』には、山田弘倫の著書を引用しつつ、以下のように述べられている。

「閣下の本と筆を離さるるのは、夜分お休みの時だけでせう」という言葉に対し、鷗外は「イヤ我輩の様に本を読むのは余り良くないよ、夜をふかして午前二時過ぎにもなると、本に中毒すると云ふのか、明くる朝になつても、昨夜読んだ本が眼前にちらちらしていけない。」と答え、翌日陸軍省に用事があったり、会議がある時は、なるべく十二時までに切りあげるようにしていると述べている。また「夜なかに思つた事」のなかには、「三時にならない内に寝ないと、あすの朝寝惚けてゐて、役所へ出掛けに、馬からでも墜ちては大変だ。どれ、寝るとしよう。」とも書かれている。異常な精進である。

長谷川泉『森鷗外論考』

 「異常な精進」というのはそのとおりで、これほど睡眠せずに動き回っていれば、興味の赴くままに読書・思考・執筆ができたのは無理もない。しかも鷗外は入浴も嫌いだったらしく、「風呂キャンセル界隈」の文豪的先駆けなんてことも言えるのかもしれない。

 『百物語』に収録された「不思議な鏡」の冒頭にも、鷗外自身の睡眠への考え方と思しきものが述べられている。この話の主人公は、「脳髄も働けば酸つぱくなる。それをアルカリ性に戻す間休ませて置くのが睡眠である」と、科学的なのかそうでないのかわからないような説を語ったうえで、睡眠というのはほころびた羽織を縫い直す間、寒くてもおかみさんに預けておくようなことで、どうしても考える事がある場合、ほころびを半分修繕した羽織を引っかけて用足しするように、睡眠状態から少し脳髄を取り戻して使うのだという。

己は昼は物なんぞ書いてはゐられない身の上なので、夜なかに起きて書く。穴の半分潰れた羽織を着るやうなものである。

森鷗外『百物語』

 このように鷗外は、思考することは生理現象のようなもので、特別なことはなく、生活時間の合間に行う程度のものだと認識を主人公に語らせている。そして、そんな「用足し」程度のことを精力絶倫だと冷やかし半分に褒める批評家がいると皮肉る。さらに批評家たちからは、そういう半分の気持ちで書いているおかげで作品に悪口を言われるとする。特に「作品に情がない」との評言に対して愚痴っているのだが、その薄情さは、半分ほつれた思考で書いているせいではなく、「元から無いのださうだ」と皮肉とも自虐ともつかない語りをさせる。
 ちなみにその後、新年早々の朝から家計のやり繰りの話題が出て、主人公の妻は書籍代が馬鹿にならない、特に西洋の本が一番多いと詰る。これに対し主人公は、己の智慧が足りないので西洋から借りて来るしかないのだと話す。「そんなに西洋から借りてゐて、いつか返せて」と妻が言うのに対し、主人公は「それは己の代にはむづかしい」と答えるしかない。

 鷗外にはやりたいことがいくらでもあって、時間が足りなくて仕方なかったのだろう。そうして興味の赴くまま、鷗外は「ディレッタント好事家」としてあらゆる雑記を吸収して博覧強記になっていった。そして、硬軟様々な知識を蓄えていくうちに、常人とは違ったオーラをまとっていったようである。

 鷗外を街中で目撃した作家たちは、一様にそのただならぬ雰囲気を語っている。たとえば石川淳は、中学生くらいのころ、電車の中で通勤途中と思しき鷗外を見かけた。

ある朝、すこし遅れたので、その乗換場で出ようとする電車にあわてて飛び乗った。そして、中のほうへ行こうとすると、とたんに足がびくりとした。いそいで書いてしまえば、つい向うの席に鷗外が腰かけていたのだ。
 こう書くと、前から鷗外を知っていたようだが、実際にはなにかでちょっと写真を見ただけで、その印象もぼうとしていた。千朶山房主人が電車で役所に通うといううわさを聞いたことはあるが、ふだんそれを気にかけているわけもなかった。だが、そのとき軍帽と、横顔と、耳の下の骨がとがっているのと、口髭と、マントと、軍刀と、軍刀の柄の上に置いている手と、その手が開いている横文字の本とをちらっと見た刹那、すぐ鷗外先生だと思った。この判断は一秒とかからなかった。それよりはやく足のびくりとしたのがなにより証拠である、鷗外でなければ、そういうはずはなかった。

石川淳『森鷗外』所収「諸国物語」

 その後、石川は鷗外の横顔に見とれてしまい、釘付けになった様子を書き記している。幸いにも次の停車場で人が大勢乗り込んで来て、その波に紛れて下車したために、幸いにも釘付けからは解放されたのであった。しかし、この印象は強かったようで、後年に至っても「爾来鷗外のことを考えるにつけ、おのずから電車の中で見た横顔が眼さきにちらちらして来て、それがまたわたしの理解を助ける」と述べている。

 芥川龍之介も以下のように書いている。

 又夏目先生の御葬式の時、青山斎場の門前の天幕に、受附を勤めし事ありしが、霜降の外套に中折帽をかぶりし人、わが前へ名刺をさし出したり。その人の顔の立派なる事、神彩ありとも云ふべきか、滅多に世の中にある顔ならず。名刺を見れば森林太郎とあり。おや、先生だつたかと思ひし時は、もう斎場へ入られし後なりき。

芥川龍之介「森先生」

 この芥川の回想はほめ過ぎて、皮肉っているのではないかとさえ思えるが、鷗外はとにかく尋常ではないオーラを放っていたようだ。

 伊藤佐喜雄は、鷗外のショートスリーパーぶりについて、「睡眠三時間といふ伝説は、その精力への驚嘆よりも、かへつて痛切な自戒の細心さを見るべきである」(『森鷗外』)として、鷗外自身の自戒の心構えに由来するのであり、その自戒は鷗外にとって窮屈なものではなく自由の端緒であったと述べている。

 鷗外は自由に思考するために、睡眠不足による思考力の低下を厭うよりも、好きなことをしていると時間を忘れる、という趣味人の流儀を優先したようである。それは決して文豪だからとか偉人だからと称賛されるようなものでもなく、要するに我々が趣味に没頭するのと同じで、好きなことをするためにどうやって時間を捻出するかという、そのための睡眠管理にすぎなかったのではないか。おそらく現代にもこういう人は一定数いて、様々な分野で業績を上げているのだろう。もっとも、睡眠欲を何よりも優先させる自分は、そうなりたいかと言われると、頭を抱えてしまうところではある。





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