【私って何だろう?】
たとえば命の尊さに触れたとき。
生きている感謝や奇跡を感じたとき。
自分や世界の存在をふと考える時間ってありませんか?
私は大好きだった祖父が亡くなった学生時代に、深く考えこみました。
港町に住んでいた祖父。
大らかで周りから頼りにされる存在。
ガハハと笑う恰幅よい祖父の大きな背中を尊敬していました。
おじいちゃんはいつまでもカッコいい。そして強い。
祖父が病を患ったとき、そう簡単には亡くならない!と
当時10代の私は自分に言い聞かせて思い込んでいました。
私が幼い時から知っている
大好きな祖父でいてくれるはず。そう、心から願って...
そんな私は、祖父に会いに行く勇気もありませんでした。
現実を受け入れられないまま時間だけが過ぎていきました。
ある日、母から「もう、本当に会えなくなるかもよ。いいの?」と言われました。
現実を受け入れたくない。
会いたいけれど会いたくない。
そんな気持ちを抱えて、最後に会いに行きました。
恰幅がよかった祖父は、ベッドの上でふた回りほど小さく見えました。
細い声で私の名前を呼んで。
でも、ふり絞るよう力強く手を握ってくれた感触は、今も心に残っています。
私は、大切な人の死を目の当たりにして、命の儚さと尊さに絶望しました。
そして、私は何のために生きていて
なぜ生を受けたのか?自分には何ができるのか?
答えが出ない問いを
まだ短い人生経験の中で
深く考えようと苦しみました。
そんな祖父の死は、私が哲学に触れる
きっかけにもなった出来事でした。
ヨガの歴史は古く、実は、哲学的な考え方も伴っています。
体だけが私ではない。自分とは?世界とは?
そんなヨガの壮大な側面に私は惹かれています。
例えば、ヨガのレッスンを受けた後。
リフレッシュできた!気持ちがクリアになった!
視野が開けた!前向きになれた!
そんな風に感じるのは、
自分の心を知り、内面を磨く術として
古い歴史があるからです。
ヨガでは、私たちが「生きよう」とする力を
「プラーナ」と呼びます。
目には見えない神秘的な
エネルギーが体の内側を
流れていると考えられています。
それは、内呼吸だったり血流だったり
神経系の働きだったり、様々な解釈があります。
目には見えないけれど
たしかに感じる繊細に強く
生きている自分のエネルギーです。
私の祖父は手術や治療を受けながら
強く生きていました。
最後に彼が手を握り返してくれた
強さは「プラーナ」の現れだった、と思います。
どんな肉体になっても、大好きな祖父は強かった。
私が祖父の死と本当の意味で
向き合うことができたのは、20代半ば。
インストラクターになってからです。
ヨガや哲学を学んで、
自分なりに当時の感情や気持ちの解釈を
深められるようになってからです。
私が当時の気持ちとどう向き合ったか?
どうやって乗りこえたか?
長くなったので、また次回綴りたいと思います。