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「詩とはなにか」という問いへの二百五十個くらいの答え

「詩とはなにか」という問いに対して、詩人や批評家や研究者はどのように答えているのか。そんな好奇心から、書棚にある詩論や詩にまつわる本から、それらしき「答え」を抜き出してみようと思いたった。

何冊かの本の頁をめくっていく中で、そこで紹介されていた別の本を買い求めたり図書館で借りたりし、そうこうしているうちに、その「答え」の数は膨れ上がった。

この記事では、その中からまず、私が気に入った十五の「答え」を並べている。その後、記事タイトルにあるように、おおよそ二百五十くらいの「答え」を含んだ引用部分を列記する(これはほぼ私にとっての膨大な備忘録となる)。

さて、「答え」を探して渉猟していくうちに、「答え方」にもいくつかのタイプがあることに気が付いた。雑駁だが、だいたい下の六つか七つくらいに類別できるように思う。

●本質主義的な答え
地理的歴史的区分を超えた大きな概念としての「詩」について、「本質的になにであるか、どのようなものであるか」を厳格かつ精確に表そうとした答え。ディフィニション、あるいはエッセンシャリズムによる答えといえる。

●党派宣言的な答え
文学運動上の何らかの党派的立場を前提に「詩とはこうあるべきだ」という意志や理想の表明としての答え。まっすぐに言えばマニフェスト、少し揶揄するならばポジショントークのような答えといえる。

●内面告白的な答え
「私にとっての詩とはこのようなものだ」、あるいは「自分にとって詩とはこのようなものでしかあり得ない」という、自身の内面に基づいた答え。重々しくいえば、一種のコンフェッションとも言える。

●警句的な答え
比喩の技巧などを用い、簡潔かつ奇抜な表現による答え。アフォリズム、あるいはエピグラム。才を競ってるという意味では大喜利に近いとも言える。

●発生論的な答え
文学史もしくは人類史において、詩とはこのように発生したものだという、詩の起源(と思われるものやこと)に基づいた答え。ジェネティークを足場として詩を掘り下げた答えとも言える。

●不可能性による、さらにはメタ認知的な答え
「回答が不能である」とする立場、さらには「問い自体の意味を問う」メタ認知的な立場からの答え。もしかすると、このメタコグニティブな「詩とはなにかを考えることが、詩である」という答えこそがもっとも詩の本質を表しているのかもしれないが、ではこの「詩の本質」とは何なのだという問いに再帰してしまい「不思議の環」に迷い込む答えとも言える。

■私選:十五の答え

それでは、私の気に入った「詩とはなにか」という問いへの答えを、まず十五あげていく。

*太字(見出しのようなもの)は表記上の若干の省略や編集を加えている。
*掲載の順番は、詩人の生年や分かる範囲での初出年等を参考に、概ね時系列順である(必ずしも正確ではない)。

〈その一〉
「定義できない(ということが重要)」
(ポール・ヴァレリー 1871-1945)

詩の定義にとっては、定義できないということが重要なのである。

北川透『詩的レトリック入門』1993年(思潮社)P.19

〈その二〉
なかに本物のひきがえるがいる想像の庭」
(マリアン・ムーア 1887-1972)

なかに本物のひきがえるがいる想像の庭。

中桐雅夫『詩の読みかた 詩の作りかた』1980年(晶文社)P.18

(マリアン・ムーア『詩(原題 Poetry)』一部,行変え位置は引用者による便宜的なもの)

だがこれだけは区別しておこう。
はんぱな詩人がむりに飾り立てると、詩ではなくなる。
そしてわれわれの詩人たちが、「想像力の直訳主義者」となって、傲慢さや軽薄さを乗り越え、われわれの眼の前に「本物のヒキガエルの棲む架空の庭」を提示するまで、詩はどこにもない。

亀井俊介・川本皓嗣 編『アメリカ名詩選』1993年(岩波文庫)P.207-209

〈その三〉
「情緒からの逃避、個性からの逃避」
(T・S・エリオット  1888-1965)

詩は情緒の解放ではなくて、情緒からの一種の逃避である。詩は個性の表現ではなくて、個性からの一種の逃避である。しかし、もちろん、個性と情緒をもっているものだけが、これらのものから逃避するのを望むということがなにを意味するかを知っているのである。

中桐雅夫『詩の読みかた 詩の作りかた』1980年(晶文社)P.16

〈その四〉
「情緒的に、作家の思想を、ある音律、ある文字で表現したもの」
(室生犀星 1889-1962)

詩から音律を奪うことは出来ない。換言すれば詩とは情緒的に作家の思想をある音律ある文字で表現したもので、全く説明を省いたところにその特徴を持っている。であるから音律と思想は詩に欠くことの出来ない要素である。

室生犀星『新しい詩とその作り方』2018年(国書刊行会)P.74(初出1918年)

〈その五〉
「現在〈ザイン〉してないもの、非所有へのあこがれ」
(萩原朔太郎  1886-1942)

およそ詩的に感じられるすべてのものは、何等か珍しいもの、異常のもの、心の平地に浪を呼び起すところのものであって、現在のありふれた環境に無いもの、即ち「現在〈ザイン〉してないもの」である。
(略)
故に詩的精神の本質は、第一に先ず「非所有へのあこがれ」であり、或る主観上の意欲が掲げる、夢の探求であることが解るだろう。

萩原朔太郎『詩の原理 第9章「詩の本質」』1938年(青空文庫)

〈その六〉
「一種のエネルギであって、一篇の詩全体から発散してくるエマネイション(放射物)が詩の本体」
(高村光太郎 1883-1956)

こうした状況のなかから「詩は何であるか」に答えている一つの例として、次に高村光太郎氏の言葉をあげてみます。

  「(略)詩は一種のエネルギであって一篇の詩全体から発散してくるエマネイション(放射物)が詩の本体であり、書かれた事柄や、感動や、理性はただその放射のための媒体にすぎないのである。」

鮎川信夫『現代詩作法  現代詩とは何か・いかに書くか  新装版』1971年(思潮社)P.43
(初出1954年:光太郎による毎日新聞への寄稿)

〈その七〉
「全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すこと」
(吉本隆明 1924-2012)

詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである。こう答えれば、すくなくともわたしの詩の体験にとっては充分である。

吉本隆明『詩とはなにか 世界を凍らせる言葉』2006年(思潮社 詩の森文庫)P.13(初出1961年)

〈その八〉
「ぼくらをめぐる曖昧で複雑な『すべて』に、奇蹟的な照明弾を走らせうる唯一のもの」
(天沢退二郎 1936-2023)

ぼくらをめぐるすべては曖昧であり複雑である。(略)あらゆる視点・あらゆる座標軸もつねに“仮の"ものでしかありえないこの「すべて」に、奇蹟的な照明弾を走らせうる唯一のものが詩であるのは(略)。

『天沢退二郎詩集』1968年(思潮社現代詩文庫)P.85-86(初出1963年)

〈その九〉
「言語の世界に深く潜んでるけれども、同時に言葉で解明できないようなものを指す最も有力な記号」
(大岡信 1931-2017)

言葉では解明できないような不思議な魅力を持ったものを見ると、これは詩だって思うでしょう。ということは、〈詩〉という言葉は言語の世界に深く潜んでるけれども、同時に言葉で解明できないようなものを指す最も有力な一つの記号でもあるわけだね。

大岡信・谷川俊太郎『詩の誕生』2020年(岩波文庫)P.23(初出1975年)

〈その十〉
「余白とともに出現するもの」
(北川透 1935-)

詩を書く。この行為が、小説を書く、批評を書く意識との明らかな違いのひとつは、余白の魔性にまといつかれているところにあるのではないか。(略)
詩の出現とは、必ず(と言っていいほど)余白の出現であるだれもがそれを自明にして書き、読んでいながら、忘れている。

北川透『詩的レトリック入門』1993年(思潮社)P.34

〈その十一〉
「詩人の感情の歴史を抜けて飛び出してくるもの」
(田村隆一 1923-1998)

いろんなレトリックで詩が生まれるんじゃない。詩人の感情の歴史を抜けて飛び出してくるものが、詩なんだ。

田村隆一『詩人からの伝言』1996年(メディア・ファクトリー)P.165

〈その十二〉
「言葉による世界の捉え直し、あるいは再構成」
(野村喜和夫 1951-)

詩とは言葉による世界の捉え直し、あるいは再構成である。そしてそれは驚きを、エロスをさえ伴う。私の貧しい読書体験から、そのような一般的命題を引き出すことができると思います。

野村喜和夫『現代詩作マニュアル 詩の森に踏み込むために』2005年(思潮社 詩の森文庫)P.83

〈その十三〉
「『詩とは何か』という問いを孕み、その回答として書かれるもの」
(城戸朱理 1959-)

十九世紀なかばまで、詩は民族と言語に根ざした固有の形式を持っていた。その形式を捨てるところから始まったのが今日の自由詩であって、形式という保証がないだけに、それは必ず「詩とは何か」という問いを孕み、その回答として書かれるものになる。

城戸朱理・野村喜和夫『討議  詩の現在』2005年(思潮社)P.379

〈その十四〉
「何かの存在をみとめ、気になり、名づけること」
(阿部公彦 1966-)

名づけは詩のもっとも基本的な機能です。何かの存在をみとめ、その対象が気になってしまうこと。それに名前をつける必要があると思うこと。実際に名前をつけるかどうかよりも、名づけの必要を感じること自体に詩のエッセンスがあるのです。

阿部公彦『詩的思考のめざめ  心と言葉にほんとうは起きていること』2014年(東京大学出版会)P.10

〈その十五〉
「『かたち』にならない、名づけがたい根源的なところにあるらしいものの、思想』というよりも、思いの塊り』といったほうがよいようなもの、そういうところへと躙り寄っていくための、細い道のひとつ」
(吉増剛造 1939-)

「詩の心」、「詩情」とか「詩心」とか、それから「ポエジー」あるときには「ポエム」とか、そんな言い方をしますけれども、それよりもはるかに底のほうの、「かたち」にならない、名づけがたい根源的なところにあるらしいものの、「思想」というよりも、「思いの塊り」といったほうがよいようなもの、それの、そのはたらきのようなものをこそ、そして、そのはたらきを促す、あるいはさそう僅かな力をこそ、つかまえなければならない。(略)そういうところへと躙り寄っていくための、「詩」とは、細い道のひとつなのだろうと思います。

吉増剛造『詩とは何か』2021年(講談社現代新書)P.6

以上となる。

少しだけ、私の「感想」めいたことを書いておく。

上にあげた十五の「答え」は、単に私の「お気に入り」を年代順に並べたものであって、それぞれに優劣は無く、正しいか正しくないかといったことともまったく無縁である。

この中で、あえて「いちばんのお気に入り」をあげるならば、〈その十一〉にあげた田村隆一による「詩人の感情の歴史を抜けて飛び出してくるもの」になるだろうか。

田村の言う「詩人の感情の歴史」には若干の説明が必要であろう。田村はこれを、C・D・ルイースの書き記した「詩の生まれるプロセス」からとっている。田村の引用から孫引きしつつ私なりに要約すれば、それは

