張って生きる
誰もが一度は、寝たいときに寝て、食べたいときに食べて、遊びたいときに遊ぶという希望をかなえたいと考えるかもしれない。しかし、そんな生活がなかなか思うようにいくわけではないし、そういう生き方が実際にできたとしても、すぐに飽きてしまって、いずれは楽しさよりも虚しさが先に来てしまうだろうと思う。人生にはいくらかの制約がないと張り合いがないに違いない。クリアできる程度のハードルのようなものがないと苦悩も生まれず、深く刻まれた苦悩からやってくるところの人間的な色気も生まれず、苦悩の反動としての愉悦の艶っ気もなくなり、人生に張りが失われて、弛んでいってしまう。生活がまったく弛みっぱなしだと、たるんでたるんで元に戻らなくなるのは明らかで、弛まないように引き締めることが求められるのであり、自分に多少は鞭打って頑張る必要がある。
ところでここまで書いてきて気づいたのは「張る」という言葉の多用だ。張り合い、張り、頑張る、いずれにも張るという言葉が含まれている。「張る」は極めて多義な言葉だが、そもそもは物事の表面をおおって広がったり、外に出ていく有様をいう言葉である。人間は自分の内側で思いを募らせるだけでは感情を処理しきれなくなるもので、何らかの外向的な「張り」が無ければならない。時には他人と張り合ったり、自分の中での張り合いを求めて呻吟したり、そのために気持ちを張っていくことで、張りつめた精神が出て来るのである。
「張る」にはまだまだ意味がある。ほっぺたを張る、たたいて刺激して延ばす、その動きでしっかりとさせる、そんな意味もある。物理的にも精神的にも引き締めることが張りである。他人を張るような気持ちで、他人から張られぬように、緊張を保って、ぴんと背を張って、張り合うのである。
張るという言葉はまた、出る杭のような言葉でもある。古語に「承け張る」という言い回しがあり、それは我が物顔に振舞うことである。また「押し張る」とは意地になって意図を強く通すことで、それらは現在でいえば主張という言葉につながっていくのだろう。いずれも他人の存在を気にしない営みであって、我を通すといえば聞こえが悪いが、我を貫くといえば前向きに理解できるかもしれない。人生の厳しい面と、嫌な面と、積極的な面とを表象する言葉が「張る」なのである。自分を顧みても、現代のような心理学蔓延の時代では、実にこの「張る」ということは「空気を読む」と相反する要素が多く、苦手な人が増えている傾向を感じる。組織において、出張って主張ばかりの人は厄介扱いされるというのも一因にあるかもしれない。一方で人は、「張る」に対するコンプレックスを本来の場所ではないところで密かに解消したがっているようにも思う。SNSで何の気づかいもなく意見を押し通す人々を見ていると、そんな気がしてならない。実際の社会では、多くの人が外に向かって「張る」姿勢を見せられない。しゃっちょこばって引っ込んでいる。張りつめて辛い気持ちを解消するとか、緊張をほぐす方法とかがよく言われるように、「張り」というのは鬱々としたり神経的な病理に近い所にあるだけに、近年ネガティブに捉えられることも多いが、しかし「張り」を一面的な悪として蓋をしてしまえば、人生はつまらない。そう言い聞かせることも必要なのだと思う。
また、古語では「張る」に芽が出るという意味がある。木々において出よう出ようとする生命の意志が、ついに表皮を破って出て来る、あるいは地中に潜っていた種が、地表を貫いて出て来る。瑞々しく新しい姿を現す。意志によって新生を獲得する。人間においてもまた、気を張っていくことで、文化的あるいは芸術的な意志の発芽を試みるわけである。頑張って、気を張って、物事を試みていかなければ張り合いもなく、行き詰ったときには一発自分の顔を張り手でもしてみれば、お肌にも張りが出て来るはずで、若々しくいるには張りというものがいつまでも必要なのだ。自然な、ありのままの老いが美しいという意見も昨今あって、それはそれで否定されるものではないが、肉体はともかく心の老いは人生を無色透明に塗り替えてしまう。自分は顔の皮膚も弛んでしまったが、心まで弛んでしまうことも、止めることが日々難しくなっているように思われる。若かろうが老いていようが関係なく、「張り」というものを維持して生きて行くことが人生の豊かさを生むのだろう。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?