草を食む文学者
今日も今日とてぼんやりと国会図書館のデジタルコレクションを見ていたら、『草の味』(昭和18年)という本に突き当たった。戦時中の食糧難を乗り切るために、野草を食べることを推奨する趣旨で書かれたようである。著者の名前は大泉清とある。
大泉清という名前は聞きなれないので、どんな人物かなとGoogleに聞いてみたところ、文学者の大泉黒石(1893/94-1957)に行き当たった。大泉清は大泉黒石の本名だったのである。恥ずかしながら大泉黒石という名前すらも知らなかったが、Wikipediaで立項されるくらいなので、知る人は知っている文学者なのであった。
Wikiの解説その他によれば大泉黒石は、父親がロシア人、母親が日本人のハーフであり、母は黒石を産んですぐに逝去、父も比較的早くに亡くなった。黒石の父親は、ロシアの皇太子(のちのニコライ2世)が日本旅行に来た際の随員だった。その際に皇太子が護衛巡査に太刀で切りつけられて負傷した、いわゆる大津事件が起こった。
黒石は『俺の自叙伝』という自伝小説で、その半生をさらけ出すことによって文壇に現れ、その後アナキズム小説とも評される『老子』やその続編の『老子とその子』がヒットしたという。他にも『人間廃業』や『人間開業』などといった意味深なタイトル(人間廃業は太宰の「人間失格」に影響を与えたという説もあるとのこと)の小説や、あるいは映画台本として映像化を前提に書かれた台本集の『血と霊』、死生観を描いた思弁的な『大宇宙の黙示』、『眼を捜して歩く男』という奇怪小説、さらには『峡谷を探ぐる』・『峡谷と温泉』・『山と峡谷』・『山の人生』などの紀行文や自然散策の本も出している。小説以外にも回想、随筆を世に残しており、「全集」まで出ている。
昭和初期には、作家林芙美子の隣人であったことで、黒石の娘が芙美子に可愛がられるなど、家族ぐるみの付き合いがあったようである。(なお、俳優の大泉滉は黒石の息子。)しかし国家主義的な風潮や人種偏見などによって、文壇一般からは次第に遠ざけられるようになったとされている。
また、ネット経由だけでも、黒石について紹介したブログ記事や論文情報などはたくさん出てくる。ことに近年、その国際性とユニークな立ち位置、そして不遇の生涯と多角的に、最近注目されている文学者なのだった。
最近の注目を裏付けるように、つい先日の2023年4月には、四方田犬彦著『大泉黒石――わが故郷は世界文学』という評伝が刊行されていた。
同書の版元情報にある以下の四方田氏の「あとがき」抜粋が黒石の生涯のエッセンスをまとめてくれている。また、この本の詳細な読書記録もさっそく見つけることができた。
そして、これに合わせたのか、『俺の自叙伝』がこの5月に岩波文庫で発刊されるらしく、プチ・フィーバーの兆しすら感じる。
黒石の作品のほとんどは国会図書館のデジタルコレクションで読むことができるので、いくつかつまみ読みしてみた。なにしろつまみ読みであるから読解は甚だ粗雑なものだが、それだけでもいくつかの興味深い発見があった。
『俺の自叙伝』は、黒石がロシアで暮らした際の文豪トルストイとの交流も描いている。そこではたとえば以下のようにトルストイが「爺さん」呼ばわりされて、トルストイとの親密さが表現される。ロシアでは清はキヨスキーと呼ばれていたわけである。
また、『人間廃業』には、日本人の思想についての以下のようなくだりがある。的確に辛辣な表現を用いるのが黒石流のようだ。
さて、肝心の『草の味』については、以下のブログ記事があった。草の味について本格的に語っているネット上の記事は、管見の限りこれだけのようだった。
経歴を見ていると、1930年前後からの後半生において、黒石は山や峡谷の著作を多く出している。文壇から疎外されるなかで創作が書きにくくなったことが原因なのかもしれないが、いずれにせよ紀行や自然に関わる著作が目立つようになる。
『草の味』は、本草学的な植物の知識がふんだんに披露されたもので、時おりユーモラスな物言いが全然ないわけではないが、言い回しに棘や含むところはなく、全体としてきわめて真面目に書かれている。現在では古書でもあまり流通していないと思われる『草の味』において、黒石は最後を以下のように結んでいる。
黒石は戦時中の著作に「大泉黒石」の名前を使わなかった。『草の味』もそうなっている。すなわちひとりの日本人「大泉清」として書かれている。上に引用した『草の味』の最後のくだりを、「植物」を「大泉清」に、「人間」を「日本人」に読み替えてみるというのは過剰な読解だろうか。黒石が戦前・戦中のナショナリズムの高まりのなかでどのような不遇にさらされていたかを実際に調査していないので断言するには至らない。しかし通説に従って、もし黒石が帝国日本の社会から疎外されたり差別的な扱いを受けていたのだとすれば、太平洋戦争真っ只中に書かれたこの一説は、草木に託して黒石自身をはじめとする、当時に不遇をかこっていた世の中の異端者に向けられるいわれのない敵意に対して、ささやかな抗弁を試みたものだともみえる。あるいはまた、自分はどんなに不遇であっても日本人であるといういじましい主張を放っているようにもみえる。
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