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「2人目を生むか生まないか」の私の答え

私にはもうすぐ4歳の息子が1人いる。

同じくらいの子供を育てる友人らの中には、2人目が生まれたり、その2人目がある程度大きくなってきたりしていて、私も最近「2人目を生むか生まないか」をぼんやり考えたりしていた。


息子を生む前、子供は2人、もしくは3人ほしいなと思っていた。息子が2歳になるくらいに買った電動自転車には、当たり前のように前と後ろに子供を乗せる椅子を設置した。けれどもなんだか全く余裕がなくて、すぐに2人目を生む気になれなかった。というわけで、息子が幼稚園に入って落ちついたら2人目を考えようと旦那さんとふんわり話していたのだ。


さて。息子が幼稚園に入った。

さあ、2人目を生むぞ!

この流れからいくと、そう思うところなんだろうけれど、どうしてもそうは思えなかった。  

それどころか、また0から子育てがはじまるのかと思うと、なんだか気が遠くなりそうだった。お腹が大きくなって、産んで、おっぱいをあげて、寝かしつけて、抱っこして、おんぶして、というようなことをもう1度はじめからやることが今の私には不可能に思えた。


息子を幼稚園に送り出してホッとしたことから、私の子育てに対する情熱はなんだか燃え尽きてしまったかのようだ。


息子が生まれてからの数年間は幸せなことが本当にたくさんあった。それと同時に、今まで感じたことのないような、自分の中から湧いてくる目を背けたくなるような感情たちと向き合ってきた数年間でもあった。


1歳になるまで、息子の全身を見たことがないと友人に言われるくらい、家でも外でも抱っこばかりしていて、私はある日ぎっくり腰になった。赤ちゃんだから当たり前なんだけれど、そんな状態でも容赦なく抱っこを求めてくる息子に感じたどうしようもない怒り。

夜泣きで泣き止まなくて、この夜の時間が永遠に続くんじゃないかと思うような絶望感。

もう肉体的にも精神的にも限界で、本当に自分の口から出てきたものなのかと疑うくらいの汚い言葉が、私の口から溢れてきてしまったときの、自分で自分を軽蔑する気持ち。

少食の息子になんとかごはんを食べてほしくて、手間暇かけて工夫して作ったのに全然食べてくれなかったときの、ごはんを投げつけたくなるような衝動。


思い出しただけでも、胸が苦しくなる。



2人目は手抜きができるし、全部おおよそわかっているし、一人目より楽な場合が多いよ。いつのまにか成長してるよ。そう言われても、そんなの生んでみないとわからない。

私はまたあの目を背けたくなるような感情たちが自分の中から湧いてくるのが嫌で嫌でたまらないし、そしてすごく怖い。


すべてのお母さんたちが多かれ少なかれ私と似た感情を感じているんだと思う。だから、2人目を育てようと決心して、実際に育てているお母さんたちを、私は心の底から尊敬する。


2人目がほしくないわけではない。でもひとりっ子でもいいかなという気持ちが湧いてくる。ひとりっ子か、近々2人目を生むか、2人目をほしいと思うようになったらそのときに考えるか、さてどうしようか。


そんなことをぐるぐる考えているときに、ふと思った。


果たして、2人目を生むか生まないかということ、2人目をいつ生むかということは、私に決められることなんだろうか、と。


息子は特に「妊活」といわれるものをせずにお腹にやってきた。むしろ結婚して数年は2人で楽しもうね!と新婚旅行で言葉を交わした2ヶ月後に息子はお腹に宿っていた。

もちろんうれしかったけれど、あまりの予想外な展開に驚いた。まだお母さんになる心の準備ができていなかったから、お腹がだいぶ大きくなっても、朝目が覚めて自分のお腹が飛び出していることに気づくとギョッとした。

お腹がすごく飛び出してきたある日、当時働いていた職場で話題になっていた「霊能力のある整体師さん」のところに興味本位で訪れた。その整体師さんはなぜか私のお腹の少し右側に視線をやりながら「早く生まれたがっているね」と言った。その整体師さんの言うとおり、息子は予定日より3週間早く生まれたのだった。