●一篇の詩の「種子」が、詩人の想像力を強く打つ。この「種子」とは何らかの経験や漠然とした感情などであるらしい。
●その「種子」は詩人の「無自覚的意識」に忍び込む。
●それは徐々に成長し形を整え始める。
●一定の年月(数日から数年)を経て、詩人はひとつの詩を書きたい、という激しい欲望を感じる。それは肉体にまで浸み透るような実感である場合が多い。

ということらしい。

田村はこの「プロセス」をして「詩人における感情の歴史」と呼んでおり、これを抜けて詩人の内側から飛び出してくるものが詩である、と言っていることになる。なんともかっこいい「詩の定義」である。

ひとつの詩が生まれる。つまり、「種子」が体内に宿り「一篇の詩」となるために外へ出て行こうとする瞬間までのプロセスが、(引用者注;このルイースの論には)ほんと見事にとらえられているんだ。いいかい、このプロセスがない限り、ある一篇の詩がいかに巧妙に正義を歌ったり、愛を讃えても、またモダンな意匠で書かれても、真の意味でそれは「詩」ではないんだよ。
ぼくはこの重要なプロセスを、詩人における感情の歴史と呼んでいる

田村隆一『詩人からの伝言』1996年(メディア・ファクトリー)P.163-164

(なお、この「答え」は、田村への「聞き取り」を編集者がまとめた1996年発行の書籍に記載のものだが、この論の「原典」は1955年に発表された「路上の鳩」と題された田村のエッセイ風の詩論のようだ。但し、そちらには「詩人の内側から飛び出してくる」という文言は含まれず、このような談話調での記述はなされていない。)

また、〈その六〉の高村光太郎による「一種のエネルギであって、一篇の詩全体から発散してくるエマネイション(放射物)が詩の本体」についても、いかにも言語によらない芸術である彫刻家らしい「答え」として、私は結構気に入っている。詩の「本体」をどこか原初的なエネルギーであるとする光太郎の答えは、詩の起源を言語以前の「叫び」や「うた」に見出だす論とも通じているように感じられ、私の好みに合う。ただし、これを自著で紹介している鮎川信夫は「かなり曖昧」だとやや否定的に引用していることもここに書き留めておく。

鮎川はこの光太郎の「答え」を引き合いに、詩の「定義」とはこのように「詩人の人生観、世界観、あるいは詩にたいする欲求とか、切迫した感情とか、あるいは強烈な気魄とか」によって導き出さざるを得ないとも述べている。結局は「詩とはなにか」への答えは、その人物の「人生観や、詩に対する欲求、気概」によってしか答えることしかできないとしており、この鮎川の理路も鮮やかであり、納得できるものだ。

かなり曖昧な意見です。(略)いわば、この高村氏の言葉全体が、自己の詩作の体験から語っているのであって、その意味では興味がないこともありませんが、決して「詩とは何か」の定義を明かにするものではないのです。
(略)そして、こうした場合、けっしてすべての詩を考慮して言っているわけではなく、ごく狭い範囲で、ある種の限定された詩について語っているのであり、私たちの理解力は、非常に後退した地点に立たざるをえないのです。したがって「詩とは何か」に答えるものは、私たちの詩の理解力ではなく、むしろ詩人の人生観、世界観、あるいは詩にたいする欲求とか、切迫した感情とか、あるいは強烈な気魄とかによって導き出される場合が多いようです。

鮎川信夫『現代詩作法  現代詩とは何か・いかに書くか  新装版』1971年(思潮社)P.43-44

この他にも、〈その十〉北川透による「余白とともに出現するもの」、〈その十四〉阿部公彦による「何かの存在をみとめ、気になり、名づけること」といった「答え」も、私には強く印象に残った。シンプルにキーワードとして取り上げるならば「詩=余白」と「詩=名づけ」などとも表せるが、いずれも、「詩とはなにか」を考える際の鍵になる視点である思う。


■参照と引用

ここからは、本記事作成にあたって収集し参照した書籍と当該箇所の引用になる。記事タイトルの「二百五十くらいの答え」とは、これらの参照文の中の太字部分を指している。正確に数えるのは止めてしまったが二百五十を超えていることは間違いないし、なんなら三百を超えているかもしれない。
また、記事の直接の参考としたわけではないが、「詩とはなにか」という問いを生成AIに問うた際の「答え」も巻末に付している。
結果として膨大な量となっているが興味ある方はご覧いただきたい。(下に参照書籍一覧を兼ねて本記事の目次を表示させている)

*書籍の発行年次順に並べている(近年再出版された犀星と朔太郎の書籍も奥付の発行日に依っている。翻訳書については、原書の発行年が分かるものはそちらを優先した)。
*引用文中の太字強調は特に断りない場合はすべて引用者による。
*巻末に付録として、生成AIによる「詩とはなにか?」「詩情(ポエジー)とは何か?」という問いへの回答をあげている。


萩原朔太郎『詩の原理』(1938年)

およそ詩的に感じられるすべてのものは、何等か珍しいもの、異常のもの、心の平地に浪を呼び起すところのものであって、現在のありふれた環境に無いもの、即ち「現在〈ザイン〉してないもの」である。故に吾人はすべて外国に対して詩情を感じ、未知の事物にあこがれ、歴史の過去に詩を思い、そして現に環境している自国やよく知れてるものや、歴史の現代に対して詩を感じない。すべてこれ等の「現在〈ザイン〉しているもの」は、その現実感の故にプロゼックである。
故に詩的精神の本質は、第一に先ず「非所有へのあこがれ」であり、或る主観上の意欲が掲げる、夢の探求であることが解るだろう。次に解明されることは、すべて詩的感動をあたえるものは、本質において「感情の意味」をもっているということである。

萩原朔太郎『詩の原理 第9章「詩の本質」』1938年(青空文庫)

C・D・ルイース『詩を読む若き人々のために』(原書1944年)

そういうわけで、彼のかいた詩をよめば、わたしたちのすべての感覚がするどくとぎすまされ、わたしたちはいのちというものにいっそう敏感になり、結局わたしたちにこの世界を理解させるたすけとなるのです。

C・D・ルイース『詩を読む若き人々のために』(深瀬基寛・訳)1955年(筑摩󠄁書房)P.23-24

詩はわれわれの感情をとおして世界についてかたります詩はわれわれの感覚をみがき、ますますするどく完全にいのちへの自覚をたかめ、われわれの想像力を練磨し、われわれの記憶のなかにたいせつな宝をたくわえさせるはたらきをします

C・D・ルイース『詩を読む若き人々のために』(深瀬基寛・訳)1955年(筑摩󠄁書房)P.27

壷井繁治・村野四郎・伊藤信吉 編『現代作詩講座Ⅰ 詩作の手がかり』(1956年)

(小野十三郎 知性と感性)

「マルテの手記」や「形象詩集」などという本で、わが国にもよく知られているドイツの詩人、マリヤ・リルケは、「詩は人が考えているように感情ではない。もし感情であれば、年少にしてすでにありあまるほど持っていなければならぬ。詩はほんとうは経験なのだ」といいました。これは経験を積み重ねることによって、感情の内容が豊かになるという意味ぐらいに解してよいと思いますが、私はそれを肯定した上で、なお経験ということを時間的にだけ考えずに、経験の質について考えます。

壷井繁治・村野四郎・伊藤信吉 編『現代作詩講座Ⅰ 詩作の手がかり』1956年(酒井書店)P.38-39

(北川冬彦 詩の素材)

芸術は、特に詩は、現実と詩人の魂との、食うか食われるかの対決の果てに、現実に一擲をくらわせて、みごとに詩が勝ちをおさめた姿において成立するものである。
ピエル・ルヴェルディは「詩は、精神と現実との沸騰的な交渉の後に沈殿して生じた結晶である」といっているが、味わうべき名言である。

壷井繁治・村野四郎・伊藤信吉 編『現代作詩講座Ⅰ 詩作の手がかり』1956年(酒井書店)P.75

壷井繁治・村野四郎・伊藤信吉 編『現代作詩講座Ⅱ 詩の作り方』(1956年)

(壷井繁治 詩作の基本について)

わたしたちは日常の生活において、お互いに感動的なことばかり喋っているわけではない。むしろ、無駄なことをだらだらと喋っている場合がより多い。その無駄な言葉は、喋るそばから消えてしまう。詩はその言葉の洪水の中から、感動的な言葉を発見し、それを磨き、加工して、ゆるぎない言葉に定着させるものである。そこに日常語と詩語とのちがい、それの独立の意味が見出されるわけである。

壷井繁治・村野四郎・伊藤信吉 編『現代作詩講座Ⅱ 詩の作り方』1956年(酒井書店)P.107-109

壷井繁治・村野四郎・伊藤信吉 編『現代作詩講座Ⅲ 名作にまなぶ』(1956年)

(木原孝一 昭和期の詩Ⅰ)

まず、詩はなにによって詩であるのか、詩の本質とはなにか、詩の最も重要な機能とはなにか、という問題をとりあげて、「ある一つの観念を伝達あるいは描写するのでなく、フォルムが記述されることによって意味の世界が出てくる」(春山行夫)と云うのがその信条です。

壷井繁治・村野四郎・伊藤信吉 編『現代作詩講座Ⅲ 名作にまなぶ』1956年(酒井書店)P.51

ジェイムズ・リーヴズ『詩がわかる本』(原書1965年)

これまで明らかに詩であってそれ以外の何ものでもないような例を二篇見てきた。私がそれを選んだのは、散文との比較とそれが持つ強い暗示力のためである。それは詩が韻文プラス魔術という考えを十分例証するものである。他の例は、詩として見分けるのはそれほどやさしくはない。いったい魔術性のない詩篇などありうるのだろうか

ジェイムズ・リーヴズ『詩がわかる本』(武子和幸・訳)1993年(思潮社)P.59

おそらくいつの日か、私たちは個人的感情が贅沢品として禁止され、考える動物、感情の動物としての私たちに要求されるのは集産主義的に群棲する昆虫の集団反応だけである集団文明のようなものに到達するかもしれない。そのような時代はまだ来ていない。私たちは蟻になる状況下にいながら、なおも考える個人であり、感情を持つ個人である。詩は個人としての存在を養い、強化するために存在する

ジェイムズ・リーヴズ『詩がわかる本』(武子和幸・訳)1993年(思潮社)P.226

『田村隆一詩集』(1968年)

たとえば、「詩は民衆のものである」「詩はすべての人のものである」という言葉には、名づけられぬ以前の詩がどこに宿るものであるかをよく示しています。詩は詩人の心にだけ宿るものでもなければ、ある特定の集団のなかに宿るものでもないからです。ただひとつの心に詩が宿るとき、それははじめて民衆のものとなり、すべての人のものとなるのです。

