こども戦国録
急にテレワークの風潮が始まって、最初はあの煩わしい通勤を省けるのは有難いと思っていたが、だんだんとそのネガティブな側面もわかるようになる。文京区小石川地区の一室において、近所の未就学児童たちが家の真横の道路で遊んでわーわー騒ぐ声が、在宅勤務で逃げ場のない部屋の中に響いてきて、なかなかに堪え難いことがある。
しかし、遊び声に遮られて仕事が捗らずとも、これに眉を顰めるのは大人気ない。親は元気な子供を見て心の糧とし、この笑顔があれば勇気百倍、万難恐るるに足らずと己を鼓舞するだろうし、何より子はかすがい、国の宝である。都会は遊び場がないから、子供が比較的安全な道路で遊ぶのはやむを得ないと観念するのが大人の態度である。
とはいえこちらも邪魔を被っているのも事実。職場でも耳栓に依存するほどの「繊細さん」であるわが身に、いきなりハイオクターブの金切り声が突き刺された日には、びっくりして仕事にならない。これはさすがに、相応の報いを受けてもらわねば、腹の虫がおさまらない。子供だからとて容赦はしてはいけないのである。
一緒に遊びながら諭すのもいいが、下手を打つとへんなおじさん、単なる不審者になってしまう。そこで、一緒に遊ぶ代わりに、当方の一方的な妄想話に無償で出演していただくことで、その罪をあがなってもらうことにした。表現の自由に訴えるのが、大人のお悩み解消法というものだ。
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筋書きはこうである。お子さま群雄割拠時代を迎えた小石川の某地区において、子供グループの最も有力な武将(すなわちまとめ役)として「ゆうだい」(仮名:以下同・5歳)が君臨している。ゆうだいには「このみ」という3歳の妹がいる。
ゆうだいは夜尿症に悩んでいる。数日に一回は発症する。彼の母親は慣れたもので、いつそれが解消されるか悩みながらも、彼を叱ることはない。彼のほうでも、母の苦悩と自分への気遣いを知っているので、心苦しさは倍増である。母は、彼が失漏した跡に広がる「地図」を水洗いして消してから干す。したがって窓外からの「地図」読み取りによって、夜尿の真相を知られることを防げるのは幸いだったが、それでも蒲団が頻繁に干されていることから、誰かが自分の悪癖を知ってしまうのではないかと気が気ではない。また、大人同士の悪気のない噂話から、子供に情報が通じてしまう可能性も少なくない。まったく大人は子供の感情に対して無神経であるから、パパママグループの会合で「うちの子がおねしょ治らなくて」などと他愛なく言われてはたまったものではない。「おねしょ」などという柔弱な言いまわしを考えた人間が恨めしい。夜尿の事実が知られてしまうと自分の名声は危機に瀕し、下剋上が起きるに違いない。情報管理は安全保障の要であり、尿は漏らしても情報は漏らしてはならぬのが統治の鉄則である。大人たちが、こうした危機管理の基本がわかっていないことを、ゆうだいは不満に思っている。
自らこの地区の大将を以て任じるゆうだいにとって、周辺に住まう個性派児童たちをまとめ上げる事業は容易ならざるものがある。トップの立場には気苦労が絶えない。権謀術数を駆使して、時には手を汚さねばならないし、時には誰かのプライドを犠牲にするような苦しい選択もせまられる。誰かが喧嘩を始めれば仲裁に入らねばならぬ。ほうぼうのうるさ方との合従連衡の積み重ねによって、ここまで地区内の調和を保ってきた。
現在、ゆうだいの影響下にあるのは以下の面々である。
「しょうた」4歳と「りく」3歳の鈴木兄弟。兄のしょうたは頭が切れる、弟のりくは素直である。兄は、いつ何時ゆうだいの地位を脅かすともしれぬ、要注意人物である。兄を牽制しつつ、素直に言うことを聞く弟を懐柔することが、この兄弟を抑える勘所である。
