『ナミビアの砂漠』に宿るダイナミズム
一昨日、映画『ナミビアの砂漠』を劇場で観てきた。この作品について、思ったことを、つらつらと書いていく。
(記事後半では物語の展開に触れているところがあるので、未見の方はご注意頂きたい)
俳優 河合優実について
先ずは、河合優実の凄さに触れざるを得ない。
『サマーフィルムにのって』の「視線」
この俳優が世間に知れ渡るきっかけとなったテレビドラマを僕はまったく観ておらず、河合を知ったのは、今年の3月にDVDで観た『サマーフィルムにのって(2021年)』によってである。
この作品での河合は主演ではなく、主演の伊藤万理華の友人役であった。重要な役どころではあったのだが、正直に言えば、初見で河合に強い関心をいだいたわけではない。ただし、劇中で河合は「失恋」をするのだが、その場面の河合の「視線」は(作劇上の展開の妙もあって)強く印象に残った。(ちなみに、『サマーフィルム~』では、伊藤万理華の相手役に金子大地がキャスティングされており、河合と金子は、『ナミビア~』では再共演になる)
(この作品については、僕は以下のnote記事を投稿している)
『あんのこと』の「笑み」
『サマーフィルム~』の次に観た河合の出演作は、今年の6月に劇場で観た『あんのこと(2024年)』になる。
河合は、薬物中毒者で売春の常習者でもある、実在の人物をモデルにした主人公を演じている。劇中で河合の演じる杏(あん)は、周囲の助けを得ながら更生への道を歩むのだが、その中で、彼女が何度かだけ見せる「無垢の笑み」に強く胸を打たれた。ここ何年かのうちに観た映画の中で、もっとも僕の心に強く刺さった「笑み」であったといってもよい。
(この作品については、僕は以下のnote記事を投稿している)
『愛なのに』での「佇まい」
『あんのこと』によって、僕の河合優実という俳優への注目は俄然高まり、同じ6月に配信で、『愛なのに(2021年)』を観た。ここでは河合は、30歳の男性に突然求婚する女子高生を演じている。
正直に言えばさほど期待せずに観たのだが、思いの外、面白かった。作品としては一種のブラックコメディであり、別の側面では男性の妄想する(良い意味での)「お伽話」とも言えるのだが、「薄汚れた大人の愛憎劇」の中で、河合が現れると一瞬でその場面の空気がピュアで清涼なものに変わるような、河合の身にまとう雰囲気、佇まいが出色だった(蓮實重彦の言葉を借りてそれを「色気」と言い換えてもよい)。「コミック・リリーフ」に模して言うなら、「イノセント・リリーフ」とでも言うような役どころと感じた。
(この作品については、僕はFilmarksで以下のレビューを投稿している。投稿先ではハンドルネームである)
『ナミビアの砂漠』の「声」
ここまでを思い返してみても、河合優実という俳優の表現の幅の広さには恐れ入る。単なる「幅の広さ」を超えて、そこから「凄み」すら感じる。
特に、僕が『ナミビア~』でそれを感じたのは、河合の「声」だ。多くのレビュアーが語っている、直接的な身体性(歩き方や暴れ方)や、クロースアップ時に見せる微細な表情も「凄か」ったのだが、以下の記事で監督の山中も触れているように、その「声」による人物造形が、とてつもなく凄かった。
その「声」が際立つ場面はいくつもあったのだが(予告編においてもそれは際立っている)、強いて一つあげるならば、河合の演じるカナが、勤務先である脱毛サロンで施術をするシーン、その発声である。
スクリーンに映る場面が、カナの勤務先である脱毛サロンの施術室に唐突に変わり、そこに、サロンスタッフの白い制服に身を包んだカナが映し出される。そして、仕事上での、慇懃無礼ともいえる事務的な声色で、施術のマニュアルにあるであろう「冷たくなります」との発声が何度か繰り返される。
僕はこの種のエステティック・サロンで施術を受けた経験はないので、その実際の場面に比した「リアリティ」のほどは分からないのだが、あの施術室でのカナの発声は、この人物の、この社会での存在の在り方、世界との距離感、そうしたものを、ひどく雄弁に(ある意味で俳優の身体性や表情以上に)伝えていたように思う。
監督 山中瑶子について
