こども妖奇譚
家の前の路上では、小学生くらいの子供が夜の7時や8時になっても遊んでいることがある。自分が子供の頃は夕方5時には帰ってくるように強く言われていたものだが、親は心配しないのだろうかとこちらが心配になる。治安の良い都市部の住宅街のこととて、安全をそれほど気にしていないのかもしれない。それどころか、家にうるさい子供がいなくて厄介払いする気持ちも含んでいるのではないかと邪推してしまう。
それはさておき、夜遅くまで遊んでいると妖怪に遭うという危険性を子供に教えておくべきではないか。都会だから妖怪などいないと決めつける根拠もなかろうに。そんなふうに考えているうちに、またいらぬ想像力が働いて、変な話を思いつく。
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昴太のクラスでは毎日帰る前に全員で、自分の頭に両手を置きながら「じぶんのからだはじぶんでまもろう」と唱える習慣があった。警戒する対象は交通事故であり、不注意の怪我であったり、様々だけれど、不審な人間から身を守るというのは、このご時世では一番注意を要する。
そうして安全に努めるべく、いつも帰り際に全員で復唱する。そうはいっても子供のこと、自分が何者かに危害を加えられることが、なかなか想像はできないものである。
昴太は物心ついたときから妖怪が好きだった。なんならそういう怪しい存在に、実際に出会ってみたいと常々考えていたのである。妖怪好きが高じて、両親にねだって妖怪図鑑を買ってもらったのは一年前のこと。彼の父親は父親で、へんてこな人形を集める趣味があったので、昴太が奇妙なものに関心を持つのはその悪影響であるとばかりに、母親は父親を詰るのが常だった。ある時、昴太がいつものように、擦り切れんばかりに妖怪図鑑を眺めていると、天狗と並んで烏天狗が描かれていたページに違和感を覚えた。烏天狗のイラストだけが薄く消えかかっているような気がしたのである。
公園に、鉄棒の練習をする青年が現れたのはそんなときだった。子供たちはその公園にやってくる体操のうまい青年の周りに集まって、彼はたちまち人気者になった。
子供たちは青年が公園で大人向けの高い鉄棒に登って、くるくると大車輪をしているのを見てすごいすごいと感嘆した。青年は、大学の体操部ではこれくらい当たり前だよと笑いながら、ひょいひょいと難しそうな曲芸を披露した。そして、時々子供たちにも簡単な体操を教えてくれたので、放課後の少年少女たちが集まるようになった。
昴太は密かに彼を「カラステングのお兄ちゃん」と呼んでいた。ほどよくしなやかに鍛えられた筋肉に、鋭い鼻、やや突き出た口の形は、まさにあの図鑑の消えかかった烏天狗にそっくりだと感じられたのである。しかも青年が公園に現れるようになってから、烏天狗の図柄はほとんど消えていて、昂太は完全に彼を図鑑から出て来たカラステングだと断定していた。
そんなカラステングのお兄ちゃんについて、どこからともなく、子供たちの身体をやたらとべたべた触っているという噂が町内に立った。最初は子供たちと一緒になって青年を支持していた近隣の親たちは、ころりと手のひらを反し、それとなく子供たちを彼から遠ざけるように振る舞いはじめた。やがてそれぞれの家庭では、子供たちはカラステングのお兄ちゃんと遊ぶことを明確に禁じられた。
昴太の母親も、あのお兄さんは怪しい人かもしれないから近づかないようにと昴太に諭した。そうして奇妙なよそよそしさが公園に蔓延するようになってしばらくして、お兄ちゃんは公園に姿を見せなくなった。
ある日の夕方、昴太が学校からの帰り道で公園の前を通ると、カラステングのお兄ちゃんが、一人でベンチに座っているのを見かけた。
辺りに誰もいないのを確認してから昴太が駆け寄ってみると、青年は苦笑いを浮かべながら
「まったく、人間てのは、しょうもない噂に惑わされるから嫌になるよねえ」と言った。
それほど落胆や憔悴している感じではないように見えて、昂太の気持ちは少し軽くなった。
カラステングのお兄ちゃんは問いかけた。
「君は僕が子供たちに悪いことをしていると思うかい?それとも、僕が嘘つきだと思うかい?」
昂太はすぐに心の中で「違う」と言ったが、言葉が喉につかえて、出すことができなかった。
「そっか。口だけで言ってたって信じられないよね。」と言って微笑したが、にわかに青年の表情がさっと険しくなった。鋭い形相を作ったかと思うと、カラステングのお兄ちゃんは突然鉄棒にひょいとつかまって、目にも見えない速さでくるくる回り始めた。あっという間に青年は風をまとい、回転はたちまち速度を上げ、目にもとまらぬ速さになり、やがて円から強烈な風が吹いているような形になった。しかしどういうわけか昂太だけは飛ばされないで、台風の目の中にいるように、風の中に自然に立っている。茫然とする昂太の耳に、男の叫び声が聞こえたような気がした。
昂太は母親が夕食に呼ぶ声で気がついた。自宅のベッドの上だった。もちろんカラステングのお兄ちゃんは、影も形もない。
翌朝、あの公園に指名手配犯が潜伏していたとの情報が流れた。昂太は、昨日のあの出来事が幻ではなく、カラステングのお兄ちゃんが危険人物から自分を救ってくれた出来事であると信じた。しかしそのことは誰にも言わなかった。
ひょっとしたらと思いついて、お気に入りの妖怪図鑑の天狗のページを見ると、果たして鼻の大きな天狗の絵と並んで、鼻筋の通ったくちばしの大きな烏天狗の絵が、そこに――
戻っては、いなかった。やはり絵は薄く消えかけたままだった。それでも昂太は、青年がこの図鑑から飛び出した烏天狗であることを疑わなかった。きっと彼は、本来の住処へと帰っていったのだと思った。
「じゃあ、俺はもう人間は飽きたから、もとの場所に帰るよ。」という青年の声が聞こえるような気がした。昂太の心の中の烏天狗は、心なしか悪戯っぽく微笑んでいる。
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この話の主人公である昂太が大学生になったとき、ある妖怪好きの友人がいたとする。その友人は妖怪好きが高じるあまり、民俗学の研究に足を踏み入れていた。彼らが飲んでいると、無口な昂太が聞き役に回るのに対して、相手はどんどん話が湧き出てくるのが常である。彼は友人が熱っぽく語るのを見ながら、いくら柳田や折口を繙いたって、自分の目で妖怪見たことないだろう、俺は本物の烏天狗を見たことあるけどな、と優越混じりの微笑ましい気持ちで聞いているのである。
なお、烏天狗が仏道から生まれる事例については、以下のような文学者の記述もあるのでご参考まで。
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