「はるな」4歳と「ありさ」2歳の山村姉妹は活発で、姉のはるなは場を仕切ろうとする癖がある。妹のありさは未だ物心つかないが、気分屋で、わがままな所が目立つ。思い通りにならないとすぐに泣く。ありさがぐずりだして、ゆうだいの妹のこのみがこれに共鳴し、ユニゾンで泣かれると、百戦錬磨のゆうだいであってもまごついてしまう。
それに、唯我独尊のひとりっ子の「かいと」4歳がいる。同い年のしょうたと仲が良く、ちゃっかりしたところがある。
皆ゆうだいより年少なので、割合従順に言うことを聞いているが、時おりコントロール不全に陥るため、その調整を図るのが彼の務めである。
ある時、児童たちの間で、出会いがしらの挨拶として「おならぷー」なるフレーズを用いる盟約が成立した。子供はおならが好きである。おならぷーと擬音までつくと最上級に喜びを催す言葉となるのは言うまでもない。この挨拶はたちまち受け入れられ、その後数日は会うたびごとに「おならぷー」での挨拶が交わされた。時には「おならぴー」「おならぺー」などとバリエーションをつけてこの挨拶は楽しまれた。大人たちは苦々しくその挨拶を見ており、あまりに見かねた時には「そんなこと言わないの!」と、直接口をはさんでたしなめた。しかし、そうした大人側の頭ごなしの容喙は子供の反発心を煽り、むしろこの挨拶方式の浸透を加速させていった。
ところが、この挨拶が習慣となって一週間が経とうとした頃、一人っ子のかいとは突如「おならぷー」をやめてしまった。盟約が破られることは秩序の乱れであると危惧し、ゆうだいが理由を問い詰めた。これに対し本人は多くを語らなかったが、周辺からは両親に厳しく叱られた説や、突然馬鹿々々しくなってしまった説などが伝えられた。そして、かいとの消極的な対応に次いで、しょうたが「おならぷー」盟約の解消に同調した。ゆうだいはグループの中で重要な地位を占める彼らがそうした態度である以上、盟約の存続を断念せざるを得ないと観念した。そして同時に、彼らが大人に恭順していくように思い、強く裏切りを感じた。これが後世にいう「おならぷー騒動」の顛末である。
しょうたとかいとについては、別の懸念材料もあった。同い年で仲良しであり、なにかとコンビでつるんでいる。このところ二人が連れ立ってキッズスケートボードを練習していることも、ゆうだいの肝を寒からしめた。キッズボードは二輪仕様で、操縦の簡易さと機動性のバランスが良く、ボードの真ん中はくびれて可動式になっており、双頭のコブラを思わせるような形状をしている。ゆうだい自身もキッズボードは買ってもらっているが、お世辞にもうまくはない。彼らは上達していく。ゆうだいは、この毒蛇ボードの操縦技能が拙劣であることによって、自分の権威が失われてしまうのではないかと思った。ある夜の夢では毒蛇が牙を剥き、自らの首筋に食らいつく場面にうなされ、その日、ゆうだいは夜尿した。
しかも、しょうたの弟であるりく3歳と、山村姉妹の妹ありさ2歳は三輪車の操縦技術に長けている。彼らの騎馬部隊が合同して、鈴木兄弟と山村姉妹の連合軍として、いずれ自分に対し、機動力を背景として叛乱の狼煙をあげるのではないかと、畏れた。
山村姉妹の姉はるなは、大人びていて何事にも物申すタイプで、ゆうだいはしばしば悩まされている。例えばある時、鈴木兄弟の弟りくが三輪車に乗っているうちに、安全な道路からはみ出して、車の通る道路に行ってしまった。特に事故にはつながらなかったが、はるなはそれについて、兄のしょうたが弟を監督していなかった責任について、ゆうだいからしょうたに言って聞かせるべきだと難じた。