「あみこ」と「カナ」
ここからは、記事の本題である『ナミビアの砂漠』に戻るのだが、作品自体の批評や感想の前に、先ずは監督である山中瑤子に触れる。
あらかじめ断っておけば、僕は、本作が「カンヌ映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞」したとの報道で、初めて山中の名を知った。その報道で、デビュー作である『あみこ(2017年)』の存在を知り興味を持ったのだが、配信などはされていないようで鑑賞が叶わずにいたのだが、去る7月に地上波(TOKYO MX)での放映があり、観ることができた。
ここでの主役となる、女子高生の「あみこ」は、『ナミビア~』のカナとはもちろんだいぶ異なる人物ではあるのだが、しかし、世界への違和感や居心地の悪さを感じている部分では、よく似ているとも言える。
二人が大きく異なるのは、あみこが、高校生らしい自意識から、自らの抱える「違和感」を(無意識の裡にも)自分のアイデンティティの拠り所にして慈しんでさえいる(ように見える)のに対して、21歳の「大人」であるカナは、その「違和感」を(無意識裡に)遠ざけ、押し込めようとしている(ように見える)ところだろうか。
カナは、作中でその「違和感」を押し込めておくことができなくなり、(後述するが)ドラマはそこから大きく動き出す。
(以下はFilmarksに投稿したビューになる。投稿先ではハンドルネームである。』)
「ナミビアの砂漠」と「箱庭」
ところで、本作のタイトルである「ナミビアの砂漠」とは、具体的には、YouTubeで配信されている「ナミブ砂漠のライブ映像」のことになる。僕は知らなかったのだが、調べると2021年頃には日本でもネットの記事で取り上げられており、いま現在も、その配信映像を見ることができる。
山中がどのような経路で(経緯で)、本作のプロットとこのライブ映像を結び付けたのかは分からないが〈*1〉、なかなかに稀有な発想のように思う。映像と音による表現である「映画」でこそ機能する仕掛けでもある。
下のネット記事では、この映像を「最高の和みと癒やしをもらえるライブカメラ」と表現しており、もちろんここに「和みと癒し」を感じる人もいるだろうが、映画作家の視点は、おそらくここに、何か別なものを投影したのだろう。
劇場のスクリーンでこの映像を見たときには、僕はこれは「ここではない何処か」であり「現実逃避」の象徴だろうと感じたのだが、もしかするとこれは「箱庭」だったのかもしれないとも思う。劇中の1シーンで箱庭療法が映し出されるが、つまり「この砂漠の水飲み場に、自分なら(カナなら)、何を、どう置くのか」、そういう問いかけが隠されていたのではないかということだ。
ちなみに劇中では、カナは心理カウンセリングの中で、箱庭の真ん中に大きな木を置く。この場面について、ある精神科医は、次のようにツイートしていた。
率直に言えば、真っ当な解釈過ぎて面白みは無いし、なんでもかんでも「父性」やら「母性」やらに結びつけるような精神分析的アプローチが、(正しいか間違っているかは別にして)僕は好きではない。
ただし、劇中では、カナは「家族」に問題があるらしいことが繰り返し示されているし、上記のツイートでもふれられているように、カウンセリングの最中には「ロリコンが云々」というカナの発言もある(明言はされないが小児期の性被害の可能性が微かに示唆される)。上で少し触れた、カナが自分の「違和感」を押し込めておけなくなった直接のきっかけは、おそらくハヤシの「家族史」に触れたことだ(映画の序盤では、ハヤシに対して「昔の写真アルバムを見たい」といった台詞もあったが、これも一つの伏線になっている)。
こうした意味で、「カナの困難の真因を親子関係や幼少時の(言葉の真の意味での)トラウマに置いた」のだという解釈も、あながち穿ちすぎでもないのだろう。
「答え合わせ」への「(個人的な)違和感」
ただ、ここまでを一応は理解した上で、僕は、このプロットに、少しの不満を感じてもいた。カナが抱える「居場所のなさ/アウェイ感」の真因を、カナに固有の、家族の問題や生育歴に置いていることへの違和感と言ってもよい。
