紙を泳いで古本を味わう
また古書店に行ってしまった。古本については過去の記事でも語ったことがあるが、茶色く萎びた本が、変態的に好きで困っている。コレクター自慢できるほど数を所有しているわけではないし、知識があるわけでもない。ただ、定期的に古書店で品揃えをチェックしたくなるし、署名本や初版本という言葉を聞くとときめくくらいにはミーハー心はあると思っている。
実のところ、古本を含めた書籍は、現在の住居に引っ越しする際に大量処分していて、その後余分に増やすまいと誓ったのである。しかし結局、暇が出来ても行く場所がないので古本屋に行ってしまい、行くと欲しくなって、あれやこれやと買ってしまう。古本街が近くにあるのが致命傷であった。薄っぺらい誓いで病根は絶やせぬ。
思い起こしてみれば、中学生くらいの頃から古本屋に出入りしていた。少年時代に好んで読んでいた歴史小説から、生理上やむにやまれぬ艶めかしい本まで、学生時代の知識の半分は古本屋で仕入れていたと言っても過言ではない。あとの半分は普通の本屋とゲーセンであった。学校になじめないというほどではなかったが、学校は人嫌いを助長した。生来運動そのものは嫌いではないのに、引っ込み思案な性格のせいで、運動そのものよりも活発な運動仲間との付き合いのほうに恐怖を感じ(中学で野球がしたかったのに、野球部の雰囲気が怖そうなのでテニス部に入るが、そのテニスも一年ほどで辞めてしまった)、気の合うマイナー仲間とつるみ、動くことも少なくなり、極めて薄く浅くサブカル的に少年期を過ごしていたことが思い起こされる。
そうこうしているうちに、古本という物体そのものが好きになっていた。まず匂いが良い。植物の枯れそぼった香ばしさのするものもあれば、フォクシング(紙のうえに茶色く斑点状になっているやつで、カビが原因らしい)の特有のけぶった薫り。そして感触。ざらざらしていたり滑らかだったり多彩な劣化の様相があり、触ったら得体のしれない粉がくっついてくるのも愛らしい。触れていると、口の周りを食べかすで汚している無垢な赤子の口を、優しく拭ってやっているような気分になる。レッドロット(数百年前の本でよくある、革の背表紙が赤茶けてボロボロ粉っぽくなっているあれのこと)が発生するほどの古い本は所有していないが、持っていたら溺愛して、毎日手を赤茶色の粉まみれにしているに違いない。
さて、実はここからが本題である。最後に味を楽しみたいが、さすがに舐めて愉しむことはしていない。機会があれば煮て食ってみてもいいかもしれないが、人間はセルロースを分解できないし、そもそももったいないのでさすがにそういうわけにはいかない。だがしかし、人間に対して「食べちゃいたいほど可愛い」などと例えるのであれば、書物に対して食べてしまいたいほどの愛玩を覚えても文句を言われる筋合いはない。愛着するものと一体化したいというのは人間として当然の心理である。
書籍などの紙を食害する「しみ」という虫がいる。漢字で書くと「紙魚」である。本を実際に食べられるとはなんという恵まれた存在か。自分が紙魚になって、心地よく古い紙の間を食べながら、どこまでも古書の大海原を泳いでいきたい気分になる。ああ紙魚になってみたい。紙魚になって、古今の叡智を詰め込んだ旧く懐かしき薫香の中で、書籍の隙間で静かに暮らしたらどうなるだろう。
などと妄想しつつ、紙魚になりきってしまう変態的な人間が自分以外にも果たしているのかと思ったら、この方面にはずっと昔に先達がいた。書物が好きで好きで仕方なかった趣味人内田魯庵(1868~1929)である。
魯庵の『蠧魚之自伝』(1929年:昭和4年)。「蠧魚」もしみと読み、現代で「紙魚」と書かれているものと同義だ。表題作に多数のエッセイを合わせて一冊にまとめた本で、魯庵の没後すぐに出版された。序文に「極めて愚劣な無用の饒舌」などと自作への自虐精神が発揮されているところは、ひねくれ魯庵の通常運転である。表題作では紙魚の一人称視点からべらんめえ調で、書物をめぐる人間文明へのボヤキが綴られる。
表題作『蠧魚之自伝』の内容は、江戸の滑稽本を思い起こさせるような軽妙な風刺にあふれている。まずこの紙魚の言い分として、本を食われるのは人間がきちんと書物を保管せずに置いているせいであり、放置された書物は権利が放棄されているのだから食われて当然だという。本を粗雑に扱ったり焚書する人間に較べたら、本の文字以外の部分に慎ましく小さな巣を作って生きている紙魚たちは書物を害していないという。しかも紙魚の食害したあとのわざとらしい技巧のない自然の紋様は、レースのように芸術的だと主張する。さらに紙魚は強調する。書物にとって最も恐ろしいのは、書物をまるっきり形なしにしてしまうリスクのある、人間の無知と迫害であると。
