【時の織り糸】第2話(全6話)
(前回、第1話はこちら)
11(ハヤカワ)
社長からメールが入る。
『トイレ休憩してから22時30分開始』
周りのスタッフの退勤が21時くらいだったので、オフィスで1人随分待ったが、その時間で、かなり頭の中は整理出来た。そろそろ時間か…と思い、社長室に向かう途中で、ユカがぼーっとしているのが見える。
「ユカ、おつかれさま」
「は-い!疲れましたー!眠いでーす!腹ペコでーす!もう帰りたいでーす!」
「人事部長、またトイレで泣いていたぞ。みんなの前で何を言ったんだ?」
「まあまあまあ…後でフォローしとくから!」
(だいたい想像できるけどなあ…)と、俺はボソボソ言いつつ、社長室の前までの数歩の中でユカと話し、ノックもそこそこにドアを開けた。いつもながら上品な社長室であり、若い社長ならでは感性と趣味が表現されている。ユカやハヤカワは、実はこの部屋に大きな魅力を感じている。
「二人とも遅くまでお疲れさま…ユカさん、人事部長が会議の後、トイレで毎回泣いてるの何とかならない?」
「うわあ…社長もそれ、言いますか…」
俺はニヤニヤしているが、ユカは気にせず、切り出す。
「まあ、それはそれとして…社長!この3人でカイギ?打合せ?珍しいですよね!」
「うん…この話は、この3人で話したいな…と思っていて。もう日付が変わるような遅い時間に申し訳ないけど、正直『年寄り』はいらないんだ。この話には」
社長は2代目である。もう還暦をとうに過ぎた初代である父親は会長職に。他の経営陣も会長と共にあった大ベテラン達…控えめに言って『おじいさま』達である。つまりは経営陣の中で、圧倒的に社長は若く。今は三十三歳だ。社長が赤子の頃に、おむつを替えた事があるとか何とかで、番頭的存在の常務が笑いを取ろうとして、場を凍るのがテンプレート化されている。ちなみにこのエピソードを無表情で聞いている社長の顔は見ないようにするのが、全社員の暗黙マナーとなっている。
そんな社長でも、そのジジイ達を…おじいさま達を、解りやすく『年寄り』と表現したり、『いらない』という話をしていた所は、今まで見聞きした事がなかった。正直な所、驚き、背筋が自然に伸びる。
社長が「まあ座って」と、小さな声で革張りのソファへの着席を促すと、自らコーヒーを俺たちに運び、ゆっくりと話し始めた。
「来年は…今からちょうど11ヶ月後に、ウチのブランドが10周年を迎えるのは知っているよね?」
「もちろんです」「モチロンです!」
ハヤカワとユカの声が、重なって部屋に響く。
少しの沈黙が生まれたが、俺たちは社長が、次に口を開くのを待った。
12(ハヤカワ)
「親父…元々先代社長がやっていた事業は…アパレルとはまったく関係が無かったけれど、10年前にこのアパレル事業をやり始めて、トントン拍子に業界内で今のポジションだ。売上も社員数も、数十倍になった。業界内でも賞を貰ったりするようになった。それには、ユカさんにハヤカワさん、二人の力が非常に大きかったと思っているよ。改めてありがとう。」
ユカが、社長に言葉に被せるように話始める。
「いやいや、社長!これは社員みんなで頑張った成果ですよ!…社長も、ちょっとは頑張ったかな?」
「おいおいおい…ユカ…その言い方はダメでしょ。社長は結構頑張りましたよ」