『田村隆一詩集』1968年(思潮社現代詩文庫)P.69

『天沢退二郎詩集』(1968年)

ぼくらをめぐるすべては曖昧であり複雑である。ここですべてというのは単に現実の総体をさすのではない。「その全体性においてとらえられた存在」(ブランショ)ともいうべきこの「すべて」は、その各部分を系統的にたぐり出してみれば、明確であり単純であるものの複合体であるかに見えるのだが、これは、そのような抽出が無益な錯誤であることを示すにすぎず、本質的に曖昧であって、それをあらわにするための視点が置かれることを本来的に拒んでいるこの「すべて」の巨大な暗黒構造は、ここ幾十世紀にわたる神々の、そして人間の文明の挑戦にも拘わらず、遂に自らの闇の中に没しつづけたであろう――あらゆる視点・あらゆる座標軸もつねに“仮の"ものでしかありえないこの「すべて」に、奇蹟的な照明弾を走らせうる唯一のものが詩であるのは、常識的に考えれば、けっして存在することのない絶対的なものはあらゆる詩がめざすからであるということになるが、もっと核心的なことは、この「すべて」こそ詩の原点詩――詩がつねにそこへ向っていく自らの原点――にほかならないという基本的理由によるのである。

『天沢退二郎詩集』1968年(思潮社現代詩文庫)P.85-86

『長田弘詩集』(1968年)

けれども、詩はどのような詩であろうとも、〈読者〉という共同体の連帯なしには存在できないものであるのだ。詩はその中心に〈私〉をひきよせる。けれども、〈私〉はそれに抗う。〈私〉という言葉が、あくまで〈私〉といういわば掘りこまれた魂のカオスそのものをたもちながら同時にそこで共同の声をひびかせてゆくことをわたしはかんがえる。

『長田弘詩集』1968年(思潮社現代詩文庫)P.77

『茨木のり子詩集』(1969年)

(章題:詩論に代えて 詩三つ」)

言いたくない言葉(作品名)

心の底に 強い圧力をかけて
蔵ってある言葉
声に出せば
文字に記せば
たちまちに色褪せるだろう

それによって
私が立つところのもの
それによって
私が生かしめられているところの思念

人に伝えようとすれば
あまりに平凡すぎて
けっして伝わってはゆかないだろう
その人の気圧のなかでしか
生きられぬ言葉もある

一本の蝋燭のように
熾烈に燃えろ 燃えつきろ
自分勝手に
誰の眼にもふれずに

『茨木のり子詩集』1969年(思潮社現代詩文庫)P.98

『渋沢孝輔詩集』(1971年)

さて、もとに戻っていえば、詩が現実秩序からの「不断の外れゆき」であるということは、むろん、現実からの単なる逃亡を意味するものではない。そうではなく、ほんとうは、現実に対する否定の刃を不断に研ぎ続けることを意味するのだ。

『渋沢孝輔詩集』1971年(思潮社現代詩文庫)P.122

鮎川信夫『現代詩作法』(1971年)

オグデン、リチャーズ共著の「意味の意味」のなかにも「詩はわれわれに何も告げない、いや、告げてはならないのだ」という言葉があり、詩は制限され、方向づけられた言語の指示機能とは無関係であると述べております。
ポウは、象徴主義以後の近代詩のうえに大きな影響を与えた先覚的詩人ですが、彼は純粋な美の領域を仮定し、美というものは、経験を超えたものであり、理想的なものであり、永遠の世界に属するものであると考えました。そして詩は、実用的な散文とはちがって、純粋な美を目ざすものであり、道徳によって詩的価値を判断してはならないと主張しました。純粋詩の観念を暗示する「詩であって以外の何物でもない詩――詩のためにだけ書かれた詩」というのが、彼の詩論の原理であり、超絶的な美を探究することを指して詩の本質と呼び、徹底的に教訓に反対の態度をとったのです。

鮎川信夫『現代詩作法  現代詩とは何か・いかに書くか  新装版』1971年(思潮社)P.21

こうした状況のなかから「詩は何であるか」に答えている一つの例として、次に高村光太郎氏の言葉をあげてみます。

  「ここで一番困るのは、自由詩という形で書かれた一つの詩が果して詩であるのか、詩でないのかをどこできめるかという問題である。形式の上では、どれもこれも同じであり、それでいて一方は詩であり、一方は詩でないというのは何の基準によるのか。
今日の日本の詩というものは、いわば裸の詩であって、何の衣裳も着ていない。それゆえ詩そのものが直接言葉にあらわれれば詩であり、詩が直接感じられない言葉の並列は詩ではない。詩は一種のエネルギであって一篇の詩全体から発散してくるエマネイション(放射物)が詩の本体であり、書かれた事柄や、感動や、理性はただその放射のための媒体にすぎないのである。詩が批評であるというようなことも、それは理論からくる批評ではなくて、ある人間生活に対する体当り的なエネルギーの放射する色合、ひびき、リズムの物いう批評なのである」

かなり曖昧な意見です。「詩は一種のエネルギーであって一篇の詩全体から発散してくるエマネイション(放射物)が詩の本体である」と言っても、このような漠然とした感じによって、果してそれが「詩であるか、詩でないか」をきめることができるかどうか、疑わしいものです。
(略)
しかし、私たちが「詩とは何か」に答えようとし、詩の本体を明かにしようとすれば、誰でもこのようなかたちでしか答えられないものなのかもしれません。おそらくこれと大同小異のことを、もっと巧くか、もっと下手に述べるだけのことでしょう。そして、こうした場合、けっしてすべての詩を考慮して言っているわけではなく、ごく狭い範囲で、ある種の限定された詩について語っているのであり、私たちの理解力は、非常に後退した地点に立たざるをえないのです。したがって「詩とは何か」に答えるものは、私たちの詩の理解力ではなく、むしろ詩人の人生観、世界観、あるいは詩にたいする欲求とか、切迫した感情とか、あるいは強烈な気魄とかによって導き出される場合が多いようです。

鮎川信夫『現代詩作法  現代詩とは何か・いかに書くか  新装版』1971年(思潮社)P.42-44

詩とは実に主観的態度によって認識されたる、宇宙の一切の存在である」という萩原氏の言葉は、言っている意味内容の誇大さにくらべて、その詩的認識たるや、逆にきわめて狭小であり未熟だということも言えるのです。 言葉どおり受けとるとしたら、これはほとんど無意味ですし、何のためにこのようなことを言わねばならなかったのかわかりません。
おそらく萩原氏は、その言葉の意味する内容の真理性のために、こうした文章を書きとめたわけではないでしょう。私の想像では、萩原氏の目的は、主観的態度を強調することによって、詩人の生き方にある種の独立性を与えようとするところにあったのではないかと推察されます。

鮎川信夫『現代詩作法  現代詩とは何か・いかに書くか  新装版』1971年(思潮社)P.49-50

つまり、端的に言えば、詩人が「詩とは何か」に答えても、多くの場合、それは自作の説明にしかならないということです。
人はそれぞれ自分の「詩」を持っていますが、「詩とは何か」という問いはそれよりもずっと遅く来るものです。
もし、人から「詩とは何か」と問われたら、それには直接に何も答えないのが賢明だと思います。そして、批評家にできることは、すぐれた個々の詩人にとって、それぞれ「詩とは何であったか」を例示してみせることだけです。

鮎川信夫『現代詩作法  現代詩とは何か・いかに書くか  新装版』1971年(思潮社)P.72

日常語を「歩行」に譬え、詩の言葉を「舞踊」に譬えるのは、日常の言葉と詩的用語を区別するヴァレリイ以来の一つの説明法になっていますが、これはある点では真実でも、他の点では真実ではないように思われます。少くとも、日常語と詩の言葉を本質的に区別するものではないでしょう。これはただ詩が芸術だというだけのことであって、譬えを外せば、舞踊のなかにも歩行のなかにも詩があるのです。
さしあたり、詩は言葉に対する特殊な執着であるとだけ言っておけば、ここでは充分のように思われます。

鮎川信夫『現代詩作法  現代詩とは何か・いかに書くか  新装版』1971年(思潮社)P.130

詩の言葉によって表現されるのは、対象と私たちの自我との関係です。科学的な抽象化による認識とちがって、詩による認識は、そこに観察者の自我がふくまれていることによって真実の意味をもつのです。

鮎川信夫『現代詩作法  現代詩とは何か・いかに書くか  新装版』1971年(思潮社)P.142

詩への期待には、いろいろな心の契機がひそんでいます。やさしいものから難かしいものへ、低次のものから高度のものへ、その段階は私たちの心がそうであるように、実に複雑な構造をもっています。それならば、そうした心が詩に求める究極のものは何でしょうか。
詩は、言葉による感情のカタルシスだ、という一つの答えがあります。この答えの意味するものは単に自己の感情を吐露するという低次の段階から、より高い世界を求めて、作者の主観的動機を純化してゆき、ある価値の段階に至る、実にさまざまな過程と次元を含んでいます。

鮎川信夫『現代詩作法  現代詩とは何か・いかに書くか  新装版』1971年(思潮社)P.188

感情のカタルシスという答えとは別に、詩は美に対する憧れを表現するものだ、という答えがあります。美という概念は、多くの場合、はなはだ曖昧ですから、いちおう限定してかかりましょう。ある人々にとって、美は眼に見える自然物のなかにあります。星、花、貝殻、宝石、孔雀等は、自然のなかにあって、ひと際目立つ存在物であり、特殊な情緒、あるいは感覚を呼びさますものです。
ごく初歩的な詩には、こうした特殊な対象を、美の象徴としてではなく、〈美〉そのものであるかのように取扱っている例がよく見受けられます。そうした詩を書く人たちは、美について、子供のように感覚的であり、ある意味では実際的ですから、美に対して観念的な過ちをおかすことはありません。けれども、こうした美に対する素朴な態度の過ちは、もっと別なところにあります。そこには、図書館よりも、貧民窟がリアルだというような、素朴リアリズムがリアリティということについておかす過ちと同じような錯誤をともなっています。

鮎川信夫『現代詩作法  現代詩とは何か・いかに書くか  新装版』1971年(思潮社)P.189

現代詩は、過去の歌う詩に対して読む詩(考える詩)としての性格をもち、韻律的要素によって記憶されるよりも、映像(イメジ)として心にのこるものです。イメジは、詩人の想像力によって描かれた言葉の絵画であると言えましょうが、その絵画は言葉でできているかぎり、それを受けとる人の心の感度によって、受感するものの内容がかなり違ってくるものです。
一般に韻律的要素に重きをおかない現代詩の場合、最も直截に読者に訴える詩的要素はイメシですから、その効果の度合は、大きく一篇の詩の比重を左右するものと言えましょう。イメジは詩人の心を通過して再創造された光と影の世界を意味しております。

鮎川信夫『現代詩作法  現代詩とは何か・いかに書くか  新装版』1971年(思潮社)P.203

金子光晴『私の詩論』(1975年)

