「詩とはなにか」という問いに対して、詩人や批評家や研究者はどのように答えているのか。そんな好奇心から、書棚にある詩論や詩にまつわる本から、それらしき「答え」を抜き出してみようと思いたった。
何冊かの本の頁をめくっていく中で、そこで紹介されていた別の本を買い求めたり図書館で借りたりし、そうこうしているうちに、その「答え」の数は膨れ上がった。
この記事では、その中からまず、私が気に入った十五の「答え」を並べている。その後、記事タイトルにあるように、おおよそ二百五十くらいの「答え」を含んだ引用部分を列記する(これはほぼ私にとっての膨大な備忘録となる)。
さて、「答え」を探して渉猟していくうちに、「答え方」にもいくつかのタイプがあることに気が付いた。雑駁だが、だいたい下の六つか七つくらいに類別できるように思う。
●本質主義的な答え
地理的歴史的区分を超えた大きな概念としての「詩」について、「本質的になにであるか、どのようなものであるか」を厳格かつ精確に表そうとした答え。ディフィニション、あるいはエッセンシャリズムによる答えといえる。
●党派宣言的な答え
文学運動上の何らかの党派的立場を前提に「詩とはこうあるべきだ」という意志や理想の表明としての答え。まっすぐに言えばマニフェスト、少し揶揄するならばポジショントークのような答えといえる。
●内面告白的な答え
「私にとっての詩とはこのようなものだ」、あるいは「自分にとって詩とはこのようなものでしかあり得ない」という、自身の内面に基づいた答え。重々しくいえば、一種のコンフェッションとも言える。
●警句的な答え
比喩の技巧などを用い、簡潔かつ奇抜な表現による答え。アフォリズム、あるいはエピグラム。才を競ってるという意味では大喜利に近いとも言える。
●発生論的な答え
文学史もしくは人類史において、詩とはこのように発生したものだという、詩の起源(と思われるものやこと)に基づいた答え。ジェネティークを足場として詩を掘り下げた答えとも言える。
●不可能性による、さらにはメタ認知的な答え
「回答が不能である」とする立場、さらには「問い自体の意味を問う」メタ認知的な立場からの答え。もしかすると、このメタコグニティブな「詩とはなにかを考えることが、詩である」という答えこそがもっとも詩の本質を表しているのかもしれないが、ではこの「詩の本質」とは何なのだという問いに再帰してしまい「不思議の環」に迷い込む答えとも言える。
■私選:十五の答え
それでは、私の気に入った「詩とはなにか」という問いへの答えを、まず十五あげていく。
*太字(見出しのようなもの)は表記上の若干の省略や編集を加えている。
*掲載の順番は、詩人の生年や分かる範囲での初出年等を参考に、概ね時系列順である(必ずしも正確ではない)。
〈その一〉
「定義できない(ということが重要)」
(ポール・ヴァレリー 1871-1945)
〈その二〉
「なかに本物のひきがえるがいる想像の庭」
(マリアン・ムーア 1887-1972)
〈その三〉
「情緒からの逃避、個性からの逃避」
(T・S・エリオット 1888-1965)
〈その四〉
「情緒的に、作家の思想を、ある音律、ある文字で表現したもの」
(室生犀星 1889-1962)
〈その五〉
「現在〈ザイン〉してないもの、非所有へのあこがれ」
(萩原朔太郎 1886-1942)
〈その六〉
「一種のエネルギであって、一篇の詩全体から発散してくるエマネイション(放射物)が詩の本体」
(高村光太郎 1883-1956)
〈その七〉
「全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すこと」
(吉本隆明 1924-2012)
〈その八〉
「ぼくらをめぐる曖昧で複雑な『すべて』に、奇蹟的な照明弾を走らせうる唯一のもの」
(天沢退二郎 1936-2023)
〈その九〉
「言語の世界に深く潜んでるけれども、同時に言葉で解明できないようなものを指す最も有力な記号」
(大岡信 1931-2017)
〈その十〉
「余白とともに出現するもの」
(北川透 1935-)
〈その十一〉
「詩人の感情の歴史を抜けて飛び出してくるもの」
(田村隆一 1923-1998)
〈その十二〉
「言葉による世界の捉え直し、あるいは再構成」
(野村喜和夫 1951-)
〈その十三〉
「『詩とは何か』という問いを孕み、その回答として書かれるもの」
(城戸朱理 1959-)
〈その十四〉
「何かの存在をみとめ、気になり、名づけること」
(阿部公彦 1966-)
〈その十五〉
「『かたち』にならない、名づけがたい根源的なところにあるらしいものの、『思想』というよりも、『思いの塊り』といったほうがよいようなもの、そういうところへと躙り寄っていくための、細い道のひとつ」