普通なら、一般社員が社長に利くような言い方では無いが、実はこの3人の中では日常的なやりとりだった。世代の近さ以上に、社長の人柄に甘えている部分もある。そして、社長はいつものように大笑いしている。もちろん他の経営陣や社員がいる場では、こういう言い回しは、ユカは絶対にしない。そういう空気は正しく読めるのがユカだ。
「いやー、相変わらず二人とも手厳しいなあ。でも、それで自分自身にプレッシャーを掛けている事も理解しているよ。それも合わせて、二人をすごいと思っているよ」
ユカは「ちぇっ…」と、マンガの様に言いながらも、ぼそっと「やっぱ社長すごいわ…」と呟き、俺も力強く頷く。そこに社長は続ける。
「二人は、この先…5年後、10年後、20年後…この会社、いやこの業界がどうなっていると思う?」
「え?」「……」
「正直な所、会長も他の経営陣も、この会社の将来には興味が無いんだ。いや…違うな…今のまま特別な問題も無く、この事業が続くと本気で思っている。本来、そういった未来の姿を描くのは得意な人達で、かつては熱量もスゴかった。…だけど、ここ数年で、その視点がすっかり抜け落ちてしまった。特に社長が僕になってからは、他の経営陣はみんなどうやってキレイに、金と一緒に身を引こうかを考えてばかりだ。有り難くもあるが、不安しかない。僕は未来に明るい色なんか、一つも見えていない」
ユカは考え込むような表情をしているが、恐らく俺の表情は曇っているだろう。
13(ハヤカワ)
「社長!未来委員会をやりましょう!メンバーはとりあえず、この3人で。」
ユカが沈黙に耐えかねて、声を張り上げる。しかし俺は、社長にもユカにも目を合わせないようにした。
「未来委員会か…何が『委員会』なのかは解らないけど、面白そうだね、ユカさん。…例えば、どういう事をやるんだい?」
「例えば…売上トップ店舗には、海外旅行プレゼント!とかも良いんですけど…それよりも…今、営業時間が長い店長やスタッフは、明らかに疲れています。そういう店舗は、閉めるはいきなりムリだから…営業時間を短縮とか?…そういう事を考える会です!」
社長がそれに答える。
「うーん…悪くはないし、大筋では賛成だけど、それはあくまでも営業軸…店舗の運営の部分だよね。それに、それが、10年後や20年後にどう繋がるんだろう?ユカさん?」
「社長…私は、お客様にも社員にも、年齢性別問わず愛されるブランドがある会社にしたいんです。人事部長に厳しく言ってしまうのは、それが理由です。全然そのあたりが見えてないです。人事は」
「うん」と言って、また社長は答える。
「なるほど、ずっと『みんなに』選んでもらえる会社と、ブランドを目指す、みたいな事かな」
ユカは声のトーンが一つ上がって、一気に話しはじめる。
「あたし…私の事で言えば、もうすぐ三十歳なんです。でも、正直ここからの人生のイメージが出来ないんです。今も、三十五歳までには、きっと会社を辞めるんだろうな、って思っています。私は…ウチの会社が超超、超絶ブラック企業とは思っていないけど、残念だけど、どうしてもそういう所があるし…かと言って福利厚生だけでホワイトな企業、だけで愛される感じもしない。だから…」
「それは大事な事かもしれないね。」と社長も言う。
そこから15分ほど、社長とユカで色々な話が飛び交っていたが、俺は沈黙していた。
「ハヤカワさん。ハヤカワさんはどう思う?」
社長からの問いかけに、覚悟を決めた。
14(ハヤカワ)
