【不安な短編小説】青りんご

〈昨夜未明、○○町で火事が発生した模様であります。近所の住人からの通報はなく、消防隊が火事の存在を探知したときには既に時間がたってしまっていた模様であります。風にも煽られながらあまりにも火の勢いが強くなってしまったため、消防隊が到着したときには近づくこともままならなかったということであります。しかし遠い場所からの地道な消火活動の結果、発見から数十分後にようやく本格的に消火活動を開始で来た模様であります。結果、炎は一時間後に消し止められましたが、火元となった家は全焼。無残にも家の姿を認めることはできないほどまでになってしまいました。幸いにも延焼はなく、家一軒の被害で済んだということであります。ただし、居住していたとみられる人物と連絡が取れておらず、捜索を続けています。〉
 
 朝、目を覚ますと机の上に一つの青リンゴが置かれていた。窓は開いていて、そこから入ってくる風がレースのカーテンをわずかに揺らしていた。誰かが夜のうちに入ってきて置いたのであろうか。昨夜は窓を開けていなかったから必然的にそういうことになろう。よくこんな丁寧な仕事をしたものであるが、この青リンゴの落ち着きようといったら、全く理解のできないほどである。こいつは昨日まで、もっと言えば私が寝る前までこの家にいなかった、存在していなかったのであり、この家にとって異邦人同然である。それなのにどうして、私の机に吸い付くように、安定して佇み、毎朝変わらず部屋へ注ぎ込んでいた朝日を浴びて、その青々とした皮に反射させているのであろうか。そう問うたところでこの青リンゴは答えることもない。私はすぐにでも青リンゴをのけようと思ったが、何せ朝は頭が働かないばかりか、何に対する気力すらも起きない。完全なる不審者であるこの青リンゴをそのままにしておくことにした。恐らく、のけても、置いていても同じ、害はないであろう。たかが机の上に置かれた青リンゴである。私は立ち上がって伸びをし、ゆっくりと窓を閉めた。
 ゆっくりと着替え、顔を洗いに部屋の角にある洗面台へ向かった。冷たい水を顔全体に浴びせ、もはや洗うというよりはただの目覚ましのための行為に過ぎないが、十分に顔に冷水を浴びせたところでタオルを取り、顔の水気を取る。タオルから顔を上げ、鏡に映った自分の顔を見たとき、やはり私の背景に移ってしまっていた青リンゴに目が行ってしまった。彼には顔もなければ声を発することもない。しかし、鏡に映った彼を見たとき、少し緊張を感じたのはどうしてであろうか。私は不意にも目をそらしてしまった。
 幸か不幸か、今日私には何の予定もない。だから青リンゴを私の家に置いていった犯人を捜すのも、この置かれた青リンゴを徹底的に観察するのも、もちろん何の気にもせず生活するのもすべて私の自由であった。本来ならば、三番目の選択肢一択のはずなのである。ゆっくりと目を覚まし、朝食を取り、読書でもするか、それともただどこかを眺めているか、そのような一日を過ごすことは、決定的であったはずなのである。しかし、神すら予測しなかったであろう青リンゴの侵入、これが私にいらぬ選択肢を山ほど増やしてしまった。気づけば、私は机脇の椅子に腰かけ肘を膝の上に置いて、かなり前かがみになって青リンゴの姿をのぞいていた。改めてみてもやはり、そこらで見られるような青リンゴである。全く変わったところはない。誰がわざわざこのなんてことない青リンゴを私の家に侵入して置いていったのか。しばらく考えてみたが、私の答えはただの狂人であろうということであった。青リンゴを使って強盗するでもない、殺人をするでもない。私の家の中は全く荒れていないし、物も何も盗られていない。かえって果物一つ分増えてしまったのである。ならば狂人が置いた青リンゴ。よくわからない青リンゴより肩書が変われば少し見え方も変わるもので、どういうわけか、青リンゴの影が濃くなったように感じた。
 それから半日ほど私は粘った。粘るとはどういうわけかといえば、だんだんとこの青リンゴに私が見つめられているような、何かわからないが脅迫を感じ、今すぐにでも家を出たかったのである。青リンゴを見たところで何やら目が合っているような、本当はそんなことはないのだけれど、そんな気がしてならないのである。もしくは、小人でも座っているような。見つめ合いには私は勝てない。しかし部屋の他の場所に視線を移すと、視線の外からの威圧が半端ではないほどに感じてしまう。もはや私は家で何をすることもできなかった。いや、これはただ今、青リンゴというものへの理解が十分にできていなかったり、環境に慣れていないからだとは思うが、今すぐ家から出たい。しかし出るとこの青リンゴの思うつぼのような気がしてならない。ならばこの青リンゴの思うところとは何だと聞かれれば、私にはさっぱりわからないのだけれど。やはり我慢できなくなってしまった。青リンゴを家に取り残して、私は小さな鞄を肩にかけて外へ出てしまった。