もちろん、逆にそれを「社会のせい」と声高に糾弾するようなことも、僕はあまり良しとはしないし(このプロットではそれは成り立たないだろうし)、それについては、上のFilmarksのレビューでもふれた。
まったくもって個人的な「好み」の問題だけなのかもしれないが、僕は、この映画に「答え」を出してほしくなかったということなのかもしれない。勝手なことを言えば、僕は心のどこかで、カナにネガティブ・ケイパビリティ(安易に答えを求めずに、答えの出ない事態に耐える力)を見せてほしかったのかもしれない。
そんなことを考えていたら、山中の、作劇法に関する興味深いインタビューを見つけた。
ここで山中は、「最初は無意識に任せて書いてから、後で何をやりたかったのか、自分で答え合わせをするように書く」と語っており、これは言い方を変えれば、作家がきっちりと「答え合わせ」をしているということにもなる。
もちろん「答え合わせ」自体は創作にとっては当たり前のことなのだろうし、作家の誠実さの証でもあろうが、本作の鑑賞においては僕は、その「明確な答えが描かれてしまったこと」に、かすかに「帳尻合わせ」のにおいを感じてしまったということかもしれない。
あるいは、より深く自問するならば、単に僕自身に固有の理由として「家族や成育歴に、個人の問題の原因を帰す」ことへの忌避感があっただけかもしれない。そうだとすれば、これはつまり、きわめて「個人的な違和感」であったということになる(どうも、そんな気がしてきた)。
「シナリオのダイナミズム」と「編集のダイナミズム」
ただし、こうした点でこの作品に少しの不満を感じたとはしても、僕にとって、この映画がとても素晴らしい作品だったことに変わりはない。
その理由の一つは、上述した河合優実の演技であり、もう一つは、この映画の持つダイナミズムにある。
なにか大事件が起きたり、人が事故や病気で死んだりするようなドラマと比べれば、この映画は、まったく「ドラマチック」ではない。
主人公の「恋愛」の行く末にドキドキさせられるわけでもなく、「事件・事故」や「暴力」にハラハラさせられるわけでもなく、「病気」に涙を誘われるわけでもない。
一種の揶揄として陳腐な「ドラマチック要素」をあげてみたが、実は、これらの要素はすべて、「ナミビア~」の劇中で描かれてはいる。しかし、これらを殊更に「ドラマチック」にとりあげてはおらず、スクリーンに映し出されるほとんどは、基本的には日常の風景であり、キャメラは(そして録音用のマイクは)、河合優実の演じるカナを、ひたすらに淡々と追っているだけだ。
ただし、シナリオに書かれ、映像としてスクリーンに映し出されたショット(その連鎖)は、いちいち素晴らしかった。手持でちの固定風からの程よいパンであるとか、環境音やノイズを含めた音響デザインであるとか、技巧的にも、その意図やセンスの良さを感じさせるショットも多かったと思う。
たとえば、この映画は、日中のロングショットで幕を開け、キャメラはペデストリアンデッキを歩くカナに静かにゆっくりと迫っていく。続いて、カフェで友人から、そのまた友人が自殺したという話を聞くカナ。そこに聞こえるノイズとしての周辺の会話。夜、その友人と、ホストクラブらしきところで遊ぶカナ。
そして、突然花束を渡してくる「ハヤシ(金子大地)」と遊び、まじめな「ホンダ(寛一郎)」と同棲する部屋に戻り、ホンダに介抱されるカナ。
こうした場面で始まり、ホンダと別れハヤシと同居するまでを、いわゆる「三幕構成」でいうところの「第一幕」とするなら、「第二幕」は、ハヤシとの関係が危うくなっていき、喧嘩を繰り返し、破綻寸前までいくパートになる。並行して、カナとハヤシのそれぞれの家族史や成育歴の断片が、少しずつ画面上に垣間見えてくる。
そして「第三幕」は、カナが自らの「精神的な危機」を自覚し、専門家(精神科医やカウンセラー)に力を借りようとし、「原因」らしきものが観客に明かされていくパートになる。
この辺りも、殊更に大げさにではなく、多くのシーンは基本的には当たり前のように繋がれている。ここでは、前述したカウンセリングでの「箱庭」であったり、意味深な「隣人」が描かれ、物語に奥行きを与えている(ちなみに僕は、あの隣人は、カナのイマジナリー・フレンドだったのかもと思っている)。