「社長…俺は正直、このブランド、会社のやり方を、真摯に20年続けていけば、もっと優れた企業になると思っています。何も突飛な事や、変に特別な事をしなくても良い。ただひたすらに磨き続ければ良い。それが唯一無二になり、絶対の強みになる。そう思っています。ただ…。」
何か言いたそうなユカを社長は右手と笑顔で制し、「ハヤカワさん。続けて」と。
「俺たちが恐れなければいけないのは、自社の力が高まらない事でも、単純な近隣店舗や競合他社の台頭でもなくて…実は見えていない内側の要因と、もっと大きな外からの要因だと思っています。しかも…それは想像した事も無かった事…そんな」
社長もユカも黙って聞いている。
俺は、続ける。
「もしかすると、世界的に経済が破綻するかも知れない。世界規模のアパレル企業が、日本の市場を荒らし回るかも知れない。店が全壊、崩壊するような天災が起きるかも知れない。今はインターネットで洋服を買うなんてとんでもない…とか言う人も多いけど、ついにはそれが当たり前になって、店舗や販売員なんて、意味が無くなるかも知れない。日本自体がもっともっと貧困化するかも知れない。もしかすると、世界規模で感染症が…」
「ストップ!ストップ!」
ユカが声を張り上げた。
「そんな話の規模にしちゃったら…それは明日地球が崩壊したら…みたいなレベルと同じだよ…もっと楽しい未来委員会にしようよ…それに…ハヤカワ?」
「そうか!そういう事か!」と、俺は無意識に叫んでいた。
そうか。そうだ。
「社長。ちょっと時間を下さい。また別の時間で打合せをお願いします。失礼します!」
「ちょっと!ハヤカワ!」
ユカの言葉は聞こえているが、そのまま俺は、社長室を去る。
ユカも社長に一礼して部屋を出るのを、一応は背中で感じながら。
社長の表情は、確認しなかった。
15(ユカ)
「ちょっと!待ってよ!ハヤカワ…」
ハヤカワは気にする素振りもない。
「待てってば!」
後ろ姿に追いつき、無理矢理にハヤカワの右手を掴む。
「なんだよ…」
「なに勝手に納得して、勝手に出てくのよ!」
ハヤカワは、一度目を瞑り。
「全部話すよ。俺が知っているこの先の、暗く救いのない、これからの20年を」
16(ハヤカワ)
ユカが追いかけてくれるのは解っていた。…いや、期待をしていた。この話を誰かに聴いてもらいたい、聞いてもらうだけでも良いからだ。この話を真面目に聴いてくれる人間は、今この時代ではユカだけ。他の人間に話したとしても、奇人変人でしかない。
「ユカ、今日はもう仕事は終わりか?まあ、もう見事な夜中だけど」
「うん。これで今日の予定は流石に終わり。特に用事も無い。というか今、夜の23時だよ?」
「じゃあ…居酒屋は…ちょっとイヤだな…。どこか他人に聞かれず、ゆっくり話せる所はないか?」
「ヒゲカフェ…しかないね。あそこは深夜2時までやってる。今はバータイムだけど。」
五秒の沈黙。
「ヒゲかあ…」
「ウチに来る?もちろん、部屋は綺麗にしておりませんけど!」
「ヒゲで…」
「ふうん」
二十九歳の女性であり、彼氏が出入りしているであろう部屋はちょっと遠慮をしよう。なので、本日2回目のヒゲカフェに行く事にする。
「どうせ、もうとっくにみんな業務は終了して、家に帰っているだろうけど…一応商品部オフィスの消灯と鍵の確認だけしてすぐに行く。俺のカバンもあるしな」
「オッケー。メロンソーダのアイス乗せ、頼んどく」
何だか、ユカの軽い言葉も耳から耳にすっと抜けていくような感じがした。
17(ユカ)
よくわからない。
いや、あれで解る方が無理じゃない?