  詩は、志のおもむくところにて、こころのうちにあるときはそれを志と言い、言葉に発したとき、それを詩と名づける。情が、うちにうごいて言葉にあらわれるはじめは歎声となるが、それでもなお不満足な場合は、それをながく詩のかたちにして、のこすことになる。

これは、支那で孔子が三千ものふるくから伝えられた諸国の詩を、三百篇に厳選した最初のアンソロジー『詩経』のなかの「関雎〈かんしょ〉」の序に書かれた詩の定義のようなもので、詩の発生を、要領よく説明したものです。孔子は固物で、世道人心によくないとおもった詩をどんどんはぶいて、棄ててしまったので、鄭衛〈ていえい〉のエロな詩などおもしろいものがたくさんあったでしょうが、それが残されなかったのは残念な次第です。詩の、素朴で、本質的な成り立ちは、情のリズミカルな言葉の表現ということになりましょうから、誰が、どんなおもいをうたってもいいわけですのに、陳の後主の『玉樹後庭花』や『玉台新詠』にあるようななまめかしい詩は、底恥かしいものとされ、一級詩人のうたう題材は、男々しいものでなければなりませんでした。

金子光晴『私の詩論』1975年(冬樹社)P.5-6

紀貫之は「古今和歌集の序」を、

  やまと歌は、人のこころを種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世のなかにある人、事わざしげきものなれば、心におもふことを見るもの聞くものにつけて云ひ出せるなり。花に鳴くうぐひす、水にすむ蛙の声をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)をうごかし、目にみえぬ鬼神(おにがみ)をも哀れとおもはせ、男、女のなかをも和らげ、猛きもののふの心をもなぐさむるは駄なり。

と言うことばで書きだしています。万葉のむかしからの日本の詩のなかでは、自然と人間への素朴な愛情がうたわれてきました。王朝の後宮を中心とした貴族生活の心の遊びとなってからも、繊細なこころの綾や、うつりゆく季節への哀愁が、風雅にうたわれ、その後のながい歴史を通じて、日本人の情操をやしなってきました。

金子光晴『私の詩論』1975年(冬樹社)P.8

詩とは、胸にあまるおもいのことばによる感情的な表現と大まかに考えたうえで、その胸のなかのおもいが、時と場所、時代にしたがってちがってくるのは当然です。花鳥風月をうたっていた和歌や、俳句が、現代の生活の悩みや、憤りをもうたっている今日、現代詩じしんも対象によって、多様な姿をみせるのは自然なことです。

金子光晴『私の詩論』,1975(冬樹社)P.8

プラトンによりますと、詩とは、神のおつげであって、神聖な神に憑かれた熱狂状態のうわことのことにほかならず、できあがった作品は、翼のはえた聖なるものだということになります。

金子光晴『私の詩論』1975年(冬樹社)P.14

旧約聖書のなかでも、詩人は、神の預言者で、ヤーウェの口だと言っています。アッシリアではまた、詩は、ふだんわれわれのつかっている言葉よりも高いことばで、賢者の瞑想と結びつくその発声は、選ばれた人間だけの耳に入る天なる神の会話や教訓なのだと原理づけてきました。
これに類したことばはさがせばきりがないくらいですが、一口に言えば、ひろい意味で詩は、宗教詩に属していたということができましょう。

金子光晴『私の詩論』1975年(冬樹社)P.14

詩人とは、エモーションによって、われわれじしんのなかにある神性をこそ見出すべきもの」と言うのは十八世紀の才女スタール夫人の言ったことばです。

金子光晴『私の詩論』1975年(冬樹社)P.14

ホラチウスのながれを汲むと言われる十八世紀随一のサチリスト、ボアローも、その有名な『詩学』のなかで、「詩とは、有用にたのしく真理を語るもの」と言いながら、じぶんのパトロン、ルイ十四世の前では幇間のように、「もろもろの詩神よ。御身らの手塩にかけ給う諸詩人に、わが大君の御栄えを口授し始え。彼ら詩人にとっては、大君の名は、神の垂訓よりもあらたかなのだ」と、大王の威徳をほめたたえ、詩の至上の目的は、大御代をことほぐことにあるというのです。

金子光晴『私の詩論』1975年(冬樹社)P.15

詩は、感情のおのずからなる発露である」とイギリスの自然詩人ワーズワースは言っています。僧さん風なところの少ないワーズワースのこの発言は、格別めずらしいことばでもありませんが、宗教と規約にうんざりしている十九世紀初頭の詩の読者の気持をからりときりかえさせたもののようです。シェリーは、「詩とは、なんとはなしに尊厳なもののようだ」と言っていますが、その尊厳さは詩から発するもので、お宗旨のありがたさをかんだものではなさそうです。カーライルは「詩とは、音楽的な思考であり、つまり、事物の内奥にわけ入るひとつの精神によって語られる思考なのだ」と、詩を定義する方法も、哲学的になってきています。デ・シャンの「詩とは、うごく絵、考える音楽」と言うことばにいたっては、詩のかたちでしか書かれなかった劇や、物語が詩からはなれて抒情詩だけがのこり、音楽のように純粋芸術の途をたどりはじめる傾向を説明した端的なことばとみていいでしょう。

金子光晴『私の詩論』1975年(冬樹社)P.15-16

でも、詩人じしんは、アリストテレスがはやくから指摘しているように、「人生を模倣して、そこにある事物を再生させ、新しい活力を与えること」しかできないのです。詩は、思想、哲学を発展させる論理の道具ではなくて、できあがった思想、哲学を道具にして実在を吟味し、人生の真実や、 宇宙の真理めかしたものを、美しく、ときにはリズムに乗せて配列してみせるテクニックにすぎないもののようです。
ある人は「詩は、批評である」と申します。しかし、その批評はおおかた受け売りでしかもありふれたものであるのに人の心をうつとすれば、ただそのエモーショナルな表現力の魅力に、人が分別よりさきに引きこまれるからです。冷静な批判とおもわせるために、詩人はわれにもあらず、虚妄を真実にみせかけるためのあらゆる手段をつくします。詩のとりことなった人の不倖は、パントポンの常用者と共通したところがあります。宝石のように輝く美辞麗句は、廃坑をかがやかすに足りるのです。徒労に賭ける詩の投機性の残忍さが、そこに生まれます。
要するに詩は、内容をもたない、といってまちがいないものでしょうが、また、いかなる内容よりもゆたかな内容の幻影をのぞき見させてくれるので、詩の大寺への順礼者の列は、いつもえんえんとして、どこまでつづくかしれないありさまなのです。

金子光晴『私の詩論』1975年(冬樹社)P.22-23

伊藤新吉+井上靖+野田宇太郎+村野四郎+吉田精一 編『詩とは何か』(1976年)

(シンポジウム・詩とは何か)

大岡(信):(略)詩的思考というものは、何といっても直観が根本です。計算といい、見通しといっても、直観を欠いては詩の生命はないも同然。ですから詩はある意味での混沌なのです。もちろん、それは並の混沌ではありません。しいていえば明晰な混沌とでもいえましょうか。そしてその混沌はなんにでもなりうるような、ある種の原形質ともいえるんです。いってみれば、さまざまな可能性をはらんで、何ものかに向けて用意されている、いいがたいある魂とでもいえましょうか。

伊藤新吉+井上靖+野田宇太郎+村野四郎+吉田精一 編『詩とは何か』1976年(角川選書)P.20-21

エドガー・アラン・ポオ『ポオ 詩と詩論』(1979年)

当面の問題からあまり逸れてもいけないから、ぼくが繰り返し強調し、また詩の分かる人にとっては少しも論証を必要としない点、すなわち美こそ詩の唯一の正統的領域であるという点を論証するのは差し控えておこう。

エドガー・アラン・ポオ『ポオ 詩と詩論』1979年(創元推理文庫)P224

長い詩などというものは存在しないというのがぼくの立場である。「長い詩」という言い方からして既に用語上の矛盾を犯していると考える
一篇の詩が詩の名に値するのは、魂を高揚し、興奮させる限りにおいてであるのは言うまでもない。

エドガー・アラン・ポオ『ポオ 詩と詩論』1979年(創元推理文庫)P239-240

最も純粋にして何よりも魂を高揚し、かつ最も強烈なあの喜びは、美の観照から得られるものなのである。美の観照においてのみ魂の喜ばしい高揚や興奮に達し得るのであって、これが詩情と認められるものなのだ。それは、理性を満足させる真理や、心情の興奮である情熱とは極めて容易に区別される。

エドガー・アラン・ポオ『ポオ 詩と詩論』1979年(創元推理文庫)P250

『西脇順三郎詩集』(1979年)

詩の精神の分類に現実と超現実と分けることは浅薄な分け方である。一体、詩はそれ自身の現実であるからである。

『西脇順三郎詩集』1979年(思潮社現代詩文庫)P.120

中桐雅夫『詩の読みかた 詩の作りかた』(1980年)

クライヴ・サンソムというイギリスの詩人は、その編集した『詩の世界』と題するの本の中で、詩の定義について、まず、つぎのようなC・D・ルイスの言葉を挙げています。

「詩とはなにか?」――それは「真理とはなにぞ?」というピラトのことば(ヨハネ伝十八章)と同様に答えられない問いである。(C・D・ルイス)

ついでサンソムは「しかしながら、詩人たちはこれに答えようとする試みを思いとどまりはしなかった。つぎに列挙するのは、彼らの答えから選んだものである。いずれも、真理の一面を発見して他の多くの面を看過している。しかし、詩人たちはその間に、詩の定義ではないにしても、すくなくとも“定義のためのノート”のいくつかを提供しているのである。」と説明して、以下のような二十六の定義を挙げています。

詩とは、力強い感情の自然な氾濫である。(ワーズワース)

詩とは、一般的意味で、"想像力の表現"と定義されてよいだろう。(シェリー)

詩とは、想像力と情熱のことばである。(ハズリット)

詩とは想像的情熱である。(リー・ハント)

詩とは、最良の順序におかれた最良のことばである。(コールリッジ)

かつて、あるイギリスの詩人が、詩とは最良の順序におかれた最良のことばであると宣言した――あまり禁令のない国の批評家たちに、いったいイギリス人はどうやって詩をまとめあげているのだろうと不思議がらせるような話である。(C・D・ルイス)

よい散文の定義は――適切な場所におかれた適切なことば。よい詩の定義――適切な場所におかれたもっとも適切なことば。(コールリッジ)

コールリッジがこの主張をしたとき、彼の精神は適切な場所になかったのである。(フランク・スウィナトン)

人がそれを忘れたら貧しくなるようなものを思い出すひとつの方法、詩はそう定義してよいだろう。(フロスト)

偉大なことをいう簡潔で単純な方法。(エドワード・フィッジェラルド)

詩とは、格調のなかにそそぎこまれた情緒である。(ハーディ)

感情の意味と総合された、形式の完璧さ。(エリオット)

忘れられない話〈スピーチ〉。(オーデン)

