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虚像を割る

『マリア様みたいな話し方をするね』
と、なぜか初めて会う人によく言われる。

『鱗ちゃんて聖母様みたい』と、学生時代は周りからそう称えられ、ニックネームが『鱗様』だった。

みんな、マリア様って、そんなに見たことあるの?そもそも、話したことがある人なんて、いないでしょ。そう思う時点で私は黒い。マリア様からは程遠い存在のはずなのである。
本当は内心、マリア様と呼ばれることは、嬉しい時もあれどあまり心地の良いものではなくて。
奉られるような遠い存在のようにあなたとは線を引かれてるような気がして。私はそのイメージを崩してはいけないような気がして。なんだか息が詰まる思いがした。


そんな聖母と呼ばれる私が、初めて聖母マリア像をまじまじと見たのは、ついこの前の土曜。東京カテドラル聖マリア大聖堂に訪れた時のことである。
名前すらも知らなかったその場所に、後輩が行きたいと言ったから、と言うくらいの理由で、閉館前20分で滑り込んだ。建築好きな後輩は、綺麗に並んだ椅子に座り、じっと祭壇や天井など、教会の造りを見つめて何か考えているようだった。夕暮れ時の淡い光が差し込んだ、仄暗い教会の中は天井がとても高く、変わった形をしている。打ちっぱなしのコンクリートの冷ややかさが見た目として目立つが、不思議と冷たさは感じない。人がいない祭壇と、綺麗に並んだ椅子は、教室や会社のそれとは違い、結婚式の時のそれとも違い、静かで厳かな雰囲気を持っていた。

一通り見渡して、私は隣の後輩の考え事を邪魔しないように館内の展示品を見て回る。
そうやってふらっと歩き回ってた時に、暗がりの中、協会の隅で、一際大きなマリア像のレプリカが目の前に現れたのである。
ライトアップされ、豪華に献花もされていたのに、そこに行くまで存在に気づかなかった。だからこそ見つけた途端にはっと息を飲んだ。
マリア様が、亡くなったキリスト様を偲んで、遺体を膝に抱き抱えるシーンを模した像だ。力なく横たわるキリストを、マリア様が膝に乗せて抱えているのだが、死んでいるはずなのにまるで今から授乳をするかのようだった。洋服から透ける乳首や、やわらかそうな手指の膨らみ、綺麗な首筋のくぼみまで、緻密に表現されている。だけど、靴は履いてないのか裸足でおられて、その足がいやに大きいと感じる。そんな細かい部分がが分かるまで、私はまじまじとマリア像を見た。


__私は、周りからこんな風に見えているのかな。


自分が思うよりもかなり女性的だ。女性ならではのあたたかな安心感を感じる。私のことを聖母だと呼んだくれる皆さんが感じているのが、この大きな抱かれるような安心感というなら、とても光栄に思えた。
亡くなったキリスト教を見る目は、悲しみではなくひたすらに優しい。穏やかな目をしていた。冷静に、亡くなった方をその胸に抱いて、冷たくなっていくのを感じてる場面を想像する。その場面でその穏やかな表情が如何に現実離れをしてるかに気づくまでに相当な時間がかかるほど、醸す空気に隙も揺らぎもなかった。

現実離れしているともよくいわれる。人間らしくないとも。ちょっと抜けてるところがあると、『ああ、鱗も人間なんだな、と安心するよ』と言われる。何故か、自分をマリア様たらしめるのはこちらの点なんじゃないかと思ってしまった。

本当は、誰よりも人間らしくいたいのに。
随分と自分から虚像を作ってしまったなあと思う。このマリア像だって、きっと、何かに縋りたいほどのなにかがあった人が作り上げた幻の存在を、きっといるって信じたくて誰かがこの世に形として残したものだ。
私も、誰か何かに縋りたいし頼りたいよ。と、思わず口に出しそうになった。でも、誰よりも縋りたかったから、私には人一倍、縋りたい頼りたい人の気持ちが手に取るようにわかってしまうのだ。目の前の誰かを、過去の私だと思って、思わず手を差し伸べたくなってしまうのだ。しかも、求められるものを与えることは、私にとって欲しいものを求めるより容易い。
そうやって、誰よりも救いたかったのは自分なのである。そして自分で自分を救うことに執着していた。マリア像をさながら自分で彫って、大事すぎるくらいに抱えるように。
しかし、この時は目の前のマリア様に圧倒されるばかりで、私はその事に気が付かなかった。


そして本日、予想外の体調不良により、自分の体に1週間の休みを貰った。その出来た時間で、本を読んだ。辻村深月の、『傲慢と善良』である。

物語のあらすじはこんな感じ。
とても善良で、『いい子』であるはずの婚約者が、結婚が決まって幸せ絶頂のはずのある日、姿を消す。ストーカー被害に遭っていたという婚約者の言葉を元に、婚約者ないし連れ去った犯人を探すべく、主人公の架が色々な人に当たりながら手がかりを探す旅に出る。その道中で、恋愛や人の感情の様々に触れる物語であり、婚約者の本当の人柄や真実(しんじつ)にも、次第にきづいていくのだ。

書き殴ったような文では無い。その丁寧な1文1文に、不意に平手打ちをされるような、そんな衝撃を受けた。人の傲慢さ、善良さ、自己愛、葛藤、家族になることの難しさ。それら全ての描写があまりに細かく丁寧すぎるあまりに、こちらが情報として受け取る前に、脳に直接意味がぶち当たるような苦しさもあった。登場人物である婚約者の『真実(まみ)』に、あまりにも自分が重なりすぎて、色んな記憶も感情も引っ張り出される。
感動では無い、悲しくもない、ただ処理しきれなかった感情が溢れる涙が初めて流れて、しばらく止まらなかった。


本を読み終えて、閉じて、思った。


__私はただの人間だったんだと。

私にマリア様だなんて、恐れ多すぎる呼び名だ。それくらい、この小説の人間模様に、ちゃんとぐわんぐわんと揺さぶられ、自分の傲慢さや善良さや、その間の葛藤を思い出してオーバーフロウした。善良に見える外面にも、苦い傲慢さがちゃんと混じっていて、それにきちんと現実世界で悩みもがいている。私はマリア様を形つくりたがっていた、彫り師の人間の方だったようだ。
おかしな話だが、その苦みに安堵感を覚えた。


虚像を作ったら、虚像を守ることに必死で、与えることに固執して、逆に与えられた多くのものに気づけなかった。だって、マリア様に対して何かをしてあげて救って差し上げるなんて、そんなことを誰が思うだろうか。そのイメージを自分自身に擦り付けて、誰にも頼らないという虚像を作り、貰ったものへの感謝と謙虚さが失われていたと気づいた。
それに気づくために、今回の療養は必要な休みだったなと思う。いつも、自分の身体に無意識に気づかされるのだ。まずパートナーである自分の身体に感謝したい。


神だって時に頼りたい時があるんじゃないかと思う。それを何かのお礼で返さないと神の座が無くなるくらいなら、そんな虚像は捨ててしまえ。
感謝を搾取し、崇め奉られる存在になるつもりはなかったはず。
私も人間で、傲慢で、弱くて、誰かの支えの元に生きていると、今回の休みで痛感したのである。
弱って、弱さを思い知って、別の誰かの優しさに触れたから。
途端に、目の前の相手に『ありがとう』と伝えたくなった。
『ありがとう』の言葉が、一方通行になるとかならないとかを気にせずに。
さあ、虚像を割って、新しい自分に。










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