但し、最終の「第三幕」で、何かが明快に解決するわけではないし、明らかな結末が示されるわけでもない。とはいえ、オープンエンディングというほどに観客に解釈が委ねられているわけでもない。
僕自身は、エンディングのその少し前にインサートされる幻想的な「キャンプ」のシーン(そこで歌われる挿入歌)と、最後の場面でカナが発する「ニーハオ」と「ティンプトン」という中国語の、どこか前向きな(何か吹っ切れたような)声の響きによって、エンディングに小さな希望を受け止めた〈*2〉。
僕が本作に感じたダイナミズムとは、いわゆる「ジェットコースター・ムービー」のような大仕掛けのダイナミズムではなく、上で記したような、日常的な人間関係の変化であったり、ふと現れる外部の他者(たとえば隣人やカウンセラー)のような、いわば、シナリオの上での「細部のダイナミズム」のことである。
そしてそのダイナミズムはもちろんシナリオだけではなく、「ショットとショット」、「シーンとシーン」、「シークエンスとシークエンス」を繋げる、編集やモンタージュと呼ばれる領域の技術やセンスによっても、おそらく生み出されている。
何げないシーンから次のシーンに繋げられたときの、ちょっとした心地よい驚きを、僕は劇場で幾度も感じることができた。たとえば、先述した「夜のホストクラブ」や「サロンの施術室」への画面の切り替えであったり、ハヤシ家のバーベキュー会場でのショットやシーンの連鎖。こうしたところから僕は、この映画にとても優れたダイナミズムを感じていた。(ついでに言えば、あのバーベキューのシーンでの、カナと次々に現れる面々との会話も、物語が動き出す予兆を感じさせるダイナミズムを孕んでいた。前述のように、この場面(特に、ハヤシの母との会話)を経て、物語は大きく動き出すことになる。)
山中は、こうした編集のセンスに、そうとう秀でている監督なのかもしれない。そう感じさせてくれるに充分なフィルムだったと思う。
終りに
主演である河合優実、監督および脚本の山中瑶子の二人を中心に、映画『ナミビアの砂漠』について感じたところを書き連ねてみた。
河合については4本の出演作を、山中については2本の監督作を観ただけではあるのだが、両名ともに大きな才能であることに間違いないと思う。今後も、この二人の作品には注目をしていきたい。
(了)
《追記:注釈》
*1:記事投稿後に、山中が「ナミブ砂漠のライブ映像」について語っているインタビュー記事を見つけたので、リンクを貼っておく。
*2:記事投稿後に気づいたのだが、このラストの「ティンプトン(中国語で「分からない」という意味)」は、ひょっとしたら、本文中で僕が「カナに感じさせてほしかった」といった「ネガティブ・ケイパビリティ」の発現だったとも解釈できるかもしれない。
《追記3:MEMO》
この記事の投稿後に、複数のレビューに目を通したのだが、この映画の捉え方が、あまりにばらばらで驚いた。もちろん、批評(あるいは感想)とはそういうものであるし、どれが正しいとか間違っているとかということでは全くない。自分用のメモとして、少しここに書き記しておく。(あくまでメモなのできちんと整理したものではない)
●カナへの共感を語るもの
カナの行動や性質、思考について、「自分に似たところがあって共感できる」とするもの。「奔放さ」への共感や、精神疾患や発達障害、アダルトチルドレンという文脈から「自分に近い」とする方もいた。
●カナへの拒絶を語るもの
カナの行動や性質、思考について、その身勝手さや、他者への酷薄さ、あるいはいわゆるメンヘラ的な立ち居振る舞いから、「まったく共感できない」とするもの。
●恋愛ドラマ(三角関係)的な受け取り
「退屈なやさしい人 vs. 刺激的だけど優しくない人」との三角関係的な恋愛ドラマをメインプロットして本作を見るもの。二人の男性に対しては、どちらにも批判的なものが多く、共感や同情を示しているものは僕の見た範囲では皆無だった。
●フェミニズム批評/ジェンダー批評的アプローチ