詩とは、人間のもっとも完璧な話以外のなにものでもない、人間はそのなかで、真理を述べ得るにもっとも近くなるのである。(アーノルド)

詩とは、感情に訴える観念を、よりよく表現するための、ある話し方である。(ハーバート・スペンサー)

詩とは、人生に対する人間の反応を記録するための精密機械である。(マクニース)

詩とは、人生の批評である。(アーノルド)

なんと憂鬱な定義だろう! 詩がなにかの批評でなくてはならぬとは! むしろ、人生それ自体が、詩を最終的に批評するのではないのか?(F・L・ルーカス)

詩とは・・・・・・ある世代が生きている現在の一時的な形式によって、人間存在の普遍的性質を想像せんとする試みである。(スペンダー)

詩とは、生命を強烈に実感することによって引き起こされた情緒の表現である。(S・R・ライアット)

そのなかにおいて、人が自分の驚きを探査できる言語、それが詩だ。(クリストファ・フライ)

詩とは・・・・・・他のやりかたでは、どうしてもいうことができないことをいうための、ことばの用い方である、詩のなかに生まれ出る(あるいは再生する)までは、ある意味では存在していないものをいうための、ことばの用い方である。(C・D・ルイス)

想像力や情熱の動きが精神に刻印されるところではどこででも、精神によって、その情緒を長引かせ繰り返そうと努力し、あらゆる他のものをもちこんで、その情緒と調和させようとするもの、また一様に持続した、あるいは場合に応じ、情緒を表現する音に応じてしだいに変えられる、おなじような調和した動きを与えようと努力するもの――それが詩だ。(ハズリット)

多くの定義が試みられたが、満足すべきものは、まだ発見されていない。なぜなら、それらは・・・・・・必然的に主観的であり、真理の特殊な一面を表わすだけだからだ。詩人たちによる定義は、当然、彼ら自身の詩に適するように作られるが、より普遍的に適用するとなると、弱点が現われるのである。(フォレスト・リード)

ボズウェル:では、先生、詩とはなんですか?
ジョンソン:そりゃ、きみ、詩がなにでないかという方がずっとやさしいよ。われわれはみな、光とはなにかを知っているが、なんであるかをいうのは容易じゃない。
われわれはそれから、美学的な文学者のことを話した。彼らは詩と詩人の本質を、抽象的な定義で表現しようと努力しているのだが、なんらはっきりした結論に達していない。「いろいろ、定義する必要がどこにある?」とゲーテはいった。状況についての生き生きした感覚と、状況を表現する力、それが詩人を作るのだ。」(ニッケルマン『ゲーテとの対話』)

サンソムが引用しているのは以上ですが、詩人W・H・オーデンと批評家ルイス・クローネンバーガーが共編した『ヴァイキング版アフォリズム集』から拾ってみましょう。

詩とはたしかに、良識以上のなにものかであるが、良識であらねばならない.・・・・・・宮殿は家より以上のものだが、家であらねばならないのと同様である。(コールリッジ)

詩は情緒の解放ではなくて、情緒からの一種の逃避である。詩は個性の表現ではなくて、個性からの一種の逃避である。しかし、もちろん、個性と情緒をもっているものだけが、これらのものから逃避するのを望むということがなにを意味するかを知っているのである。(エリオット)

詩とは、危機の状態の言語である。(マラルメ)

理性が詩を作らないのは、塩が料理を作らないのと同様だが、塩が料理の一要素であると同様に、理性は詩の一要素である。(ヘッベル)

詩においては、いわれねばならぬすべてのことは、ほとんど、うまくいうことができない。(ヴァレリー)

このほか、わたしの眼について書きとめておいたものには、つぎのようなことばがあります。

詩とは、あらゆる知識の息であり、より微妙な霊である。(ワーズワース)

詩とは、あらゆる科学を包含するものであり、あらゆる科学が留意せねばならぬものである。(シェリー)

詩とは、本来、超越的性質のものである・・・・・・われわれは、神の恩寵に浴している状態を定義できないのと同様に、この性質を定義できない。(ハーバート・リード)

ことばによるひとつの芸当。(フロスト)

詩とは、もっとも幸福で最良の精神の、最良でもっとも幸福な瞬間の記録である。(シェリー)

なかに本物のひきがえるがいる想像の庭。(マリアン・ムア)

詩とはいっしょに走っている血、想像力、知性である・・・・・・詩はわれわれに命じる、世界に触れ、世界を味わい、聞き、見よと。また、ただ頭脳からだけでできているものや、肉体の全体的希望、記憶、感覚から噴出している泉でないものを避けよ、と。(W・B・イェーツ)

わたしは詩についていろいろのことをいってきたが、そのうちでもっともおもなものは、詩はメタファだということだ。あることをいって別のことを意味し、別のことをいうことによってあることを意味するメタファだ。(フロスト)

詩とは、翻訳で失われるものである。(フロスト)

詩とは、精神と現実とが沸騰的交渉ののちに、沈殿して生じた結晶である。(ピエール・ルヴェルディ)

中桐雅夫『詩の読みかた 詩の作りかた』1980年(晶文社)P.10-19

西脇順三郎氏は、その最初の評論集『超現実主義詩論』(一九二九)の冒頭で「詩を論ずるは神様を論ずるに等しく危険である。詩論はみんなドグマである」と書いていますが、たしかに詩についての概念は、神様の概念のように多種多様です。その西脇氏も、戦後最初の綜合的な西脇詩論とされている「現代詩の意義」(『斜塔の迷信』一九五七年刊収録)では「ポエトリの真の世界というのは、どんな形態か説明が出来ないが、仮りに玄の世界として置く・・・・・・詩の中枢は玄の精神である・・・・・・玄は論理が破壊された世界である・・・・・・異なった二つのものが一つのものに調和されている関係が詩である。これが玄の神秘である」と述べ、老子の玄ということばをかりて説明するようになりました。「考えをかくすもの」と題する論文では「詩はある種の美という観念であると思う・・・・・・私は詩にかすかなおかしみと、かすかな哀感を求めたい・・・・・・哀愁を感じさせることによって詩は快感として存在を深く意識させる。それで詩は一つの宗教ともなり、哲学ともなり、人間の憂鬱を救うものであろう・・・・・・その哀愁には・・・・・・一つのおかしみが伴なっている」と述べ、さらに「詩情」では、芸術作品の出来不出来を判断するときには、そのなかに含まれている「何かしら神秘的な淋しさ」の程度で定めるといっています。「淋しいものは美しい、美しいものは淋しい」というわけです。しかし、自分はにぎやかな方が好きだ、勇ましいことの方が好きだという人がいるかもしれません。それはそれで結構です。ただ、西脇氏がいっておられるのは、そういうにぎやかさや勇ましさの奥の奥にひそんでいる、いわば人間の存在そのもののもつ淋しさのことなのです。
率直にいって、完全に満足すべき詩の定義に出合った人はないでしょう。にもかかわらず、詩とはなにかという問題は、西脇氏の場合でもわかるように、詩人自身をとらえます。

中桐雅夫『詩の読みかた 詩の作りかた』1980年(晶文社)P.20-21

つぎに、カール・サンドバーグ(一八七八-一九六七)は「詩の仮の定義」と題して、つぎのような一連のエビグラムを書いています。エビグラムというのは、短くて気のきいた、警句とか寸鉄詩とかいわれるものです。

1 詩とは、人間の言語という非常に可塑性のある材料で行なわれる一芸術である。
2 詩とは、ある有限の音の弾道を、その余韻の無限の点にまで追跡することである。
3 詩とは一種のあやつり人形芝居だ。そこでは、のろしの乗り手と海にもぐる男が、第六感と四次元についてうわさをしている。
4 詩とは、陸に住んで、空を飛ぶことを願っている海の獣の日記である。
5 詩とは、あまりに早く水平線の彼方へ消えてゆくので説明することのできない人生についての一連の説明である。
6 詩とは、間に判読不能の呪いのある、ひれと羽根の化石の岩の跡である。
7 詩とは、野がもの渡りで暗くなった空である。
8 詩とは、金色のかえるの腹のなかに飲みこまれた月の銀色である。
9 詩とは、花の濡れて闘っていると、その花の太陽に照らされた花弁との間の沈黙と対話である。
10 詩とは、生命を育て、やがてそれを墓に入れる大地の逆説の利用である。
11 詩とは、あるドアの開閉である、一瞬のうちに見られるものを憶測しようとのぞきこむ人々をおき去りにして。
12 詩とは、新しい朝のくもの巣である、それは夜通し巣を作り待ち伏せしていた月明の時間についての物語を語る。
13 詩とは、虹がいかに作られ、なぜ消えるかを教えてくれる幻の台本である。
14 詩とは、ヒヤシンスとビスケットの総合の成就である。

どのエビグラムをとってみても、詩とはなにかという問題について、深く考えさせられるものをもっていると思います。

中桐雅夫『詩の読みかた 詩の作りかた』1980年(晶文社)P.25-26

萩原朔太郎は処女詩集『月に吠える』の序で、こう書いています。
「詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹することのためでもない。詩の本来の目的は寧ろそれらの者を通じて人心の内部に顫動〈せんどう〉する所の感情そのものの本質を凝視しかつ感情をさかんに流露させることである・・・・・・私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表われた概念や『ことがら』ではなくして内部の核心である感情そのものに感触してもらいたいことである。」たしかに詩の目的は、情調や幻覚や思想をそれ自身のために描くことではありません。「それらの者を通じて」他のなにかを描くのですが、朔太郎のいっている感情がもし単なる喜怒哀楽にすぎなければ、彼は二流の詩人で終わっていたことでしょう。そうでなかったのは、彼の感情とは「彼の意識がなおはっきりとは自己規定しなかったおのれの魂の深部の実存感ともいうべきもの」(那珂太郎氏)だったからでありましょう。その朔太郎も「詩とは何ぞや」という文章で「詩とは何ぞや? といふ間ひに対して、過去に人人が答えたすべてのものは、部分的な偏見に執した誤謬である。もしくは特殊の窓を通して見た、個人の独断的主張であるからであって、一般に普遍的に、どんな詩にも、どの詩人にも、共通して真理であるが如き答解は、かつて全く無かったのである」と書いています。かりにそういうものがあると仮定すれば、蒸溜水のような味気のないものかもしれません。そうだとすれば、やはりわれわれは、多くの人が述べていることを参考としつつ、古今東西の多くの名詩といわれるものを読み進んでいって、しだいに自分自身の定義を作りあげていくほかないといえましょう。

中桐雅夫『詩の読みかた 詩の作りかた』1980年(晶文社)P.30-31

大岡信『詩集  詩とはなにか』(1985年)

詩とはなにか  3(題名)

すべての心理てき風景の
ぜつめつしてゆく
過程そのもの

大岡信『詩集  詩とはなにか』1985年(青土社)P.12

詩とはなにか  5(題名)

