本を読みたくなるときってどんなとき?
人生で一番本を読んでいた時期を経て、今少しその気持ちが落ち着いているのは、何かどこかに辿り着いたような感覚があるからだ。
数年前感じた読書熱によって、読書のおもしろさ自体はわかっているつもりだ。
あの頃は、自分に圧倒的に足りない知識や、特に解決したかった疑問や、強烈に知りたいと思っていた世界があった。だから、あのときは特別な何かの焦燥感や枯渇感があって、移動の時間はもちろん、食事の時間でも関係なく、なりふり構わず貪るように本が読めたのである。
そういう時期を経て、今は少し読書熱も研究熱も落ち着いてしまっている。
冷静になって考えてみれば、どんな本だって文献だって、読みたい、と思ったときにしかまともには読めないものだ。Driving forceが重要であって、それが無ければ読めないのだ。
今、研究に関する文献調査のやる気が起きない(研究者失格?)のも、普通の読書がそんなに進んでいないのだってそうでしょう?そうした感覚が無いから読めていないだけだ。
でもそれは決して責められるようなことでも、悪いことでもない、というふうに自己弁護している。人生には波があるものだからだ。
いずれまた、自分に不足する力や知識などが明らかになったとき、また読書熱が復活する可能性はある。過去にそういうやり方で貪るように読書することができたのならば、また同じように別のテーマについて知ろうとすることもできるはずだ。
だとしたら、今やるべきことをもう一度冷静に考えて、それを実現するのに足りない知識やスキルがあるなら、それが得られるような勉強をしたり経験を増やしたりしないといけないのではないだろうか。
ここ最近また少しずつ前向きになってきたような気がして、博士論文に取り組む動機や意味を自分なりにもう一度再定義できたような気がしている。
つまり、今自分が博士論文に取り組むのはなぜか、自分で意味づけることができたのだ。それは、自分自身にまだ人間的に足りていない、「愛する」という感覚の獲得のためである。
そのように考えられた自分であるならば、自分の研究テーマそのものも、もっと愛せるはずだ。
だから、もう1度頑張りたい。
そんなことを考えていたら、不思議と自己肯定感が指数関数的に上昇してきた。
俺って既にめっちゃ頑張ってない?
昨日も書いたように、26歳にして既に行くところまで行ってしまった上で、それでも今自分自身に足りないものである「愛する」という感覚を獲得するために、自分を律しながら博士論文に取り組んでいる。
これが、褒められたことでなくて一体何だというのか。どんなに目標に向かう道のりが遠かったとしても、毎日1歩ずつ前に進んでいるのだとすれば、それは重要な1歩なのである。
今まで、努力によって何かを身に着けてきた、という意識が無かった自分であっても、こうして明確な目標を立てて努力するということができるかもしれない、と思うこともできてきた。
後は後悔無いようにやり抜くだけだ。