しかし何だろう。あのハヤカワが、20年先の未来の記憶を持っている事。それは、何となく本当の事のように感じてる。何というか…ハヤカワは今まで以上に、私を小娘扱いしているし…まあ、元々ハヤカワはそういうキャラだけど、ほんの少し違う。
とりあえず、今日2回目にお会いするヒゲの店長に目配せしながら、奥の個室の椅子にゆっくりと腰掛ける。アイスティー2つを注文し、小さなコップに入った氷の入った水を飲み干した。
たったの数分で、飲み物とハヤカワは同時に到着した。
「お待たせ…あれ、クリームソーダは?」
「あれれ?本当に頼んだ方が良かった?」
「いや…いい…いらない…」
「なにそれ?」
ハヤカワが、椅子にカバンを乱暴に投げる。何か手に封筒?を持っているみたいだ。
「じゃあ、まあ…話してみるから、信じて聴いてくれよ?」
「うん。聞いてあげる」
テーブルには、封筒から出した、2つに折ったA3の白い紙と、黒、赤、青のボールペンが置かれる。
「俺自身も、整理しながら話したいから…これに書きながら話す」
「さすがに準備がいいねえ、ハヤカワ君」
ハヤカワは、わざとらしく…ふうっ、と息を吐き、続ける。
「まずさ…気になるであろうブランドの10周年イベントだけど、これは大成功したよ。お客様も社員も大喜び。売上高も過去最高って。業界内でも話題になったほどに」
「さすが私達。さっきの未来委員会の効果もあるのかな?」
「ああ。店舗スタッフの働き方を見直し…つまり営業時間の短縮とか、無茶なシフトは全面禁止。これの効果は絶大だった。疲弊しているスタッフがいないチームの強さを感じたよ。後は、色々あるけど、俺たちとお客様の一体感が一番あったのも」
「あったのも?」
「この年が最初で最後だった」
18(ハヤカワ)
「最初で最後…?」
みるみる、ユカの表情は険しくなった。
何かを言いたそうなユカを制して、俺は続ける。
「その後を、ものすごく簡単に言葉にすると、俺たちが三十歳。ブランドが十歳の年。この時ブランドは死んだ」
「え?シンだ?…何…それ…」
「正確には、会社やブランドが消滅した訳じゃない。ただブランドを一緒に急成長させてきた仲間は一斉に居なくなった。燃え尽きたヤツもいれば、このタイミングで自分を高く買って貰おうと転職とか、給料に納得出来ないとか、色んな理由で…とにかくほぼ全員。残ったのは俺だけ。後は最近入社したヤツらとアルバイトスタッフくらい」
「え?…そんな事って…え、と、あたしは?」
少しだけ間を空けるために、コップに入った水を一口飲み、続ける。氷が溶けたコップは水滴だらけだ。
「ユカはさ…どちらかというと、自分から、じゃなくて責任を問われ…?責任を感じ…?…それが曖昧なのは理由があって、実はそれをユカ本人から聞けずに、突然退職したんだ。だから俺もその真意はわからない。ただその後、風の噂で、彼氏さんと結婚して娘が生まれたって話だけ聞いて、ほっとした」
「なるほど…って、あたしがそんな選択をするなんて、何か意外だわ」
「…追い込まれていたのか…違う理由か…とにかく解らない」
「うーん…で、ハヤカワのその後は?ハヤカワは会社に、ブランドに、残ってたんでしょ?」
俺は、アイスティーを一口含む。
「俺は、俺で…辞めていったヤツらの残務を処理しながら、ひたすらにマニュアルを作らされたよ。それが責任を全うする事だってな。ただ…創業期のメンバーがやっていた事なんて、簡単に言語化が出来る訳がない。もしそのマニュアルを読むだけで同じレベルの仕事が出来るんなら、世の中の全員が成功者だよ。…ただし、それがその時の経営からの指示。だから従った。従う事にした。従うしかなかった」
「なんで…ハヤカワは辞めなかったの?」
不思議そうに、ユカは俺を見る。
純粋な目が、ただ、ただ痛い。
19(ハヤカワ)
「なんで…だろうな。あの時に同じタイミングで辞めていれば、その後の人生は、それなりなモノになっていたかも知れない。たださ…俺が残っていれば、いつかみんな戻ってきてくれる、マニュアルなんかじゃ代わりにならない、経営陣もそう解ってくれる。って…考えていたんだ」