噛みつく力
しかし 顎でも歯でもない
にがみでできた
透明な 万力

大岡信『詩集  詩とはなにか』1985年(青土社)P.14

詩とはなにか  6(題名)

小さなことを
大きく映す 眼

大きなことを
小さく発する 唇

大岡信『詩集  詩とはなにか』1985年(青土社)P.15

『山之口獏詩集』(1988年)

つまりは、詩とはなにかといわれても、詩の定義はむずかしくて、四十年の詩作をもってしても答えることが困難なのである。
たとえばある詩人によると、詩は叫びであるというのである。そうかとおもうとある詩人は、詩は怒りであるというのである。また詩は美であるというのもある。あるいは、散文であっても小説であっても、ある特定の審美的情緒を感じさせるものがあれば、それを詩といってもよいという風なのもある。また、詩は批評であるとするものもある。
またある詩人は、精神のある状態の記録であると説明する。そしてまたある詩人は、詩は経験であるというのである。またある詩人にとって、詩は美や真実をもとめる人間感情の純粋な表現であるという。ある詩人は、詩は青春であるともいうのである。数えあげると、おそらく詩人の数ほどいろいろあるに違いないのである。
そんなわけで、詩とはなにかと問われても、誰もが詩とはこれだと答えられるような定義というものがあるのではないからなのである。ということは、それほど詩の定義づけはむずかしいということなのであって、詩人の間ではむかしから、詩とはなにかが問題にされつづけて来たのであるが、その答えは前に述べたいろいろの例のように、各人各様に試みられているに過ぎないのである。

『山之口獏詩集』1988年(思潮社現代詩文庫)P.114-115

むかしから、詩についての講座とか、詩の作り方というような本は沢山あるようであるが、そういう本や講座によって、詩がわかったとか、詩が作れるようになった詩人があるかどうか、寡聞にしてそういう詩人があるということをかつてぼくは耳にしたことがないのである。
そんなことから推察して、詩とはなにかとの問いは、むしろ問う人自身に向けられなくてはならないのではなかろうかとぼくはおもうのである。この講座の初回に挙げた例のように、詩とは叫びであるとか、詩とは怒りであるとか等々の答えにしても、結局は教えられたり押しつけられたりしてそのようにおもったのではなくて、詩人自身が探り当てたり発見した結果に違いないのである。
それならば、なんのために詩を書くかという問いにしても、これまた詩とはなにかとの問いとおなじく、矢張りその人自身に向けてはじめて、意味のある問いとなるのではなかろうか。ぼくはそこに「詩」と「人間」とが、似通っているものであることを感じないではいられないのである。おそらく人間とはなにかと、なんのために生きるかというようなことを、考えた経験のある人ならばそれを感じることが出来るに違いないのである。
つまりは「詩」といい、「人間」といい、それらは求められることによってその存在を主張し、存在することによってそれらは、繰り返し追究されなければならない性質のものだからと、ぼくはそうおもうのである。そこで、ぼくは、書くということ、それは、生きるということの同義語のようなものではないかとおもうわけである。

『山之口獏詩集』1988年(思潮社現代詩文庫)P.119-120

羽生康二『口語自由詩の形成』(1989年)

詩はことばを使う芸術だ。ことばを使う芸術である以上、詩には意味がともなう。詩のもたらす感動は、詩がかもしだす美的感動と詩が伝達する意味内容とがわかちがたく重なりあって生みだされる。詩には芸術性と効用性(何を伝えるかという意味内容)の両方が必要なのだ。日本の詩全体で考えた場合、個々の詩人、個々のグループによって芸術性と効用性のどちらに重点をおくのかのちがいはあるにしても、全体としては芸術派と効用派が相きっ抗しているのが望ましい形ではなかろうか。

羽生康二『口語自由詩の形成』1989年(雄山閣)P.179-180

藤井貞和『口唱むべき一篇の詩とは何か』(1989年)

ありていに言って、現代詩の追いもとめているものがコトバであることを否定することはできない。それは、着地のコトバでなく、天空のコトバでもないので、その両者にひきさかれる杖のような、直立し、着地から天空へと立ちあがり、さししめし、つねに途上として、一歩をいざない、うながすようなコトバ、あえていうならばそのようなコトバである。コトバだとは言いきれない何ものかであるにしても、それをコトバにしてゆくので、詩はやはりコトバをめざしてゆくコトバだ、ということなのだ。

藤井貞和『口唱むべき一篇の詩とは何か』1989年(思潮社)P.237-238

瀬尾育生『われわれ自身である寓意』(1991年)

ことによるとここでわれわれは観念論批判の反復の中で徐々に沈黙させられてきた言葉、それゆえにいまでは恥ずかしさなしではとうてい口にしえないだろう言葉を、もう一度呟いてみるべきなのではないだろうか。たとえば「感動」という言葉、「詩とは感動である」という恥ずかしい命題などを。

瀬尾育生『われわれ自身である寓意』1991年(思潮社)P.122-123

大岡信『詩を読む鍵』(1992年)

実際、ポール・ヴァレリーの文明批評も、T・S・エリオットの『荒地』も、シュルレアリスト詩人アンドレ・ブルトンおよびフィリップ・スーポーの共作『磁場』やブルトンとポール・エリュアールの共作の『処女懐胎』のような作も、日本においては、一九四五年以降になってはじめて、その発想の根拠に対して共感しうる真の条件が生まれたとさえいえるように思われるのである。
この共感を導きだしたのは、詩は宗教や自然科学とは異なるアプローチによって、現代世界を蔽っている荒廃と大量死と絶望に抗しようとするもう一つの力だ、という信念だった。

大岡信『詩を読む鍵』1992年(講談社)P.27

『続・寺山修司詩集』(1992年)

詩は字にする必要などないのだ。ましてや、字にすることの効果から逆算して詩をかくべきではないし、字を過信すべきではないことは自明である。

『続・寺山修司詩集』1992年(思潮社現代詩文庫)P.111

亀井俊介・川本 皓嗣 編『アメリカ名詩選』(1993年)

(マリアン・ムーア『詩(原題 Poetry)』一部,行変え位置は引用者による便宜的なもの)

だがこれだけは区別しておこう。
はんぱな詩人がむりに飾り立てると、詩ではなくなる。
そしてわれわれの詩人たちが、「想像力の直訳主義者」となって、傲慢さや軽薄さを乗り越え、われわれの眼の前に「本物のヒキガエルの棲む架空の庭」を提示するまで、詩はどこにもない

亀井俊介・川本 皓嗣 編『アメリカ名詩選』1993年(岩波文庫)P.207-209

〈ユゴー『オード集』〉

・・・・・・詩の領域は無限である。現実世界の下には、観念の世界が存在する。その世界は、厳かな瞑想によって、物の中に物以上のものを見るように慣らされた人々の眼に、光り輝いて、姿を現わすのだ。詩句による詩であれ、散文詩であれ。今世紀の名誉となったあらゆる様式のすぐれた詩作品は、以前にはほとんどその存在を気づかれてもいなかったこの真理を明るみに出した。詩は、思想の形式の中にあるのではなく、思想そのものの中にあるという真理を。詩、それはあらゆるものの奥底にひそむものすべてのことである。

窪田般彌・新倉俊一 編『世界の詩論 アリストテレスからボヌフォアまで』1994年(青土社)P.115

馬渡憲三郎『昭和詩史への試み』(1993年)

中野が「叫喚」あるいは「騒音」といみじくも名づけたように、『赤と黒』創刊号(大12・1)の表紙の「宣言」は、それを端的にあらわしている。

  詩とは? 詩人とは? 我々は過去の一切の概念を放棄して、大胆に断言する! 『詩とは爆弾である! 詩人とは牢獄の固き壁と扉とに爆弾を投ずる黒き犯人である!』

先に引用した中野の見解と、『赤と黒』の宣言文とをいま比較検討するまでもない。一目瞭然にして、中野の見解が、少なくとも「宣言」の字面を見ていくだけでも正しいことが了解されよう。

馬渡憲三郎『昭和詩史への試み  表現への架橋』1993年(朝文社)P.10

北川透『詩的レトリック入門』(1993年)

中桐雅夫は、先の本で、《詩の定義にとっては、定義できないということが重要なのである》という、ポール・ヴァレリィのやはり名句を紹介している。
こうなると詩はいよいよわけのわからないものである。しかし、わけがわからなくても人生のどこかで詩作品とぶつかり、それに挑撥され、誘われて、その中の幾人かは詩を書きはじめる。詩を書くことが、単に苦痛であったり、ものすごく勉強しなければ書けなかったりするのであれば、詩は苦痛をも勉強をもいとわない少数のエリートのものであろう。そういう詩もあっていっこうにさしつかえないが、しかし、一般的には、詩はやはりどこか少しおいしいことばなのである。毒が含まれていれば、いっそうおいしく感じられることばだからこそ、詩はわけがわからなくても、わたしたちを誘発し、少しかじってみると、もっと沢山食べてみたくなるような魔力をひそませているのだ。

北川透『詩的レトリック入門』1993年(思潮社)P.18-19

詩を書く。この行為が、小説を書く、批評を書く意識との明らかな違いのひとつは、余白の魔性にまといつかれているところにあるのではないか。このように言えば、人はその思いつきを笑うかも知れないが、それならわたしたちが詩を書くとき、なぜ、原稿用紙を文字で埋めつくさないのであろう。タブーのように、そこに空白がつくられている。たとえすべての枡目から、空白が追いだされたとしても、印刷されて発表された詩には、空白が出現している。それは東北の民話に登場する座敷童子に似ている。十人のこどもたちが、座敷のなかで、ぐるぐるまわって遊んでいると、いつのまにか一人増えている。その不思議なざしきぼつこが、余白である。
詩の出現とは、必ず(と言っていいほど)余白の出現である。だれもがそれを自明にして書き、読んでいながら、忘れている。ことばと共棲しながら、あるいはことばをおびやかしたり、おびやかされたりしている紙の上の、このざしきぼつこが、わたしは前から気になっていたが、なかなかつかまえられなかった。なにしろ、ざしきぼっこは、実際にこどもを数えてみると、消え失せているからだ。

北川透『詩的レトリック入門』1993年(思潮社)P.34

ここにおいて、彼はいくらかなりとも音律的魅力のある、文語による自由詩の実現を、過渡的に承認するという考えに至らざるをえなかった。朔太郎晩年の文語詩への回帰は、この現代日本語におけることばの音楽についての、絶望的認識のうちに準備されたことになるのである。
ところで、詩の本質がことばの音楽である、という考えが、口語自由詩は単なる散文詩に過ぎない、という否定的な認識を生みだしたのだった。この前提こそは疑われなければならない。

北川透『詩的レトリック入門』1993年(思潮社)P.95-96

寺山修司『戦後詩』(1993年)

よりひろい見地に立って、誤解をおそれずにいうならば、詩は「在る」ものではなくて「成る」ものである。どんなことばでも、それが詩に「成る」ような状況の中ではA・ランボーのフレーズ以上に人の心を揺さぶることができる。