赤ちゃんにはすでに意思がある。

そう感じた出来事だった。



子供がお母さんを選んで生まれてくる、という話をきいたことがある。子供はこの世でどんなことを経験したいかによって、どのお母さんのもとへ行くか、どの時期にどの場所で生まれたらいいのかを見定めて、それにぴったりなタイミングで生まれてくるのかもしれない。

赤ちゃんは「このお母さんのもとに生まれる」と決めたら、なにか魔法のようなものを使って、そのお母さんに子供をほしいと感じさせたり、もしくはお父さんと仲良くなるように仕向けたりしているのかもしれない。


だからお母さんは、頭で、理屈で、「2人目を生むか生まないか」なんて考えずに、「2人目がほしい」という気持ちがわいてきたり、なんだかなりゆきで2人目ができたりしたときに、その気持ちやなりゆきに身をまかせて、子供を生めばいいのかもしれないなと思った。


ひとりっ子はさみしいとか、ひとりっ子はわがままに育つとか、そんなことを私が頭で考えなくてもいい。

ひとりっ子はきっとさみしく感じることもあるだろうし、兄弟がほしいなと思う時期もあるだろうし、もしかしたらわがままになるかもしれない。

でもそれのどこがいけないのだろうか?



逆に私は二卵性の双子だから、いつも遊ぶ相手がいた。その反面、お母さんを独り占めするのってどんな気持ちなんだろう?私だけを見てくれる人がいるってどんなにうれしいことだろう?比べられる対象がいないひとりっ子って気楽だろうなぁ、なんて思ったことがある。


でもそれのどこがいけないのだろうか?


一人一人、味わいたい感情を精一杯味わっていて、そのどんな感情にも良い・悪いはない。いろんな感情を味わえば味わうほど、人は優しく力強くなっていき、私はそのことが人生の目的なんじゃないかと思っているからだ。


お母さんなら、子供が悲しい思いやさみしい思いをしているのをできるだけ見たくないものだ。その気持ちはすでにわかる。でもわが子がどんな経験をして、どんな感情を味わって、どんな感情を味わってほしくないかをお母さんが取捨選択するのはちょっとちがうと思うし、それはできないと思うのだ。


子供はお母さんを選んで、そのお母さんのもとでいろんな感情を味わう。選ばれたお母さんは、その子供を育てることでいろんな感情を味わう。

ひとりっ子なら、ひとりっ子にしか味わえない感情を味わい

兄弟がいれば、兄弟のいる子にしか味わえない感情を味わう。


どれが良くてどれが悪いか、どれが楽でどれがしんどいか、どれが正しくてどれがまちがってるかなんてなくて、

どれを選んでも、その場所でその状況でしか味わえない感情を味わうことになっている。

ただそれだけなんだと思う。




そんなふうに考えてみると、だんだん迷いがなくなっていった。


私は今、2人目を生みたい気持ちよりも、自分のやりたいことに意識が向いている。

それならばきっと、今はその方向に行くのがいい。もしその方向に歩いている途中に赤ちゃんがお腹にやってきたとしたら、その時その赤ちゃんを受け入れればいい。


流れに逆らわず、流れがやってきたらそれにユラユラ乗っていく。

どこからともなく湧いてきた気持ちを1番大切にして行き先を選ぶ。


そうやってたどり着いたところに、私の感じたい感情が待っている。

たどり着いたところで、どんな感情とも向き合ってやるぞという覚悟があれば、怖いものなんてない。


気持ちのままに産もう!
気持ちのままに産まないでおこう!
授かったら産もう!
授からなかったら産まないでおこう!


それが「2人目を生むか生まないか」の問いかけに対して、今の私がしっくりくる答えだ。

これからどうなっていくか私にもわからないけれど、そのわからなさが人生の醍醐味なのかもしれないなと納得している私が今ここにいる。




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