 勢いよく外へ飛び出せば、そこにはいつもと何も変わらない時間が流れ、レースを揺らしていた微弱な風もいまだその強さを変えていなかった。目の前にいるのは全て見知らぬ人々。それは各人も同じである。近くに住み、コミュニティを形成しているふりをしている人々。その中の私。いつもと何も変わりはない。私は急いて扉を開けたことについてわずかながら恥ずかしくなってしまった。何をこんな何でもない環境で恐れていたというのか。歩みをわずかに進めながら、自分の行動を何回も反芻していた。朝起きてから、今外を歩いている私の行動。自然と口角が上がっていることに気づいてしまったが、無理はない。どう振り返ってみたところで一連の私の行動は到底尋常ではない。なんてばかばかしいのであろうか。たかが青リンゴ一つに様々に思惟して、遂には追い詰められてこのありさまである。笑いが止まらなかった。しかし、いかん。こうやって外で、一人で笑っていてもそれは同様である。すぐさま平常心を取り戻し、きままに商店が比較的多く立ち並んでいる場所へ向かった。そこならば、人の賑わいと商店の活気で全てを、私の頭の隅にあるすべての不安を打ち消してくれるのではないかという希望を持って向かっていたことに気づいたのは、随分と後のことである。
 しかしこの日はどういうわけか人の出はあまり多くなかった。全く人がいないわけではないから気にすることでもないのであるけれど、おそらくこの黒く厚い雲に覆われた今日の空によるものであろう。買い物客はそれぞれに鞄を持ち、夜ご飯の支度に奔走していた。そんな彼らをどうにかつかまえようと、商店の主人も必死で声を出していた。だから人がいつもより少ないからといって全く静かなわけではない。そこらよりは十分に活気はあった。
しかしわずかな時間に私は嫌なものを見てしまった気がした。いや、嫌なものとは言いたくはないのであるけれど、商店も建ち並べば果物屋の一つや二つ存在することは当然である。そこにはただ色鮮やかな果物が置かれているだけなのだけれど、それらが一瞬、家に置いてきた青リンゴをフラッシュバックさせてしまった。家に戻ればまたあいつがいる。目を細め、首をあからさまに商店の反対方向へひねり、果物屋の前を通り過ぎた。
 さすがに日も落ちてしまった。この時期はまだ日が落ちれば風が冷たくなるような季節である。これ以上の外出は私の体の為にも控えたかった。私は今、私の家の前に立っている。何もしていない。ただ立っているのである。早く扉に手をかけて入ればいいものをそのようにしているのである。これはある一抹の不安からであった。もちろん青いあいつのことであるのだけれど、私が家を留守にしている間、彼は何をしていたのであろう、ということである。いなくなっていてくれたらいいのだが。これに関しては選択肢を考えるのは極端に気が進まなかったから、ただ不安は不安のままでそのままにしている。しかし、このように扉の前に突っ立っていてはらちが明かない。浅い息を整えて、ゆっくりと扉を開けた。もちろん私の家である。何も変わっていない。何も見慣れないものはない。玄関を通るだけで落ち着きさえ覚えるような私の家である。さて、視線を机の上に動かしたとき、青リンゴは私が家を出たときと全く変わらない姿でたたずんでいた。これを見たとき、私はピンと張っていた緊張の糸が一気に緩むのを感じた。外出の間に想像が膨らみすぎていたのかもしれない。いなくなれと思っていたけれども、かえってこのようにいてくれた方が、こいつがただの青リンゴであるということを証明してくれるのではないか。この家にもなにも変化は起きていない。つまり青リンゴはただの青リンゴであったのだ。恐れるに足りない。
 私はさっさと夕飯の支度をし、前日と変わらない生活を行うことができた。そしてついには就寝時間まで何ら恐怖を抱えることなく、過ごすことができた。外気を取り込もうと窓を少し開け、部屋の電気を消す。辺りが真っ暗になった瞬間の喜びといったらこの上ないものであった。この夜は前日までと比べて少し湿気があり、寝つきにくかったが、掛け布団などから手足を出してみるとちょうどよく温度調節ができた。体勢が落ち着いたところで一気に深い眠りに落ちてしまった。
 
