デザイナーの存在感が大きくなっているのは、なぜだろう 〜これからのデザイン。
増殖するデザイナー。
肩書きに「デザイナー」のつく人間が増えているような気がします。
・VRデザイナー
・AIデザイナー
・ドローンエクスペリエンスデザイナー
・プロセスデザイナー
・カスタマーサービスデザイナー........
この勢いだと、100年後には、人間よりもデザイナーの方が多くなっているかもしれません(?)。
あちらこちらで「デザイン」の重要性が声高に叫ばれ、「デザイン」という言葉がビジネスを覆い尽くしています。
デザイン経営、デザイン思考、デザインドリブンイノベーション...。
なんでも「デザイン」をくっつければいいような雑な雰囲気さえ漂ってきます。
そこには、おそらく「デザイン」という言葉の使い勝手のよさがあります。
その意味を、Wikipedia先生で確認してみよう。
「デザイン」はさまざまな分野で異なった意味として用いられている
もはや定義を諦めている 笑。しかし、以下のように続けています。
英語では意匠については「スタイル」という語があるためそちらが使われる場合・分野も...
この記述に注目して考えると、「デザイン」から「スタイル」を抜いた部分が肥大化してきているようです。まとめると、下記の図のようになります。
図の赤い部分の需要が、日に日に増大しているようです。それはなぜでしょうか。
それはコンピュータとインターネットの普及のせいだと考えられます。
コンピュータとインターネットが普及すると、なぜデザイナーがたくさん必要なのでしょうか。
「見立て」の誕生。
コンピュータとは、ONとOFFを「0」と「1」で表現する、単なる計算機です。あるとき、人間はその「0」「1」を羅列すれば、「文字」を表現できることに気づきます。座標などに変換して、図形や動画、音楽さえも表現できるのです。
つまり、「0」「1」の計算だけで、なんでも表現できる。
しかし、このままではコンピュータは今のような発展はありませんでした。ここで「見立て(メタファ)」が誕生し、パソコンは爆発的に普及するに至ります。
つまり、「なんでもできるコンピュータ」の一部分を「ワープロ」と見立てたり、「絵の具」と見立てたりして、アプリケーション化(道具化)して、GUI(グラフィックユーザーインターフェース)を採用することにより、圧倒的な使いやすさを得ました。
わたしたちは、この「見立て」を歓迎します。
この潮流に変化が生まれたのが、2007年、iPhoneのiOS7から採用された「フラットデザイン」です。
「フラットデザイン」の登場。 「見立て」の消滅。
Appleは突如、「見立て」を極力排除した「フラットデザイン」をインターフェースデザインに採用しました。
あれほど歓迎していた「見立て」を捨てたのは、なぜだろう。
その理由のひとつは、「見立て」では表現できないものが生まれてきたからです。
「なんでも表現できるコンピュータ」とインターネットが出会い、さらにそれをスマホとして持ち歩くことにより、「人間が今まで体験したことのない何か」が生まれるようになってきました。
その代表的なものにSNSがあります。
昭和時代にタイムスリップして、twitterの面白さを説明するのは至難の技でしょう。
こうした「人間が今まで体験したことのない何か」を付与できる、無限の可能性を持ったものを、「見立て」によって極力制限することがないように採用したものが「フラットデザイン」だったのです。
「見立て」は急速に消え、色面と写真とアイコンとフォントだけが残ります。それは、人を「体験」にフォーカスさせるためでした。
環境から「体験」を考える。
人の「体験」が、かつてないスピードでアップデートされています。
現実の景色よりも、スマホの画面を見ている時間の方が多くなりつつあるし、あらゆる「モノ」にセンサーとインターネットを埋めこみ始めています。人と「モノ」がインタラクションし、「モノ」と「モノ」までがインタラクションし始めている。
そうなると、何をビジネスするにしても、何を「体験」するのか、させるのか、その環境から改めて考え直す必要が生じてきます。
例えば、自動車業界では「モビリティ」という概念が登場しました。
これは完全自動運転と、5Gという超高速インターネットなどの技術発展により、今までの「車」という「モノ」の概念を、「AからBへ移動する体験」と捉え直し、「その環境全体から人間が得るものは何か」を考えることです。
「なんでもできる」コンピュータが小型化され、世界のあらゆるところにバラまかれ、5Gという爆速インターネットが常時接続され、センサリングにより森羅万象のログがビックデータとしてクラウドに鎮座し、それをエサにした機械学習が因果不明だが、圧倒的に正しい答えを用意していく。
できることが増えている。でも、何をしていいか、わからない。
この問題を解決する全てを「デザイン」という言葉に託しているように感じます。「デザイン」すれば、なんとかなるのではないか。だって、課題解決がデザインの仕事でしょう。
課題解決だけでは済まなくなった。
「課題解決がデザイナーの仕事だとおもっています」
デザイナーの採用面接で多く聞かれる言葉です。最初に聞いたとき、少し違和感を持ちました。経営者からゴミ集めの人まで、すべからく課題解決が仕事ではないだろうか。逆にいうと、課題解決が仕事ではない職業とは何だろう。
最初から、すべての職業には大小あれど「デザインすること」は含まれています。ゆえに「デザイン」という言葉は氾濫したと思っています。
しかし、現代は、今までみてきたような目まぐるしい技術発展と市場変化のおかげで、「課題解決」として生み出された製品やサービスの鮮度は、すぐさま低下してしまう。
新しい環境が誕生し、新しい意味が生まれてしまうと、解決すべき「課題そのもの」がすでに消滅し、既出のソリューションが無意味になってしまいます。
こうした「見立て」が通用しない、新しい体験をどう意味づけするか。その行為も「デザイン」とよばれるようになっているようです。
新しく生まれた環境を「知覚」して、「定義」して、「設計」して、「体験」を届けることが、デザイナーの仕事。こうして、「デザイナー」の存在感がいつの間にか大きくなっています。
わたしたちはそもそも誰もがデザイナーだったし、デザインの意味の拡大は止むことがないし、そのうち、AIもデザインし始めるでしょう。
この勢いだと、100年後には、人間よりもデザイナーの方が多くなっているかもしれません。
【参考】
「融けるデザイン ―ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論」渡邊恵太
「モビリティ2.0 「スマホ化する自動車」の未来を読み解く」深尾 三四郎