寺山修司『戦後詩  ユリシーズの不在』1993年(ちくま文庫)P.23

私たちの時代の批評家たちは、詩を単独に切離して論ずることに多くのスペースを割いてきた。しかし、それは実は不可能なことだった筈である。
また、べつの批評家たちは詩と歴史的客体としての詩人との関係に頭を悩まし、ロングショットで詩をとらえすぎるあまりに、間接化しすぎた詩からの主体を見失なってしまうことになった。しかし詩は本来、人生の隣りにある。「直接の詩」はどこにでも潜在している筈なのだ。

寺山修司『戦後詩  ユリシーズの不在』1993年(ちくま文庫)P.26-27

本当の詩人というのは「幻を見る人」ではなくて「幻を作る人」である。私がイメージということばではなく記号ということばを使ったのは、イメージがまだゼリー状の形になる前の心象であるのにくらべて、記号はそれを「とらえた」という証しだからなのだ。
詩人にとって記号とは必ずしも文字ではない。ことばであったり沈黙であったりすることもある。だが、それはたしかに詩人を経てとらえられ、表現されたものでなければ「もう一つの現実」とは呼べないものである。

寺山修司『戦後詩  ユリシーズの不在』1993年(ちくま文庫)P.58-59

原子朗・編『近代詩現代詩必携』(1993年)

(“ことば”から“詩”へ 安藤靖彦)

現代の詩人たちは〈詩〉をどう捉え、どう考えているかというあたりから話をはじめよう。大岡信氏に「詩とことば」(『現代詩読本11  現代詩入門』―昭54・10、思潮社―による)とい文章がある。ここで氏はノヴァーリスの「見たものは見られたものに触っている。聴こえたものは聴こえないものに触っている。それならば、考えたものは考えられないものに触っているはずだ」ということばを引いて、次のように述べている。

  この思想はそのまま時のことばについて言ったものとして敷衍することができるでしょう。詩として発表される、あるいは書く詩は、見えないもの、聴こえないもの、そして考えられないものに触っているというんです。言ってみれば、そうやって触っている部分を、向うがわに向けてどこまでおし拡げるかということが、詩人ひとりひとりのやっていることなんですね。そして、押し拡げれば押し拡げるほど、触れないもの、聴こえないものの領域がさらに拡がる。そこが不思議なところです。その意味で、詩作品というものは、それが触っていることがはっきり伝わる部分と、よくわからないけれど何か不思議なものに触っていることだけは感じられる、 その向う側の領域とのあわいに、スッと置かれている非常に不安定な創造物だという気がするんです。

原子朗・編『近代詩現代詩必携  特装版(別冊國文學1988・10改装)』1993年(學燈社)P.180

『続続・谷川俊太郎詩集』(1993年)

詩はなんら特別なものでなく、神聖なものでもなく、ごくあたり前なものである、だからこそ人間にとって逃れることのできないものなのだ

『続続・谷川俊太郎詩集』1993年(思潮社現代詩文庫)P.123

辻井喬『詩が生まれるとき』(1994年)

詩が、本当に詩といえる作品になっているかどうかについては、個性がどれくらいはっきり出ているかがたいへん重要な要素です。現代詩を書いている人は数えきれないくらいいますが、この詩はあいつでなければ書けない、というふうな詩はそんなに多くない。谷川さん自身、「詩は一切の曖昧な私性を完全に追放してしまう」、といっています。ということは「曖昧な私性」のなかには世俗が入りこんでいるからです。また、若い詩人のグループに属する稲川方人氏は「わたしたちが詩を書くことはわたしたちの孤立と固有を見出すことだ」といっている。フォークソングの場合は一般性、詩の場合は個に徹することによって浮かんでくる普遍性、というふうに分けてみると、多少の区別の感じは出てくるのではないでしょうか。

辻井喬『詩が生まれるとき』1994年(講談社現代新書)P.17-18

アリストテレスは『詩学』の第四章で、まず、模倣的再現があり、次にその成果をすべての人が喜ぶという本能、そこに詩が生まれる、という有名な規定を述べ、次のように書いています。「ところで、自然的本能によって我々に備わっている模倣的再現〈ミメイスタイ〉には、色彩や形状によるもののほかに、音階とリズム――韻律がリズムに属することは明らかである――によるものがあるから、昔は、生れつきこれらの業に最も適した人々が、先ず即興的作品から始めて、漸進的に度を高め、詩作というものを生むに至った」「かくて、古代の詩人たちは、英雄詩〈ヘーロイコス〉の作者か、風刺歌〈イアムボス〉の作者かの、いずれかになって行った」(今道友信訳)。
次の言葉は第九章です。「そもそも詩人の仕事とは、すでに生起した事実を語ることではなく、生起するかも知れない出来事を語ること、すなわち、いかにも納得できそうな蓋然性によってなり、またはどうしてもそうなる筈の必然性によってなりして生起しうる可能的事象を語ることだ、ということである。」
ここから詩と歴史的記述が分かれてくるのです。歴史的記述は起こったことを記述する。詩は起こりうる可能的事象を語る。詩と歴史とはそこが違ってくるわけです。詩は物事を典型化する、あるいは、あったことをデフォルメする。その中には誇張も入ります。したがって、詩における真実と、歴史における真実とは異質の真実であるということになります。その意味では、詩はどんなに古い時代のことを題材としていても、「詩は現在である」ということが、詩学の本質として現れてくるのではないでしょうか。

辻井喬『詩が生まれるとき』1994年(講談社現代新書)P.56-57

リルケはロダンの影響もあって、「時禱〈じとう〉詩集』以後、それまでの「詩は感情である」という主張を修正し、「詩は人の考えるように感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にして既にありあまるほど持っていなければならない。詩は本当は経験なのだ」と言うようになりました(『マルテの手記』望月市恵訳)。あの抒情的で、ジャーナリスティックな言葉を使えば、ロマンティックな詩人が、こう言っているのです。

辻井喬『詩が生まれるとき』1994年(講談社現代新書)P.74

詩は言葉の想像力を回復・獲得する営為です。高村光太郎が犯したような誤りを繰り返さないためには、詩は個人から出発しなければならない。しかし、個人的体験に留まっていたのでは、作品としては自立しないわけです。個人的体験から出発しながらも、それが作品となるためには、文体、スタイルを持たなければならない。

辻井喬『詩が生まれるとき』1994年(講談社現代新書)P.74-75

窪田般彌・新倉俊一 編『世界の詩論』(1994年)

〈シェリー『詩の弁護』〉

詩はじっさい、この世のものならぬ何か
である。それは知識の中心であると同時に円周である。あらゆる科学を包含するもの、あらゆる科学の帰すべきところである。他のあらゆる思想体系の根であると同時に花である。そこからあらゆるものが生じ、それによってあらゆるものが飾られる。病害をうければ、果実も種子も得られず、このような不毛の世界では、生命の木の若枝もつぎつぎと育ちはしない。詩はまた、あらゆるものの完全無欠な外貌であり生命のかがやきである。バラにたとえれば、構成成分の組成にたいする花の香と色とであり、分解と腐朽の秘密にたいする色褪せぬ美の端正さと絢爛さとである。

窪田般彌・新倉俊一 編『世界の詩論 アリストテレスからボヌフォアまで』1994年(青土社)P.107

『続・大岡信詩集』(1995年)

ところで、ダンのことだが、私はエリオットの「形而上派詩人論」を読み、例のよく知られた「思想を薔薇の匂いのように直接に感じる」という、形而上詩――これはしばしば「現代詩」そのものの定義といってもよいような類推の仕方で、諸家によって引照されているのだが――の一種の定義をもそこに読みながら、ダンの詩を読むところまでは行けずにいた。

『続・大岡信詩集』1995年(思潮社現代詩文庫)P.117-118

田村隆一『詩人からの伝言』(1996年)

ひとつの詩が生まれる。つまり、「種子」が体内に宿り「一篇の詩」となるために外へ出て行こうとする瞬間までのプロセスが、ほんと見事にとらえられているんだ。いいかい、このプロセスがない限り、ある一篇の詩がいかに巧妙に正義を歌ったり、愛を讃えても、またモダンな意匠で書かれても、真の意味でそれは「詩」ではないんだよ。
ぼくはこの重要なプロセスを、詩人における感情の歴史と呼んでいる。詩人が自分の感情の歴史の中に生きている限り、自身が思ってもみないことや感じてもみないことを、いかにも真実そうに書いたり歌ったりすることはありえないだろう。普段は忘れている体験や気にもしない観念が、或る時ふと頭をよぎることがある。それは、その人だけの「種子」だよな。それはすでに彼の“無自覚的意識"という広大な大地で芽ぶき、育ち始めているかもしれない。雑草を刈ったり、水をやったりしたから、彼の詩の「種子」は成長したんだ。まさに無自覚的にな。ある文化が生まれ、そして死んでいくのも、実はこの土地なんだよ。近代人は、自覚的意識というあまりにも狭小な土地に文化を造りたがる。文化は生まれるもので、造るものじゃないのに。詩も同じさ。「種子」を育てることが不可欠なんだ。いろんなレトリックで詩が生まれるんじゃない。詩人の感情の歴史を抜けて飛び出してくるものが、詩なんだ

田村隆一『詩人からの伝言』1996年(メディア・ファクトリー)P.163-165

詩人にとっての感情の歴史が重要だと語った。だけど、誤解しないでくれよ。詩は、感情の発露ではなくて、なまの感情を隠匿するところなんだよ。

田村隆一『詩人からの伝言』1996年(メディア・ファクトリー)P.167-168

『続・長田弘詩集』(1997年)

つまり、人間の記憶というものをゆたかにしてきた言葉が詩なんだというふうに考えるんです。その言葉がたとえ切れっぱし、断片であっても、それが記憶にのこるとき、それは詩になるんだと思うんですね。詩は、詩である言葉ではなく、詩になる言葉なんですひとの記憶にのこった言葉が詩になる詩というのは詩のかたちをしていなくても、心にのこる言葉というのがそのひとにとっての詩であるというふうに考えたほうがいい。
といって、完全に覚えることだけが記憶なんじゃないんです。何となく覚えている。不確かなまま、あいまいなままのこっている。それも大切な記憶であって、小さいころ誰が言った言葉かわからないけれども、いまでも覚えている言葉がある。その言葉に思いがけないところでぶつかってうごかされるということがある。あいまいな記憶にはそういうふうにいつまでも気もちを誘う何かがあったりする。自分のなかに気がかりなものとしてのこっている、名ざせないもの、はっきりしないものを大事にする方法として、詩という言葉があるんだと思うんですね。

『続・長田弘詩集』1997年(思潮社現代詩文庫)P.133-134

野村喜和夫・城戸朱理『討議戦後詩: 詩のルネッサンスへ』(1998年)

(戦後詩の森を抜けて 野村喜和夫、城戸朱里)