「うん」
「でも、そうはならなかった。3年かけて業務のマニュアルを作って整理して、新しいメンバーでもカタチだけは仕事が出来るようになった。ただやっている事は昔の劣化コピーそのもの。でもそれで当時の経営…会社は満足だったんだろうな。マニュアル完成と同時に…俺は退職する事になったよ。追い出されるように」
ここでユカが思わず口を挟む。
「…あれ?社長…社長はどうなったの?」
「社長こそが、10周年企画で燃え尽きた…全てを燃やし尽くした人だったのかも知れない。社長は社長だけど、会長やそれ以外の経営陣は、古い繋がりで、結局は会長びいきだからさ。新しいチャレンジや投資の回収に時間が掛かるような事は、すべて決裁されなかったらしい」
「そういうのって、社長が全部決められるんじゃないの?」
「まあ、それは…株式会社の仕組みを勉強してきて…と言いたい所だが、簡単に言うと、結局は別の誰かが決裁権限を持っていたんだよ。そして会長に入れ知恵をする、あの怪しいコンサルジジイも邪魔だった」
ユカは、今、口を挟まない。
「で、俺はようやく自由…になったんだが、いざ転職活動をしても『昔、運が味方して、ちょっとだけ売れていた小さなアパレル企業にしがみついた男』としか評価されず…正直な所、かなり苦労して…色んな会社を転々としたよ」
「………」
ユカは何も言わない。
「まあ、そんなこんなで、冴えない五十歳のオジサンが出来上がる訳だ」
「………」
「………」
「あ、そうだ!」
ユカは、ようやく沈黙を破る。
「ん?」
「さっきさ、社長室で『そういう事か!』って言ってたじゃない?元々は、それが聞きたくて」
「ああ、そうだったな」と、俺は姿勢を正して、話す気持ちを固めた。
20(ハヤカワ)
小さな声で、聴いてくれ、と呟きながら。
「俺がそんな五十歳にならないために、今なら…2005年なら…やれる事がある。仲間のみんなが、暗い過去をいつまでも引きずらないように。あの頃があるから、今がある、って、いつでも胸を張れるように。この流れを、今断ち切る。そのチャンスを俺は貰ったんだよ。きっと」
俺はアイスティーを、ストローを使わず、飲み干した。
ユカは、少しの沈黙の後、話しはじめる。
「あのさ、ハヤカワはさ、さっきペナルティがあーだこーだ、と、言ってたじゃない?あれは何?」
「ああ…そっちの話もするよ…と言っても、これは予想だし、推測だけど」
「うん、推測でも…聞きたい」
腕時計を左腕から外し、すっとテーブルに置き、画面をユカに向ける。
「この時間表示を見てくれるか?」
「うん?08時50分?あれ?それ時間ずれてない?今、夜中だよ」
「この数値は今の時刻じゃなくて、残り時間?…いや違うな…猶予時間みたいなものなんだ。たぶん」
「うーん?猶予?」
ため息が勝手にこぼれるが、お互いに気にせず話を続ける。
今年…俺がいた2025年の総理大臣の話をする。その間、ユカはポカンとした顔をしている。
「ハヤカワさーん?いったい何の話ですかー?」
もう一度、俺は腕時計のデジタル表示に目をやる。時刻は08時40分だった。
「んーやっぱりか」
「どういうこと?意味わかんないけど…やっぱり変だよ?その時計」
「まあおかしいよな、時間表示だとしたら、時を遡っているんだ」
「それは解るけど…どういうこと?さっぱりわかんない」
これが、まさに困惑した顔だよな、と俺は冷静だった。でも、その姿は異常かもしれない。
21(ハヤカワ)
ドアを隔てた店内が、バータイムの酒の力で活気付づいている事を感じながら、俺は続ける。
「つまりさ…この表示、現在の時刻じゃないんだよ…。実はさ、一番はじめにこの表示を見たときは、10時00分だった。それが、どうやら変な減り方をしている」
「…はい?時間が…減る?」