 このような夜は部屋の中より外の方が明るい。微弱ではあるけれども月からの光が薄く彼の部屋にも差し込んできていた。時々こんな夜にもかかわらず、散歩をしている人ののそのそという足音や、何やら喧嘩をしている人らの声、スピードを出しすぎたバイクのエンジン音など、これも夜にならなければ聞くことはない音が町中に響く。このような音にも邪魔されず彼は目を閉じて眠っていた。しかししばらく時間がたち、夜も深くなってくればそれらの夜の喧騒すら止んでしまう。夜の中には一瞬だけでもすべての人々がぴたりと活動を停止する時間があるようであった。その時間さえ来てしまえば、彼の部屋にはただ沈黙の時間が流れるだけである。ただ沈黙の時間だけが流れている。誰もこの空間に入ることはできない。何者も。虫さえもこの沈黙の中では大きな存在となり得る。この沈黙の空間では。誰も害することができない静かすぎる夜。…。…。…。…。…。…。…。
 
 彼がそんな沈黙を貫いていたはずの夜に目を覚ましたのは、いったいどういうわけであろうか。大きく乾いた音がしたかと思えば、彼の腕には傷がついていた。先ほどまで幻想的ともいえるような沈黙の空間を演出していた微弱な月の光はその原因を生々しく彼の現前に浮かび上がらせていた。乾いた音は机が折れた音だったのである。もっと言えば机は四本の足を均等に折りたたむようにしてつぶされていた。その時に飛び散った木くずによって彼の腕は傷ついてしまったようである。ならば机がそのようにつぶれてしまった原因は何かといえばあの青リンゴであった。青リンゴは何倍か大きくなっていた。直径は机の上に一緒に置かれていた雑誌くらいあろうか。これは誰が見ても明らかなる変化で、寝ぼけていても、暗い部屋の中で多少見えづらくても、確認することができるほどであった。青リンゴはひとりでに大きくなり、その重さで遂には机をつぶしてしまったようである。こうなってしまうと一気にこれはただ事ではなくなってしまう。これはただの青リンゴではなかったのであろうか。あぁ惨め。あぁなんと無様なことであろう昨日の私は。最初こそ恐れてかかったものの、帰宅後は全く警戒心を持っていなかったではないか。このようなものを私の家に置いておくことはできないと考えられたが、明らかに時すでに遅しと言えよう。机を全くつぶしてしまったその青リンゴをもはや私は動かす事さえできない。どうして昨日、青リンゴの存在を不審に思った時点で外に投げてしまうなりなんなりしなかったのであろうか。青リンゴは岩のような佇まいで月光を優雅に浴びていた。もはやこうなってしまっては、彼は改めて床に就くことなど可能であろうか。巨大化するリンゴをよそにゆっくりと眠れることができようか。昨日は外に出たがもうこれは意味をなさない。このように青リンゴが変化するものとわかってしまえばなんの気を紛らわす材料にはなり得ない。
 それから朝日が昇るまで彼は恐怖のまなざしでその青リンゴと対峙していた。日も昇りきり窓の外からいつものように人々の声がするようになると彼は固く歯をかみ、半ば泣きそうになってしまった。しかしのどは詰まって全く声が出ない。わめくことなど決してできないが、ただただ涙だけが出てきてしまった。爪をいじり一度落ち着いて、つばを飲み込もうとする。生々しくのどを通るつばは音を立て、彼がこの空間に一人で閉じ込められていることを改めて感じさせてしまった。彼にとって、この彼のなじんだ空間は青リンゴによって占拠されているも同然であり、窓は開いていて、もちろん玄関からもすぐに出ていけるが、体にはもはや動くための力が入らなかった。彼は密室に閉じ込められたような、追い詰められるような恐怖を感じて押しつぶされそうになっていた。涙は相変わらず止まらない。これは悲しいわけでもない。悔しいわけでもない。恐怖かと言われればすべてそれによるものではない。今まで人々は形容しえなかった感情を彼は今まさに懐いているのであった。