地区を統率する自分が指導を行きわたらせる、それはそうだが、果たして自分が口を出すべきことなのだろうか。そもそも、児童が遊んでいるそばで親が見ていないことが問題ではないか。しかし、ゆうだいはこのような正論がしばしば相手を追い詰め、意固地にさせることを知っている。物事には、時期が来るまでグレーにしておくほうが良いこともある。大人の世界は曖昧さを残すことが原則で、暗黙の了解の網目のような広がりによって成り立っているはずだ。彼の母は、夫が決まった曜日に帰宅が遅いことに対し、疑惑をもっているが、指摘しない。彼の父は、妻が預金から毎月一定額を抜き取っていることを知りつつ、黙っている。そうして知らない振りを決め込むのが大人の世界。そのくせ、子供に対しては白か黒か、正か悪か、はっきりさせて断罪しようとする。子供同士の諍いがあったとき、どちらも悪いとして互いに謝罪させて、早期決着をつけようとさせるのも、そうした思考形態の亜種にすぎない。はるなはこのような大人の欺瞞の論理に乗ってしまって、子供の世界に勧善懲悪を徹底しようとする。大人びているようで、思考において縛られている子供なのだ。せっかく器量が良くても、将来妻とするには、今少し大人になってもらわねばならない。
こうして、小学校に上がる来年までは、ゆうだいは周囲の調和に努めつつ、己の威厳を死守しなければならなかった。上記のように多くの懸念はあったものの、幸いにしてその後、ゆうだいの地位が覆ることはなく、地区の大将の座を保持したまま、彼が小学生になる時期が近づいて来ていた。
今は武将として君臨しているが、ゆうだいはそもそも忍者上がりだったことを思い出す。忍者であることを自覚したのは3歳くらいの時分であって、昨年の今頃は、忍ぶことを人生の第一目標とし、隠密裏の生活を送っていた。移動の際はいつも気配と足音を消すことに努めた。昔の忍者が、ある同じ植物を毎日飛び越えることで、植物の成長とともにジャンプ力が増すというトレーニングをしていた話を読んだ。これに倣って毎日庭の草花を飛び越える修業をしていたら母に叱られたのも、今となってはいい思い出である。鋭敏な情報管理の意識も、忍者の研究で養われたものであった。使うことはなかったが、独自の暗号も考えていた。現在の地位に上り詰めたのは、単純に同い年の子供がいなかったこともあるが、やはり忍者修業の成果が大きかったと考えている。
間もなくゆうだいは、この武将の立場を離れ、新しい世界に飛躍することとなる。小学生になれば、また足軽からの出直しである。この地区の群雄割拠を乗り越えた先にある、これまでとは比較にならない巨大な乱世において、自分は何を成せるのだろうか。それから、人生の一大問題たる夜尿をどうにかせねばなるまい。ここまで積み上げてきた修練を思い出して感慨にふけり、これからの野望に向けて克服すべき課題に思いめぐらせながら、そのへんに転がっていた物干し用の長いポールを拾ってぶらぶら振り回していると、父親に、怪我するぞ、と叱られた。
ある休日。その日は午前中から車に乗って大きな公園に出かけることになっていた。
ゆうちゃん、そろそろ出かけるぞ、と彼の父上が言う。待ちわびていた彼は、素早く反応してそちらを見る。しかし同時に妹のこのみが、ぐずって泣きはじめた。これはいけない。今日のレクリエーションが台無しになってしまう。ゆうだいは、小学生になるにあたって、一家のレク担当を新たに自らに課すことに決めていた。この捨て置けない事態は、担当としての初仕事だ。わが妹の危機を救って機嫌を直し、スムーズな旅程の進行を取り戻さなければ。
「助けに行くぞ!」
と、ゆうだい、颯爽と駆けだした、が、勢い余ってすぐさま転倒。
ついつい、自分も泣いてしまった。武将の最後の男泣きであった。
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このくらいで、胸がすいた。今日も子供たちは路上にて、泣いたり笑ったり騒々しく動いていた。苦笑いしながらそれを見つつ、それぞれの個性が綾なす不可思議な宇宙に、今しばらく想いをめぐらせてみたい。
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