「さっき、ユカが会議だ、って、走って店を出たときに、何となく腕時計を見たらさ、09時50分だった。時間の表示が『確かに減っていた』。まあその時は…深く考えていなかった」
「うーん?話が難しすぎるよ?…ハヤカワせんせい?」
まあ、訳が解らない話だからな…俺も話していて、混乱している。とにかく続ける。
「今って、どう考えても深夜だよな。で…今見たら08時50分。どう考えても変だ。時刻表示ではない事だけは確かで、そして数字が遡っている…減っているのも機械としておかしい」
「ふむふむ」
「これも完全に推測の域を出ないけど、未来の記憶や未来の情報を、私利私欲のために…とか、今を都合良く変化させるような『お望みでない発言や、思考をするだけ』でも、この時刻表示…いや猶予?が減っていくみたいなんだよ」
「あ、さっき社長室でハヤカワが、色々未来の話していたもんね」
「ああ、あの手の発言は、どうやら『ペナルティ』らしい」
少し頷いた後「あれ?」とユカは、不思議そうに言う。
「ハヤカワ、この店で、私に色々未来の話をしてくれたじゃない。それ『ペナルティ』じゃない?」
「いや…実はさ。椅子に座る時は、何となく腕時計を見る習慣が俺にはあって、その時にはすでに08時50分だった。だから、この店で話した内容はノーカウントか、ペナルティ外みたいだ」
「うーん?ますます条件がわかんない…というかペナルティとか…何それ?っていうのが元々あるけど…」
ユカが自分の腕時計に目をやる。白いベルトのデジタル表示の腕時計で、これも当時流行していたものだ。確か限定モデル。俺からすると20年も前の記憶なのに、すっと連想出来ているのは、少々不思議だが…記憶が2005年と2025年をミックス出来ているのかもしれない。
何となく俺も、ユカの時計の時刻をなんとなく覗き込む。時刻は00時20分。もう完全なる深夜…夜中だ…そろそろ、ユカは家に帰らせないとな。
ただ、もう少しだけ、あと少しだけ、はなしていたい。
22(ハヤカワ)
「大丈夫。ユカの腕時計は、普通の時計だよ」
「そうなのかな?」
「そもそも未来の記憶も無いんなら『ペナルティ』に値する思考や発言なんて出来ないし」
「実は、あんまり腕時計の時間を見る習慣が無いんだよね…ファッション的にというかお守り的に付けているものだから…だから、いつもケータイの方とか、店だったらレジのパソコンで見る癖がついてて。これから気にするようにする」
ペンと紙をたぐり寄せ、目の前に持って来ようとしたタイミングで、すかさずユカは、俺のグラスが置いてあった場所を紙ナプキンでさっと拭く。紙ナプキンに水滴が染みこむ。
「ああ…ありがと。そういう所が、ユカのスゴさだよ」
「そうでしょう。そうでしょう」
考えていた事を、とりあえず書いてみる。
『ペナルティのルール?』
未来の情報を私利私欲に使う、口に出すとペナルティ
ペナルティの結果は、残りの猶予値として、腕時計のデジタル表示で解る
数値の減少は、自分のエゴが強いほど、多くなる
「こんな感じか…な」
「なるほど、なるほど」
「3の条件については、勘だけど…多分、合っていると思う」
「…あのさ…ハヤカワ?」
ユカはこう続ける。瞬きの回数の多さが、妙に気になる。
「もしさ?もし、その猶予表示?が0まで減っちゃったら、どうなるの?」
「いや、解るわけないだろ…でも恐らくは、良くない事が起きるんだろうな」
「良くない事?」
「多分だけど『今ここにいる俺が消滅して、2025年に戻る』とか『どこにも存在しなくなる』とか、じゃないか?」
ユカは眉が下がり、口が一文字で、明らかに困った顔をしている。
「え?ホントに?それはヤバいね…」
「まあ、推測でしかないよ。もしかしたら『未来に戻れず、この時代からやり直し』かも知れない。まあもう一度三十歳からやり直せるなら、嬉しい事もあるけど…そんな都合よくいくかな?ってとこだ。とにかく解らないな」
ユカは何故か、左腕を上げて時計を見たようだが、特に理由はなさそうだった。
23(ハヤカワ)