(吉増剛造 1939-)
以上となる。
少しだけ、私の「感想」めいたことを書いておく。
上にあげた十五の「答え」は、単に私の「お気に入り」を年代順に並べたものであって、それぞれに優劣は無く、正しいか正しくないかといったことともまったく無縁である。
この中で、あえて「いちばんのお気に入り」をあげるならば、〈その十一〉にあげた田村隆一による「詩人の感情の歴史を抜けて飛び出してくるもの」になるだろうか。
田村の言う「詩人の感情の歴史」には若干の説明が必要であろう。田村はこれを、C・D・ルイースの書き記した「詩の生まれるプロセス」からとっている。田村の引用から孫引きしつつ私なりに要約すれば、それは
●一篇の詩の「種子」が、詩人の想像力を強く打つ。この「種子」とは何らかの経験や漠然とした感情などであるらしい。
●その「種子」は詩人の「無自覚的意識」に忍び込む。
●それは徐々に成長し形を整え始める。
●一定の年月(数日から数年)を経て、詩人はひとつの詩を書きたい、という激しい欲望を感じる。それは肉体にまで浸み透るような実感である場合が多い。
ということらしい。
田村はこの「プロセス」をして「詩人における感情の歴史」と呼んでおり、これを抜けて詩人の内側から飛び出してくるものが詩である、と言っていることになる。なんともかっこいい「詩の定義」である。
(なお、この「答え」は、田村への「聞き取り」を編集者がまとめた1996年発行の書籍に記載のものだが、この論の「原典」は1955年に発表された「路上の鳩」と題された田村のエッセイ風の詩論のようだ。但し、そちらには「詩人の内側から飛び出してくる」という文言は含まれず、このような談話調での記述はなされていない。)
また、〈その六〉の高村光太郎による「一種のエネルギであって、一篇の詩全体から発散してくるエマネイション(放射物)が詩の本体」についても、いかにも言語によらない芸術である彫刻家らしい「答え」として、私は結構気に入っている。詩の「本体」をどこか原初的なエネルギーであるとする光太郎の答えは、詩の起源を言語以前の「叫び」や「うた」に見出だす論とも通じているように感じられ、私の好みに合う。ただし、これを自著で紹介している鮎川信夫は「かなり曖昧」だとやや否定的に引用していることもここに書き留めておく。
鮎川はこの光太郎の「答え」を引き合いに、詩の「定義」とはこのように「詩人の人生観、世界観、あるいは詩にたいする欲求とか、切迫した感情とか、あるいは強烈な気魄とか」によって導き出さざるを得ないとも述べている。結局は「詩とはなにか」への答えは、その人物の「人生観や、詩に対する欲求、気概」によってしか答えることしかできないとしており、この鮎川の理路も鮮やかであり、納得できるものだ。
この他にも、〈その十〉北川透による「余白とともに出現するもの」、〈その十四〉阿部公彦による「何かの存在をみとめ、気になり、名づけること」といった「答え」も、私には強く印象に残った。シンプルにキーワードとして取り上げるならば「詩=余白」と「詩=名づけ」などとも表せるが、いずれも、「詩とはなにか」を考える際の鍵になる視点である思う。
■参照と引用
ここからは、本記事作成にあたって収集し参照した書籍と当該箇所の引用になる。記事タイトルの「二百五十くらいの答え」とは、これらの参照文の中の太字部分を指している。正確に数えるのは止めてしまったが二百五十を超えていることは間違いないし、なんなら三百を超えているかもしれない。
また、記事の直接の参考としたわけではないが、「詩とはなにか」という問いを生成AIに問うた際の「答え」も巻末に付している。
結果として膨大な量となっているが興味ある方はご覧いただきたい。(下に参照書籍一覧を兼ねて本記事の目次を表示させている)
*書籍の発行年次順に並べている(近年再出版された犀星と朔太郎の書籍も奥付の発行日に依っている。翻訳書については、原書の発行年が分かるものはそちらを優先した)。
*引用文中の太字強調は特に断りない場合はすべて引用者による。
*巻末に付録として、生成AIによる「詩とはなにか?」「詩情(ポエジー)とは何か?」という問いへの回答をあげている。
付録:生成AIによる「詩とはなにか」への回答
以下は、
「『詩とは何か?』という問いに、詩人や批評家は、どのように答えていますか?」
「では、『詩情(ポエジー)とは何か?』という問いに、詩人や批評家は、どのように答えていますか?
という2つの「問い」に対する、生成AI(Chat GPT)による回答である。同じ「問い」を40日ほど間隔をあけて2回問い合わせた結果となる(2回の内容は案外異なる部分も多く興味深い)。
〈了〉