「妊娠中絶」をプロットの大きなポイントと捉え、フェミニズム的な観点から、「女性=社会的弱者」であるカナの「怒り」を読み解くもの。
●精神分析批評的アプローチ
カナの「精神疾患」の原因を「家族・成育歴(あるいは出自)」であることをプロットの中心に置き、「箱庭療法」のシーンから「父性への欲求」を読みとるもの、あるいは実母やハヤシ・ホンダとの関係から「母性の物語」を読みとるものがあった。
●社会批判(メッセージ)の読み取り
カナの印象的な台詞でもあった「日本は少子化と貧困で終わっていくので今後の目標は生存です」を中心に据え、社会格差の問題なども含め、広義の「社会批判(いわゆる「作者の言いたいこと」)」を読みとるもの。
なお、レビューの中には、本作を「何も起きない」物語と評しているものもあったが、実際にはそんなことはなく、(記事本文でも触れているが)三角関係の愛憎劇で取っ組み合いの喧嘩をしたり、発声が出来なくなるような大怪我をしたり、いろいろな出来事が起こっている。それを「何も起きていない」と観客に感じさせているとしたら、それは監督の意図通りなのではあろう。
このほか、他の映画作品と「似ている」と本作を語っている方も多く、その中で『恋する惑星(ウォン・カーウァイ)』を挙げている方がいて、なるほどと膝を打った。他には、僕が読んだ中では『ミレニアム・マンボ(ホウ・シャオシェン)』『赤い砂漠(ミケランジェロ・アントニオーニ)』などがあった。
ちなみに、山中本人は、上でリンクを張ったBunkamuraのインタビューでロウ・イエを「信頼している監督」として挙げており、『ナミビア~』でもキャメラワークの参考にしたことを語っていた。
続いて、批評家や一般のレビュアー以外による、本作のメディアでの紹介記事の「見出し」を少し拾ってみた。一般的に「見出し」は媒体の編集者あるいは記者が付けているはずだが、それぞれの媒体の特性や字数制限など色々と理由はあろうけれど、これもまた、かなりばらばらであった。(以下、順不同)
● 河合優実が演じる「かまってちゃん」の日常を観察(読売新聞)
●見逃せない河合優実、安易な反感も共感も許さぬ鮮烈な人間観察映画(読売新聞)
●思いと行動、直結の彼女(朝日新聞)
●フワフワ、今の空気映す(毎日新聞)
●河合優実、山中瑶子監督のZ世代コンビが描く時代の気分(産経新聞)
●居場所求め、苦闘する女性描く(大分合同新聞)
●男女の感情を映し出す(信濃毎日新聞)
●河合優実×生態観察=よくぞ!言葉化前のリアルを山中瑶子監督が(東京新聞、他〈通信社配信〉)
●鼻ピアス、暴力シーン、大胆な肌露出…(スポニチ)
●「趣味も将来の夢も特にナシ。彼氏はとりあえずいて…」19歳でデビュー、史上最年少でカンヌ受賞した女性監督がとらえる“ふつうの女の子”像(文春オンライン)
●雑踏の中から発見されたヒロイン(CINEMORE)
●自分を語らない主人公”が抱える果てなき孤独という名の砂漠に迫る(MOVIE WALKER)
●いじわるで嘘つきで暴力的、なのに魅力的 蹴りを入れ殴りかかる河合優実が炸裂(ムビコレ)
●いじわるで嘘つきで暴力的、彼氏は2人。(映画ナタリー)
●いじわるで、嘘つきで、目が離せない女性像を体現(CINEMA CAFE)
●強烈なオリジナリティ 山中瑶子監督による“決意の一石”(REAL SOUND)
●河合優実が感情剥き出しの様々な表情を見せる(REAL SOUND)
●奔放に生きる主人公の“自分探しの旅”描いた青春物語(FASHION PRESS)
●旬の女優、河合優実の魅力がほとばしる映画!(FORZA STYLE )
●人間は何のために生きているのか、河合優実のドライな視線が”そこ”に触れる(ENTAME next)
●山中瑶子監督が河合優実の身体で描く千通りの感情(ニッポンドットコム)
●最低ヒロインを演じる河合優実の存在感がスゴイ!(ENGINE)
さらについでに、蛇足を承知で、公式による本作の紹介文と、ポスターやフライヤーのコピーを転載しておく。
これらのテクスト(パラテクスト)に、作家本人がどの程度関わっているのかは不明だが、あまり本作の芯を捕えていないように思えるのだが、どうなのだろう。