「まあ、ユカ、今日のところはそろそろ終わりにしよう。明日も早いんだろ?もう0時を過ぎちゃったってことだよな」
「残念でした!明日はオフでーす。まだ大丈夫でーす!」
「いやいや…」
そう…正直な所、1人で頭を整理して考えたいのだ。とはいえ、久しぶりにユカとあの頃のように…いや今は現実なのか…話している時間は、決して悪くはない。いや、もう少し正直になろう…楽しくて仕方がない。せっかくだから、ちょっと俺の頭の整理を手伝ってもらうか。
「じゃあ悪いが、サンドイッチでもご馳走してくれないか?」
「え?あたしの手作りサンドイッチ?高いよ?生地からこねるから」
「いや、この店の…」
「ですよねー」
ここでこういう話が出来るユカを尊敬するし、敬意を表して乗っかってみる。
「ちなみに、パン焼いた事あるのか?」
「あるわけないじゃん。だから高いんですよ。ハヤカワさま」
どんなに辛い状況でも、いちいち、こういう風に戯けてくるのが、差し込めるのが、ユカが周りに愛されている理由の一つなのだ。だからこそ、あの時、ユカが何故あんなにも強烈に責められ、退職にまで追い込まれたのか、考えるだけでも気分が悪かった。そして、同時に俺の心は決まった。
「俺はさ…この力を使って、これから起きるであろうトラブルを回避していく」
「え?」
「仲間達がバラバラになる未来を回避する。ユカが望まない退職をする未来を回避する」
「それさ…さっきの猶予表示?減らない?大丈夫なの?」
うーん。またしても違う実験をしたくなった。いや、しておくべきだろう。
「ユカさ…さっき、ここで未来の話をしたけど、減らなかった話…覚えているか?」
「うん?そう言ってたね」
恐らく…この予想はあっている。試すしかない。
「近い将来、日本の一部地域に大きな天災が起こる。それにより店舗は被害発生」
「え?」
俺は、腕時計を見る。表示は08時50分のまま。変化はない。
「ハヤカワ!時計見せて…減ってないね…」
「どうやら、具体的に特定不可能…曖昧な話であれば、ペナルティではないのは間違い無さそうだな」
「という事は、理由は特に話さずに、例えばその場所から先に逃げておくように言えば…ペナルティは無く、ピンチを回避出来るかもしれないって事?日付も解るんでしょ?」
確かにユカの言う通りかも知れない。具体的な話をせず、行動だけを誘導する。その時に何が起こるかを事前に知るのは俺だけで良い。それでも誘導さえ出来れば、みんなはトラブルに巻き込まれない。
「そうだな…ユカの言う通りだと思う。まずは10周年イベントの時に起きた事。そしてそれからこの国に起きる事。時系列で書き出すよ」
ハヤカワは、黒いペンで左から右に長い線を引き、最後は矢印。一番左に『2005年』、そして一番右に『2025年』と、書いた。
24(ハヤカワ)
「ここから、俺が書いている間…ユカは暇だと思うけど、いいのか?」
「大丈夫。今からヒゲさん特製カレー食べるから。月1回のカイギ終わりのお楽しみ。深夜の罪悪感の中で食べると、尚美味しい」
「おお、あれは旨いよな。週5で食べていた時期がある」
「えー?!いいなあ…今日は特盛りにしよ!」
その身体のどこに特盛りが収まるのかに興味はあるが…ここはゆっくり食べていて貰ったほうが良さそうだ。
「ちょっと集中して書きたいから、食べている間は普通のテーブルに行ってくれるか?」
「えー?あっちは、バータイムで酔っ払いが沢山の時間だからなー。可愛い可愛いユカちゃん、ナンパされちゃうよー?」
「それに、あの香りを嗅いだら、俺も書いている場合じゃなくなる…」
「あらー?目の前で、拷問的に食べてやろうと思ったのに。ヒゲカレー」
「それは、あくまでも通称だからな!商品名は特製カレーだ。そう注文しろよ」
ほらほら、あっちで食べな。と、手の甲でユカを促す。ニヤニヤしながらユカは別席に移動した。
やれやれ。
でも、そんな些細なやり取りでも…今の俺には救いになる。
(次回、第3話はこちら)