卒業生を送るときは寂しさよりも感謝が大事なのです。
研究室の後輩のある一人がこう言った。
「先輩たちもそろそろ卒業なんですね。寂しくなりますね」
そう言っているのを聞いて私は、その意味を受け止めるのに少し時間がかかった。なぜなら、その「寂しい」という感覚が、私には正直よくわからないからだ。
改めて自分の過去を振り返ってみると、自分の先輩や先達が卒業したり引退するとき、また、遠くに行ったり離れ離れになってしまったときに、「寂しい」と感じたことがただの一度も無いことに自分で驚愕した。
これは普通のことなのだろうか?
どうやら多数派ではないらしい、という実感はある。多くの人間集団においては、そうした先輩後輩や、お世話になったりした人との近しい関係の距離が離れるときにおいて、「寂しい」という感情が湧く人がいることは珍しくない、ということは、自分がそういう集団に所属していたこともあるし、映画やドラマなどでも見たことがあるから知っている。
しかし、私にはそういう感覚がほとんどない。それは一体なぜなのだろうか。
やはり私は冷淡な人間なのだろう。集団を去る側からしても、少しくらい集団に引き留められる方が、「自分は必要とされていたのだ」ということを実感できるから、ある程度豊かな気持ちで集団を去ることができるだろう。
しかし、私はそういう寂しさを、去る側にほとんど提供することなくここまで生きてきてしまったし、自分が集団を去る側になったときも、大きな未練無く出てきてしまった。
その事実を後輩に正直に話してみたら、こう言われた。
「ととまるさんは、いい意味で先輩にお世話になってないからじゃないですかね?」
そう言われてみれば、確かにそうかもしれない。自分の感覚としては、多くのことを自力でやってきた感があり、誰か先輩の助けを借りたとか、先輩がいなかったらどうなっていたかわかりません、のような出来事は確かにほとんどなかったように思う。
ただし、そうは言っても、本当は私の見えないところで先輩や先生方には色々な施しを受けているはずなのだから、そういうところにきちんと目を向けなければならない、ということを自分に言い聞かせている。
もちろん、全く感謝をしていないわけではない。これまでに私に与えていただいた様々な思考のきっかけや気づきが無ければ、ここまで色々な物事に対して思慮深くなることはできなかったし、自分に見えている世界の狭さに気づくことも無かっただろう。
ただ、それは「お世話」とは違う気もしている。自分のやっていることがうまくいくようにお世話された、という感覚ではなく、自分の進みたい道を尊重してくれて、その姿を遠くから見守られていた、という感覚に近いかもしれない。
と、ここまで考えて、先輩や先達を見送るときには、寂しさというよりもむしろ、感謝を伝えるべきなのだろうと思った。
「寂しさ」という感情の中には、「まだ本当は彼らに頼りたい」という感情が内包されているように思われる。
しかし、本当に必要で望ましいのは、「ここまで育てていただいてありがとう。もうあなたがいなくても、一人で(我々で)やっていけます」と言える強さを持つことなのではないか。
「普通」や「正解」はわからないけれど、自分としてはこのように思っていたい、と思った。