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差異を見つめる

 大人になってから表向きは社会と馴染むようになっているが、心の中では様々なことに違和感がある。むしろ違和感のほうが大きいことが多い。おかしい、なんやこれ、わけわからんと心の中で呟いている。よく考えてみれば、子供の頃から何にでも違和感があって、それが解消された試しがない。例えばみんなが集まってわいわい騒ぐことが嫌いで、それに対する違和感がずっと昔からあるのだ。それは単純に自分の心が臆病で、大きな音への生理的な苦手意識があったり、その大きな音を威力として強弁されることへの嫌悪感へとつながっているかもしれない。また、観念的に突き詰めていくと、同調圧力への不信ということにもなりえるだろうし、集団的熱狂への疑念ということでもあるようだし、もっと大きく見れば、自意識による組織的編成への拒否感や、民族的高揚への警戒というようなところかもしれない。このことだけではなく、今も様々なことに違和感を持ち続けている。その対象はほんの小さな個人的な生活のことから、この世界と宇宙を貫く法則めいた仕組みまで、大小いくらでも出てくる。この違和感の拠ってくる元を検討することが、即ち自分の学問であるのかもしれない。

 そのような違和感に対して、問題の本質を追究する努力が一方にあり、他方ではそれを暫定的にやり過ごし、自分の中で折り合いをつけるための道筋を考えざるを得ない場合がある。その場合、自分のポジションを定めるのが最終的な目的ではないことに充分注意する必要がある。世界は白か黒か、ではない。いつも灰色なのである。ものごとをはっきり区別することなど、本質的にできるわけがないのである。だからこそ人類は区別というものに拘り、それが極端化することで愚かな行動を繰り返してしまう。

 Amazon Prime Videoで、映画「ヒトラーのための虐殺会議」を観た。ドイツ語の原題は"Die Wanseekonferenz"、すなわち単なる「ヴァンゼー会議」を意味する。ヴァンゼー会議とは、1942年1月20日にナチス・ドイツの親衛隊・党・占領地域の行政代表者・省庁の代表者が集まって、ユダヤ人の取扱いに関する「最終的解決」の具体的方策を議論した会議である。邦題の付け方がキャッチーすぎていささか不真面目な印象を持ってしまうが(映画内では「総統」という言葉が数回言及される程度であって、ヒトラーは直接的な役割をもっていない)、そうした邦題のイメージとは異なる極めてシリアスな映画で、ヴァンゼー会議で交わされた議論の内実が詳細に描かれ、それだけで一本の映画が構成されている。
 議論の対象である「最終的解決」とはすなわち、1100万人に及ぶヨーロッパ全域(ドイツ国内はおろか、占領地域にさえ限定されない!)の大量のユダヤ人をいかに隔離し、移動させ、その後に「処理」するかという問題についての計画であり、ホロコーストの実際的運用についての検討経緯が描かれる。その議論は、いかにドイツ民族の精神的負担にならない形で、効率的にユダヤ民族を「処理」するかという結論に向かっていく。そこではユダヤ人は「人間」ではなく、人格は剥離されて低位の「概念」として捉えられ、物象化さえされる。例えばポーランド総督府のビューラーが、すでに現地が移送ユダヤ人で溢れているのに、このうえさらに大量送致されても困ると主張する中で、移送地を「ゴミため」などと表現することはその典型である。
 他方で議論の最後では、そもそもこうした虐殺を行う倫理性について、官邸のクリツィンガー局長が疑問を呈する場面がある。しかしその人道主義は、ユダヤ人に向けたものではなく、あくまで「ドイツ民族の若者が残虐行為に加担する」ことについてのドイツ民族自身への心理的影響という観点からしか議論を展開できない。同局長の心中ではユダヤ人に対する同情や人道主義的観点があったとしても(それがあったかどうか明確には表現されていないところが、この映画のもっとも優れたところなのだが)、国策の方向が明確である以上、普遍的人道主義は表明できないわけである。会議の参加者は全員、普遍的人道主義が理念として存在することを知っていても、それに気付かないふりをして話を進めていく。
 また、議論のなかで問題となっていた点に「ドイツ民族」と「ユダヤ人」の線引きの問題があった。2分の1、4分の1だけユダヤ人の血が混じった人々をどう扱うか。当時、ドイツ人とユダヤ人の混血は移送対象から外れるという法律の規定があったが、親衛隊の強硬派はその規定をあっさりと見直し、2分の1の人間はユダヤ人だと認定して移送対象に組み入れようとする。このような人種原理主義というべき主張に対して、同法の作成者の一人でもあったシュトゥッカート内務次官が法を守るべきだと主張するが、その場面にしても、同次官の主張は普遍的人道主義に基づくものではなく、あくまでドイツ民族の優位という論理に沿って、ドイツ国家としての負担減と効率性を眼目として展開されなければならないのである。人間の尊厳を守るような話をしているにも関わらず、ユダヤ人の劣性は前提として話が進む。なんとも気持ちが悪いが、しかしそれこそ当時の実相に近かったのではないかと思わせる演出である。会議のトーンとしては、「処理」ありきで数値的に計画を立て、行動を優先しようとする親衛隊や軍部に対し、国民精神への影響までを考え、なるべく穏健な対応を熟考する官僚たちという対立構図も垣間見える。しかしあくまで会議の目的はユダヤ人の根絶を目指した「最終的解決」なのである。
 登場人物たちは、映画の中では相対的に思慮深い人物であっても、現代の我々が見るとあまりにも偏狭であると映るように演出されている。議論されている内容が悲劇的すぎて、悲劇的すぎるあまりにかえって、我々にはこの会議がある種のコメディであるとさえ感じられるようになる。そうすると不真面目な印象の邦題も理解できてくる。映画内の議論では罵ったり声を荒げたりというシーンがほとんどなく、いかなる感情的な意見も極めて理性的に淡々と表明され、粛々と会議は進む。ドイツ人の理性的な性質もあるのかもしれないが、その淡々たる不気味な偏狭さこそが、むしろこの映画の迫力を産んでいる。区別することの違和感を違和感と覚えなくなる、その見えない圧力に我々が実際にさらされたとき、果たしてそれに盲従しないでいられるか、という問いを突き付けてくる。

 我々は区別を好む。そして、世界が灰色であることをなんとなく知りながら、自分の立場からわずかに黒味がかったものを、ついつい真っ黒だと解釈して非難の的にしてしまう。人間は何らかの環境変化で追いつめられたとき、自分から切り離されたものやかけ離れたものを見つけ、それらを敵と見做して攻撃を開始することがある。しかし、命題Aと命題Bが矛盾する場合には、いかにAとBを調和させるかということが人間の知恵としての論理の力であるべきである。ただし、その論理の力を生かすためには、彼我の違いを鋭く認識したうえで、議論するにあたっては、その鋭さを丸く削っていくような、研磨するような努力が必要なのである。場合によっては自分がその鋭さゆえに、論理の刃に傷つくこともあるだろう。傷つくことを恐れて意見表明できないかもしれない。しかし思考の根っこが何もないよりはましである。臆病に陥りがちな我々が、傷つくことへの忍耐力をじっくりと身につけられるかどうか、人間の力が試される。




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