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どこか自分の性質と能力に対する諦念があるのです。
私の研究室の教授陣は、様々な企業や団体から専門的な相談に乗ったり、共同研究を申し入れられる機会が多い。
そのときの彼らのスタンスはこうだ。
「野心的な面白い研究ができるなら0円でもやるが、単なる作業的な話になるならある程度のお金をいただきますよ」
大変学者らしいスタンスだ。
彼らが何に最も重きを置いているかというと、それは当然金銭的利益ではなく、学術的面白さである。
そういうやりとりが行われた席に同席していた私は、そういうスタンスに憧れる一方で、そこに馴染みきれない自分がいることにも気がついている。
学術的な面白さを大事に思うと共に、野心的な研究への共感や前向きな気持ちが無ければ、豊かな発想と情熱を持った研究者にはなれない。
自分はそのような情熱は無い人間だ。
むしろ、単なる作業的なことを行う仕事の方が得意だ。
ひとまず、与えられた役割を淡々とこなし続ける。そしてその守備範囲の中で、少しずつ仕事のやり方や環境の改善をはかる。確かに多少の不満はあったとしても腹を立てず、それが自分を成長させるはずだと思って、自分が何とかできるうちは何とかする、という気持ちでいる。
しかし、そういう「ただこなすことができる」人間は、「ただこなしてるだけやん」と言われる現場に行くと、居心地が悪いのだ。
その最たる環境が、大学の研究室という環境である。
それでも、なぜ今そういう環境で学んでいるのか?
それは、そうした「ただこなす」仕事は、遅かれ早かれいずれAIのような新技術に取って代わられてしまうような仕事なのではないか、と思ってしまったからだ。
だから、もっと高度な人間的思考力や行動パターンを身につけなければならない、と思った。
その1つが、科学研究における仮説検証サイクルだったのだ。
言われた仕事をただこなすだけではなく、自分で考えて、自分で仮説を立てて、自分で実践して、その経験から学んで、新しい仮説を考える力を養わなければいけない、と思ってここに来たのだ。
それでも、正直に言えば、苦手なものは苦手だ。それを極めた一流の人間には勝てないのだ。
そういう何だか、自分の性質と能力に対する諦念がどこかにあるような気がしている。
てい‐ねん【諦念】
1 道理をさとる心。真理を諦観する心。
2 あきらめの気持ち。
この「諦念」という表現が自分としてはしっくりきている。
単に諦めているというよりも、まだ何もわかっていないはずなのにも関わらず何かを悟ってしまったような、受け入れざるを得ない真理と向き合っているような感覚なのである。
しかし、それを受け入れたとき、新たな道が開ける気もしている。
私には、ここに挙げた以外にも様々な性質があって、それらを重ね合わせることで、自分のような人間でも輝ける場所が、この世界のどこかに見出せるはずなのだ。
それを信じて進んでいきたい。
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