 メシリ、と青リンゴの下の床板が音を立てた。どうやらもう一回り大きくなってしまったようである。彼はもう自分が何をすればいいのか、どうあればいいのかを完全に見失い、心の中に湧き出る感情のままに行動を取った。その姿はまるでこの地球上に実際に生きている人間であるとは思えなかったが、涙を流しながら、その一回り大きくなった青リンゴを蹴り、微動だにしないことがわかれば、また涙があふれ、えずき、今度は青リンゴの上にうなだれるように腰かけた。そしてすぐさま爪を立てて、青リンゴを力任せにひっかいた。とにかく傷をつけたい一心であった。外から聞こえてくる人々の会話には叫び、勢い良く窓を閉めた。そして自らの手で外部とのつながりを遮断してしまったことに気づくと、また叫び、涙を流した。この光景はまるで直視のできないものである。尋常な人とは言えないものである。彼はその後も叫び、蹴り、泣き、遂には衝動に任せて部屋にかけてあった本棚までも倒し、かばんや棚などにしまっていた小物類もすべて放り投げ、あるものは青リンゴに当て、あるものは壁に打ち付けた。すべて自らの感情を発散することがなくなると彼はただ大声を上げた。それは言葉にすらなっていなかったし、たまに途切れては涙にえずいた。一連の過度な感情発散が終わると彼は床に倒れこんだ。そのまましばらく起きることはなかった。
 彼が再び目を覚ましたのは夜であった。その夜はいつの夜かわからない。彼があの爆発からいくつの夜を床に伏したまま過ごしたのか。これは密室で過ごす彼にとって誰にわかることでもなかった。とにかく彼は目を覚まし、起き上がろうとすると四つん這いになったあたりで背中に接触するものがあった。彼は顔を背中の方へあげることができず、ただただ四つん這いのまま涙を流した。その涙は床に落ちてはすぐ消え、また落ちてはすぐ消えた。顔を後ろに向けないまま、四つん這いで前へ進み、そのまま立った。立った彼はそのままじっと目をつぶり、唇が震えているのを抑えようとした。振り返るとそこには天井まで付くほどに大きくなってしまった青リンゴがたたずんでいた。この青リンゴは名実ともに彼の部屋を占拠したのである。彼はこの青リンゴを見上げ、次いで今までに自分が破壊してきた部屋を見渡した。どういうわけか笑みがこぼれてしまう。よくもまあここまでやったものだ。静かに笑い声をあげて、くぼんだ壁をさすってみたり、バラバラに散乱した本を手に取ってみたりした。この本を読んでいたときは、こんな扱いをするとは思ってもみなかったが…。この青リンゴはよくも私をここまで陥れたものだ。
 
 日が傾き始めたころ、本を読み終えた男はそっと閉じて床に置いた。コンロの上にやかんを置き、かすかな火をつけた。暗くなり始めた部屋の中にぼうっと光るそのかすかな火は男の顔を照らすにも至らないほどであった。彼は弱い火をつけたまま小さな鞄を肩にかけ、外に出た。この日もそうである。いつも通り。とぼとぼと帰宅するであろう人々を尻目に見ながら商店へ向かった。まずはお茶を取り扱っている商店だが、そこではダージリン紅茶の茶葉を買った。わずかな量ではあるが今の男にとっては多すぎるほどであった。あまりの量の少なさに店主も、あからさまにもったいないという表情で男の顔を覗いてきた。それに会釈で答えた男はそのまま茶葉を小さなバッグに入れ店を後にした。店を出るとき、店主はわざと大きな声で、もっと一度に買えばいいのに。そうボヤいた。店の中はとにかく紅茶の香りがひどかったため外へ出た瞬間、男は大きく深呼吸をし、肺の中の空気をすべて入れ替えようと試みた。横目で店内を見て、店主は先ほどのぼやきも忘れたように一日の勘定をしていたことを見届けると、男はその右斜め向かいから、更に三軒進んだところにある商店へ向かった。幸いにも男のお目当ては店先に並んでいたから、それを一つ手に取ってこの店の主に渡した。閉店間際であったらしく、店主は少し迷惑そうに顔をゆがめたが、雑に会計を済ませ、紙袋に入れた一つの青リンゴを男に渡した。男はそれを笑顔で受け取ると会釈し、もぞもぞと鞄の中へしまった。すべて用は済んだ。男は閉店して明りを消した他の商店をゆっくりと見渡し、つま先を男の家の方へ向けた。
帰ってみると火を入れていたやかんのお湯はちょうど沸きかけているところであった。火をぐっと強め、それを一気に沸騰するまでもっていった。けたたましい音がやかんから鳴れば男は火を止め、床に落ちていた白いティーポットを取って、その中へ先ほど買ったダージリン紅茶の茶葉を入れお湯を注いだ。このティーポットはふたの部分に青い線が配されているため男のお気に入りでもあった。さてティーカップが見当たらない。いつも置いてあるはずの場所にはその収納棚さえも確認することはできない。男は床に散乱している物をよけながらティーカップを探した。幸運にもティーカップは倒れていた棚の隙間に入り込んでいてその割れるのを免れたようであった。青い線の入ったティーポットによく似合うこのティーカップは飲み口の下あたりに小さな黄色い文字が印字されていた。