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じわじわと生きる

 それなりに長く生きていると、人間突然には変われないということが身に沁みてわかってくる。以前の自分は変な思考の癖を持っていた。例えば3日後に何か大きなイベントでプレゼンしないといけない、ということがあったとする。その時に、以前の自分は、3日後のプレゼン時の自分は今の自分と大きく心構えや緊張感が違う別人なのだから、前日の準備で一気に変化する、よって早いうちにそれを予測して心配する必要はない、というマインドをもっていた。しかし今は違う。プレゼンを行うのは、現時点での自分とそれほど変わらない自分であるから、現在の自分の水準で高いパフォーマンスを出すにはどうすればいいか、ということを考えるようになっている。つまり、イベントという追い込まれた状況において、人は超人的な力を発揮するものだというのが以前の考え方で、やる気になればできるのだと高をくくっていられたわけだ。しかし、それは単に若い力にすがっていたというだけのことに過ぎないということがわかり、そんなことは不可能で、少しずつ進歩するものだから、今の自分がパフォーマンスすることを想定して臨むべきであると思うのである。

 学問に対しても、若い頃は似たような考え方があったような気がする。例えば大学に入学して、自分の好きな勉強ができるという期待もあったには違いないが、結局実際にどんな学び方をしたかといえば、大学の定期試験を通過すればよいという、いかにも試験中心主義というか、受験生のマインドから逃れていなかったようにも思える。このように若い頃の自分にとって、知識というのは、多くはその場しのぎのものだった。要するに試験に対応するためのものだった。人に向かい合うことが苦手なために、他人からの関心を得たり評価されたりする手段として、試験で実力を示すしかなかったという事情もあるにはある。小学生から受験競争に放り込まれ、試験で点数をいかに獲得するかという技術の習得のために必要なものだった。それが、部分的には教養となって残っているものの、今、真に考える力のもととなる知識を必要とするにあたって、そうした習得方法のツケを強く痛感している。しかし他方で、わずかに教養として残った知識の残りかすが、自分を首の皮一枚で活かしているという感じもする。受験ということがいいのか悪いのか。少なくとも人間に無用のストレスを与える害悪だと思わなくもないが、しかしそういう問題ではなく、受験勉強などというのはきっかけでしかなく、それを通じて教養をつけるという目的がきちんと見えていた人間は、正しく処していけたのかもしれない。しかし自分について言えば、知識は真の理解に及ばないまま若い記憶の力技で膨大に蓄積されたのだった。ただし、ここで言いたいのはそれに後悔しているということではない。そうした知識の欠片たちが、全く役に立たないということは実は無くて、言葉だけ頭に漠然と残っていたことが、ふとした弾みに理解に至るという不思議な経験も、たしかにあったのである。実は知識を使い捨てる思考から、成熟するに従って、形骸化して使えそうもない古びた知識を、再活用するリサイクル思考が、徐々に獲得されてきたというべきかもしれない。記憶力を失った代わりに理解力を養う方向に転換していっているというような、そんな気分である。今師事している先生からは、ものを読む時に、若い頃の読み方と、成熟してからの読み方は、また違ってくるという教示を受けた。それは、若い頃に読んだ本が歳を重ねて読むとまた違った印象に見えるといった通俗的な意味のほかに、地に足をつけて読めるということがあるのかもしれない。若さゆえの性急さというものがなくなり、知識が定着すればよし、しなくともどうにでもなるだろうという一種の余裕が、自分に備わったおかげかもしれない。それにしても、日々積みかさねられていく情報の渦の中では、知らないことばかりだし、すぐ忘れて行くので、おっさん大学院生というのは相当に大変な苦行には違いない。

 知らないということが恥ずかしいという気持ちは未だに残っているが、知らないことは知らないと言えるようにも、半分くらいはなってきた。知らないことをわかっていく、痒いところになかなか手が届かないもどかしさ・苦しみと、少しずつ届いていく楽しみ・喜びに真剣に向き合っているような気がしている。喜びのためには苦痛を伴う。性急に身につけたものは急速に失われる。じわじわとわかってくることの快感を、もっと噛み締める必要があるのだと考えている。それは学問や知識の問題だけでなく、生活についても同じことだと思う。時間がないなどと思って焦りを感じてはならないのだろう。




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