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民間信仰の実験場。あるいはまだ見ぬ理想郷への補陀落渡海。

わたしたちにとっては古典としか捉えられない過去でも、当時の人々にとっては最先端のリアルだった。それならいつか過去になる現在「これが最先端のリアルです」と言えるような仏教文化があってもいいのではないか、と思った。

たとえば観音菩薩の姿かたちが身近なものにアップデートされたら?
それが頻繁に人の目につく場所で展開されるメディアとなったら?

現代という時代性を反映したミクスチャーカルチャーとして広がっていくのだろうか。

現代の日本に生きる多くの人たちは、信仰という行為にどこか遠い、他人事のような距離を感じつつ対峙しているのではないか。
それはおそらく「時代にそぐわなくなった不要なもの」という宗教への否定と、「影響を認識できないくらい根底に根づいている精神性」という宗教への肯定とを両義的に待ち合わせており、なおかつ神仏と定義する存在や現象に対しては「畏れ多い」という感覚が刷り込まれていて、それらが複雑に絡み合ってこころに影響を及ぼしていることに原因があるのではなかろうか。
これを仮定として、わたしたちがもっている信仰精神を、搾りかすでも端っこでもいいからひっ捕え、拡大して、増幅させて、「生身」で感じとれて「目に見える」ようなかたちで表現してみたい、そう思った。

日本では仏教と神道が習合して特に民間信仰の中で定着している。
インドで生じ中国・朝鮮を経て日本に伝わった仏教は、日本の中で神道や土着の信仰を取り込み独自に発展し、ときに教義をも超えて大胆に飛躍をしながら大衆に受け入れられてきた経緯がある。
このようにそもそも仏教には人びとの現世利益的=リアルな欲望を受け止めて、巻き込み、変態する素地があるのだ。

また、信仰の機能性が薄れた現代日本で、たとえ目には見えなくとも、文化の根底には民間信仰に基づく由来が水脈のように流れて受け継がれているはずだ。

ゆえに最先端のリアルな仏教文化の表出と定着するか否かの試みというのは、決して荒唐無稽な話ではなく十分に現実的な話なのだ。

冒頭で「カルチャーとして定着するのか?」という疑問を掲げた。
更に突き詰めれば、その疑問を世の中に投じて生まれた波紋から、人間が心の拠り所とするものの本質を探ってみたいのである。
その意味でここは「民間信仰の実験場」であり、そしてまだ見ぬユートピアを探して今世での生涯をとじる覚悟で船出する「補陀落渡海」だ。

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↑の内容はこのFANBOXに来てもらって初めて凹ミを知ってくれた人に向けて書いた声明文のつもりで、当初はプロフィール欄に載せていました。が、長文すぎて「凹ミの脳内に興味がある人はいいとして初見で凹ミを知った人の誰がこれを最後まで読んでくれるん?」と疑問に思い、記事として独立させました。

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…で、しばらくFANBOXに「仏教」「補陀落渡海」「旅」「民俗学」などのタグをつけ置いといたんですけど、他のだれもそんなのつけてない。わたしだけがつけてるタグって意味ないじゃん。その項目に興味ある人がタグをタップして辿りつきわたしを知る、あるいは逆に、わたしの記事からタグをタップして思索を広げる、そういうのが理想なのに、参加者わたしだけのタグなんて全然成り立ってない…悲しい…ということでnoteにも転載することにしました。

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