製造段階でその文字はにじんでしまっているから読めないが、男はこのティーカップしかもっていなかった。恐らく壊れたとしても同じようなものを買うであろう。そのようなものであった。十分なまでに抽出されたダージリン紅茶をカップへ注ぎ、男はまず一口、ゆっくりと飲んだ。目を瞑り、熱い熱いお茶が男の細いのどを通っていくのを感じる。部屋の明かりはついていない。この日も男にとっては幸運なことに月の明かりが十分に窓から部屋に差し込んでいた。男は大きく息をし、二口目を口に含んだ。そしておもむろにティーカップを持っていない方の手を男の肩まで迫っている青リンゴに当て、柔らかにさすってみた。そのまま男はかすかな光に照らされる部屋の中で、青リンゴをさすり、眺め、そしてただ黙ってダージリン紅茶を飲み続けた。
 男が最後の一口を飲み終わろうとしたとき、既に紅茶は冷たくなっていたのではないだろうか。紅茶を入れてからかなりの時間がたっていたようである。男は空っぽになったティーカップを見つめ、それをそっと窓辺に置いた。床にそのままに置いてあったティーポットも一緒に。この中にはまだ紅茶は入っていたが、もう一杯飲むような気は起きなかったようである。男は窓辺に丁寧にその二つを置き、ゆっくりと振り返った。そこにあるのは天上を突き破らんばかりの青リンゴである。上と下の影は漆黒に近い。その青リンゴの足元にはもはや折れた机の跡は見えず、何がつぶされてしまったのかもわからない。床には昨日まで整然と並べられていた家具、本などが散乱しきっている。この青リンゴ。男の机に来たその朝から、男を恐怖に陥れ、成長し、巨大化していくこの青リンゴ。男のそれまでの平凡な生活を全く変えてしまったこの青リンゴ。男の家の中をすべて再生不可能なまでにさせたこの青リンゴ。男はこの青リンゴを見上げながら、この青リンゴが机に乗っていた前までのすべての男の日常を回想した。男のあの日々はいったいどこへ行ってしまったというのか。青リンゴは見事にそれら全てを奪ってくれた。暗い部屋の中で男には尋常でない怒りと、悔しさと、情けなさが込み上げてきた。すべては小さな青リンゴが始まりであったのだ。こんなちっぽけな存在に、男のすべては奪われてしまった。そこへ怒りを思いながらも、どうしてこのようなちっぽけなものにすべてが狂わされてしまったのか、という悔しさ、情けなさが幾重にも折り重なり、その上からまたつぶされたように、複雑怪奇な思いが男の心の中をうごめいていた。男はじっと青リンゴを見上げた後、その周辺に散らばっていた本などを脇に寄せた。その散らばった中からどこに所属していたのかもわからない紙切れをつかむと、先ほど紅茶のお湯を沸かしていたコンロの火をそこに移した。そして青リンゴめがけて静かに、その火を投げた。紙切れであるはずなのにあまりにも重く感じてしまったのはどうしてであろうか。青リンゴにはすぐに火は燃え移り、あの朝から今まで男を苦しめてきた青リンゴは焼失という運命をたどろうとしていた。男はその瞬間をただぼうっと眺めていた。意外にも火の手は強まりそうであったので、窓辺に置いていたティーポットとティーカップは部屋のさらに奥まったところへ移動させた。あっという間に青リンゴはごうごうと燃えている。既に火は天井や床に燃え移っていた。それを見届けると男は小さな鞄を持って、窓から外へ出た。その時もう一度、部屋の中を振り返り、その燃え盛る青リンゴを見つめた。しかし男は急いだ様子で闇に包まれた町の中へ飛び出した。一心不乱に小さな路地を駆け回り、行き止まりとなったところでその左にあった塀を越えた。
 この敷地の家には明かりはついていなかった。そのことを確認すると、男は静かに窓を開け、肩から掛けていた小さな鞄の中から紙袋に包まれていた不自然なほど色艶のいい青リンゴを取り出し、静かに机の上に置いた。この部屋の中は真っ暗である。男はしばらくその小さな青リンゴを見つめた。そして男はゆっくり窓から外へと出た。塀を越えると男は大きなため息をつき、この小さな路地を抜けて改めてもと来た方向を望んだ。かすかに空が赤く見えるのは男の気のせいであろうか。男は手に握りしめていた紙袋を広げ、丁寧にしわを伸ばした後、ゆっくりとたたんで鞄の中へしまった。途端に、空が赤らんでいる方とは反対の方向へ走り出し、その後ろ姿はすぐにこの暗闇の中へ消えてしまった。

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