この紙魚は、もちろん書物の味についても語る。ナフタリンの味のする本には近づかないのが主人公紙魚のモットーである。それはナフタリンが虫除けとして効くからではなく、ナフタリンを用いているほどの貴重書には遠慮して手を出さないという江戸っ子紙魚のいわば美学なのである。しかし中にはナフタリンをハイカラがる不届き者がいて、かび臭い論語や大学よりも、洋本棚のニーチェやボードレールを這いずり回る。ただし西洋本でも古いものは乙な味がするという。15世紀あたりのインキュナビュラ(揺籃期本:印刷技術が発明されてから間もなくに製本された書物類)はアクが抜けて舌触りが何ともいわれないという。ところが「近頃の若い奴」は、古い和本の味を碌に噛み締めずに不消化な洋本を齧るから忽ち胃弱になる。古きを知らずして新規の西洋本にまみれて結局こなせないという喩えは、ピリリと風刺が利いている。
書物の管理状態が行き届かず紙魚の大植民地となっているのは、寺と役所である。いちいち貴重本の事例を挙げて、お坊さん(東西を問わず)が蔵に保管されている古書の価値がわからないと罵倒してみたり、役所の希少本が払い下げられずに関東大震災で焼けてしまったのを不心得だと詰ったり、あるいは無欠の本を役所がわざわざ引き裂いて払い下げるという不見識を嘆いたり、さらには図書館の見識のなさにも刃を向けて、四方八方に非難の手を止めないのは痛快である。
上記のような無知による破壊のほかに、さらに大きな害悪として政治や宗教の迫害と、その結果としての焚書を持ち出している。下の一節などもなかなかに面白い指摘である。
第一俺達が面白くねエのは、西洋ぢや活字の発明は歴史上の大事件となつてゐて、活字を発明したグーテンベルクの名はナポレオンやワシントンと並んで崇められてるが、日本ではグーテンベルクの発明後幾何もなく印刷機械を日本へ持つて来たワレニヤーニの名前ですらも歴史に載つてゐねエ。其のくせ鉄砲を持つて来たピントオの名前は小学校の教科書にも載つてる。日本人は印刷機械よりも鉄砲の方を難有がつてると云はれても文句は無エので、夫だから軍国主義国などと世界中から物騒がられるんだ。
その後、貴重な古書を切り抜いて価値を損なってしまうビブリオクレストや、盗書癖たるビブリオクリプトを語るに至っては、完全に紙魚が主人公であるという設定が忘れられて、ほとんど魯庵自身の講釈になってしまっている。魯庵は自分でも認める通り、小説が下手なのだ。
最後に、人間が書物を大事にしないことへの嘆きをもう一言して、この作品は終わる。紙魚に言わせれば「人間の文化史の貴重な記録や文書まで蝕はうと喰意地を張りやアしねエ」のであるが、「人間は無精で横着で、オマケに書物に目の利く奴が根つから無エので、大切なものまでも放たらかして置く」。書物の滅亡はほとんどが人間自身のせいであって、紙魚のせいにしないで欲しいというわけである。
植物学者として著名な牧野富太郎の『植物期』には、紙魚より質の悪い虫としてシバンムシ(フルホンシバンムシ)が挙げられている。シバンムシはゴマ粒のような丸っこい赤茶色の虫で、かつて我が家でも小麦粉に発生したことがあって大変困ったけれども、紙だけでなく様々なものを食害する。漢字で書くと「死番虫」で、その貪欲さもあって、いかにも嫌われている印象がある。それに比べると、紙魚という虫はなんだかんだで愛されている。現代でも東京古書会館による古書即売展が「紙魚之会」と名付けられているし、房総史料調査会の会誌は『紙魚の友』である。もちろんいずれも本が大好物であることを洒落たものだろう。「死番虫(シバンムシ)之会」は、たぶんない。紙だけを食べる紙魚は古書と人類の間を上手に泳いでいる。
古書を食べたいという愛着の話から紙魚の擁護論になってしまったが、魯庵の扮する紙魚が古書を大切にすべきことを説いていたのは正論であって、ぐうの音も出ない。我々は実際に古書を食することはできずとも、やはり知識の宝庫として、比喩的に「味わう」ことを王道とするしかないのだろう。紙魚の皆さまには申し訳ないが、書物は大切に保管して食われないようにしたいものである。もっとも、現在流通しているような再生紙の本は紙魚に言わせれば、昔の和装本よりも「無機質で趣も無エし、全然美味くもねエ」というような代物かもしれないけれども。