見出し画像

時間は誰のものか

 人間は閑暇に身を任せている時にはますますサボるもので、追い詰められてようやく頑張るということは、誰しも経験があることだと思われる。そして、奮起して物事をはじめて、多忙の只中にあるときほど、多くのことをこなしたいという意欲が湧いたりする。一生懸命こなしてひと段落ついたら、疲れ切ってしばらく何もできなくなり、再びサボり癖がむらむらと湧いてきて、しばし休息のつもりがいつしか再びサボりの道に入ってしまい、そのまま暇を持て余す。そういった繰り返しで人生が成り立っている。そして、いつも時間がない。

 近代都市に生きる人間は、いつも時間に追われている。だから、自分の時間を邪魔されたくないという気持ちはよくわかる。せせこましい都会で、電車に乗っているわずかな時間でさえスマホからの情報収集やゲームプレイに余念のない人間は、帰宅してからぼんやりスマホを見て無聊を塞いでいる人間と同一人物なのである。少しばかりその時間を他人と共有したってそれほど支障はないはずなのに、なかなかそうならない。

 この世に言われる「自分の時間」という概念はどこから出てきたのか。客観的に考えてみれば時間はただ流れているもので、誰かが保有できる性質のものではない。全能の存在が、ありとあらゆるものを動画再生するように、シークバーを左から右にドラッグして自分の見やすいペースで動かしているのだとすれば、その全能者は時間を保有しているといえるかもしれない。しかし、一個人において時間を「保有」することは不可能である。

 時間は万人に平等だといわれる。どんな金持ちも時間の経過には逆らえないとしばしば言われて、時間の重要性を説かれる。それぞれの時間感覚が異なることを考えれば、それぞれにとっての時間が存在するという哲学的議論はさておいて、「私」という自己主張が出て来て初めて、自分の時間という考え方も生まれる。

 一般的に時間の問題だと思われていることは、実は空間の問題である場合が多々あるのではないだろうか。混みあった電車の中でスマホゲームに夢中になっている人間も、自分の時間を邪魔されたくないというよりは、パーソナルスペースを守りたいという潜在意識がそうさせているように思われる。都市の過密においては、時間の問題ですら空間の分化によって解決する傾向がでるものかもしれない。そこでは私の時間は私の空間であり、さらには私という存在そのものである。

 自給自足で農作業に一日を費やす人がいると考えてみよう。その人は夜明け前の決まった時間に自然と起床して、黙々と土を耕し、昼飯を食い、作物の維持に励み、明日の天気を気にしつつ、晩飯を食い、感謝して眠りにつく。彼は自然に身を任せて生きている。例えば大雨が降って農作業ができないとき、あるいは思わぬ虫害によって多くの作物が台無しになったとき、彼は「自分の時間」を邪魔されたと思うだろうか。

 そう考えてみると、私の時間の問題の解決は、密度を薄くして空間的に広々とさせることで、いくぶん解決することができるのかもしれないと思ったりする。時間は私のものではなく、あなたのものでもなく、みんなのものでもないだろう。時間はただ時間のものとして、淡々と流れているように思われる。

 



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?