鮎川信夫から稲川方人まで、それが何度か反復されて、七〇年代、八〇年代ときたのではないか。たとえば八〇年代には瀬尾育生の「詩とは言語ゲームである」というヴィトゲンシュタインを援用した詩論がありました。そのなかで瀬尾さんはこう言っているんです。「もし、なんらかのルールが抽出されたら、その都度ただちにそれから逸脱することを潜在的なルールとしているような共同性」。つまり、目に見えるルールは内在しないんですが、ルールが出たらその都度ルールを否定してしまおうという動きを唯一のルールとするような共同性が詩だと定義している。まあ一種の詩のポスト・モダンですけど、そうした極限まで含めて、広くエディプス的な規範=侵犯の歴史がくり返されてきたのではないか。

野村喜和夫・城戸朱理『討議戦後詩: 詩のルネッサンスへ』1998年(思潮社)P.339

嶋岡晨『詩とは何か』(1998年)

「赤と黒」の同人は、壺井繁治、川崎長太郎、岡本潤、萩原恭次郎、(遅れて小野十三郎)らで、表紙に次の短い「宣言」を刷り込んでいた。
詩とは? 詩人とは? 我々は過去の一切の概念を放棄して大胆に断言する! 『詩とは爆弾である! 詩人とは牢獄の固き壁と扉とに爆弾を投ずる黒き犯人である!』

嶋岡晨『詩とは何か』1998年(新潮選書)P.97

英国に留学し、モダニズム及びシュルレアリスムの新しい波を頭からかぶった一詩人・西脇順三郎(三十一歳)が帰国したのも、大正十四年。慶大文学部教授として教壇に立った翌年には、重要な彼の詩論「PROFANUS」(瀆聖的、異教的なこと。プロファヌス)が発表されている。
「人間の存在の現実それ自身はつまらない。・・・・・・詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)をもって意識さす一つの方法である」(大15、「PROFANUS」)――その方法の具体化として西脇が、以後終生採用したものは、「二つのかけはなれた現実を結ぶ。そうすることによって超自然や超現実の関係をつくりだす」(昭44、「詩学」)こと、時間的・空間的に遠く離れた二つ以上のものを繋ぐ、想像力の実験であった。

嶋岡晨『詩とは何か』1998年(新潮選書)P.107-108

T・S・エリオット――詩集『荒地』(一九二二)によって、第一次大戦後の時代・社会の荒廃を文明批評の目をもって鋭くとらえ、知的方法意識によって厳しくうたいあげた詩人――そのエリオットが、昭和四十年(一九六五) 一月、亡くなったとき、西脇順三郎の自邸に八人の詩人が集まり、酒を酌み交わした――「詩とは情緒からの脱却なのだ」と言ったイギリスの大詩人をしのんで。

嶋岡晨『詩とは何か』1998年(新潮選書)P.136

肝心なところだけ拾えば、――詩の形式の二要素〈表象要素〉と〈聴覚要素〉のうち、後者を自分(朔太郎)は重視する。文学精神の両極を〈主観主義(音楽的)〉と〈客観主義(美術的)〉とするなら、詩精神の本質は前者に属するもの。詩と非詩の区別を「ポエジィ」の有無によるという春山説は、単純かつ曖昧である――というのが朔太郎の考え方だった。
「すべての抒情詩の本質は皆感傷である」と解し、「詩という文学の本質は、所詮するに『感情の直接法的表現』という定義に尽きる」と見る朔太郎に言わせれば、音律を無視し、〈表象観念〉を並べる「主知主義論者はヨタモノ」(「雑感」)であった。

嶋岡晨『詩とは何か』1998年(新潮選書)P.145-147

高村光太郎は、心平詩集『第百階級』に序文を寄せ、「詩人とは特権ではない。不可避である」「詩は断じてトウル デスプリでない。根源、それだけの事だ」と書いていた。〈才気の曲芸=トウル デスプリ〉の語は、暗に春山行夫らの傾向をさしている。

嶋岡晨『詩とは何か』1998年(新潮選書)P.161

いま一つの顔は、黒田三郎のものである。ジャワから引揚げてきた旧南洋興発社員・黒田三郎は、「詩人と権力」「民衆と詩人」「日本の詩に対するひとつの疑問」など、注目すべきエッセイを戦後つぎつぎに発表した。共通した基本的な主張のひとつは、詩も詩人も〈特権〉ではないということだ。「詩は、常に最も弱い者の味方であり、民衆の抑圧された暗い一面の代弁者である」(昭25「民衆と詩人」)という認識は、〈孤独病〉を誇った中原中也タイプの詩人たちの、みょうな特権者意識の否定にむかった。

嶋岡晨『詩とは何か』1998年(新潮選書)P.196

「Xへの献辞」の中で鮎川は、「(詩は)感情に知的裁可を与え、思想を情緒によって正当化する生きた統一体」だと述べていた。その〈知的裁可〉のより厳しい倫理的な実践は、やや遅れて(昭29~)『荒地詩集』に加わる吉本隆明によってなされる。

嶋岡晨『詩とは何か』1998年(新潮選書)P.198

天沢の場合、むしろ「現代詩の倫理――ジャーナリスティックな私論」(昭38)を問題にすべきか。このエッセイは、「ぼくらをめぐるすべては曖昧であり複雑である」と始まり、その「『すべて』に、奇蹟的な照明弾を走らせうる唯一のもの」が詩だ、という中心思考をもつ。

嶋岡晨『詩とは何か』1998年(新潮選書)P.253

詩はまさしく「『現実認識』とは全くずらされた角度から、攻撃的に、全体的に(現実と)関りあう」(「現代詩の倫理」)のである。
このような〈偽〈にせ〉夢語り〉とも称ばれる天沢退二郎の詩世界について、「新体詩以来の日本の詩の読者が初めて遭遇した世界であるといってよい」という評価もある。仕事の全体的評価の時期には、むろんまだまだ遠いはずだが、このような受けとめ方は、詩の革新、詩の変身の必然として許容されるだろう。詩は、つねにそれまで非詩(詩ではない)とされたものによって、その歴史を革める

嶋岡晨『詩とは何か』1998年(新潮選書)P.254

言語的「表現」は、私的心情の伝達手段にとどまらない、という意味で「詩は、表現ではない」と早くから入沢は言ってきた。私的心情の表現ではない――と言いなおせば、解りやすくなるか。

嶋岡晨『詩とは何か』1998年(新潮選書)P.272

詩は詩人の心情の(あるいは、魂の)直接的発露である」というような、 従来の詩観は、ことごとく全面的に否定し、入沢は、詩人と言葉の関係を問いつめ、詩作品における〈発話者〉と〈主人公〉と作者〈詩人〉とを厳しく区別したのである。
すなわち、詩作品が「言葉関係」の素材化・構成によって成りたつ《関係の関係》であるならば、「詩行為とは、詩人とこの《関係の関係》との関係」である、との結論に彼はたどりつく。
詩とは《語》を素材とする芸術ではなく、言葉関係自体を、いや言葉関係自体と作者(または読者)との関係そのものさえをも素材とする、といった体の芸術行為である」――ソシュールの構造言語学や作品そのものの自立(自律)を言うブランショの文学論の影響などもあったかもしれないが、ともあれ以後、このような入沢詩論をぬきに現代詩を考えることは、不可能になった。

嶋岡晨『詩とは何か』1998年(新潮選書)P.273

[宗左近による推薦文より]
メキシコのノーベル賞詩人オクタヴィオ・パスはいいました。「詩とはクニの記憶である」と。名言です。明治中期に西洋から輸入されて以来の一世紀の日本の近・現代詩、これもまた、当然日本人の心の「クニの記憶」です。 だが、それだけではない。そこに流れこんできた西洋人の心の「クニの記憶」を濃密に含むものです。それだけに、複雑で多元で煩瑣です。

嶋岡晨『詩とは何か』1998年(新潮選書)表4カバー

伊藤玄二郎・編『言葉は踊る』(2000年)

伊藤(玄二郎):小説に比べれば、詩の歴史ははるかに長いものがある。
荒川(洋治):詩のルーツはギリシア神話にありますから、その歴史は二千七百年以上でしょう。「ポエシース」、つまり「穀物を育てる」という意味の言葉が「ポエム」の語源です。詩は、たとえば、大雨や吹き荒れる風など自然の驚異に対する祈りといった、人間が生きるために本能的に発した言葉や、祭礼、神事などのなかから生まれてきました。詩は文学の起源と言えます

伊藤玄二郎・編『言葉は踊る』2000年(かまくら春秋社)P.9-10

荒川(洋治):(略)たとえば、山村暮鳥に「いちめんのなのはないちめんのなのはな」というフレーズの繰り返しでホントに一面に菜の花畑が広がっているようなイメージを喚起させる作品がありますが、詩のひとつの役割は、見えないもの、いままで意識されなかったものを、わたしたちの脳裏に映しだしてくれることにあるのです。
伊藤(玄二郎):端的にいえば、散文は情景や論理を追い、描写することによって読者をドラマの世界に誘うが、詩は、自由に言葉を飛翔させることで読者の意識に刺激を与え、それによって、たとえば、心地よさとかおかしみといったものを感じてもらえばいいということになりますか・・・・・・。
荒川:別の角度から異なる点を説明すれば、小説はモノとモノを分離させる文学であり、詩はヒトとヒトに出合いをもたらす文学といえます。もっと簡略に表現するならば、小説は「さようならの文学」で、詩は「こんにちはの文学」なんです(笑)。

伊藤玄二郎・編『言葉は踊る』2000年(かまくら春秋社)P.10-11

伊藤(玄二郎):想像力の欠如といった点では、現在の日本の詩の世界も同じような傾向にあるのではありませんか。つまり、本来、見えない世界を想像力によって構成するのが詩であるはずなのに、最近は、日常生活風というか、散文的、説明的な詩が増えているような気がします。

伊藤玄二郎・編『言葉は踊る』2000年(かまくら春秋社)P.30

伊藤(玄二郎):同じ質問に、ある作家は「詩とは、いわば氷山の、海面に姿をあらわしている頭の一部分をすくいとって表現するものである。一方、散文とはその根元まで書くものだ」と自説を展開しました。

伊藤玄二郎・編『言葉は踊る』2000年(かまくら春秋社)P.31-32

白石(かずこ):詩は言葉の美学ともいえますから。お料理に似ています。プロの料理人なら、おいしいお料理のために野菜や魚など素材はもちろんのこと、塩や胡椒など調味料もこだわりを持って選別するはずです。

伊藤玄二郎・編『言葉は踊る』2000年(かまくら春秋社)P.34

白石(かずこ):そもそも詩はだれのために書くかといった次元のものではありません。つまり、自分のためとか、だれかに読んでもらおうといった地点からスタートするのではなく、禅などの世界にも通じるのですが、空となったこころに、たとえば、心象風景として芽吹くものなのです。それが発展する段階を迎え、ひとりよがりの世界を離れて、自らが他のいのちと同様に宇宙のなかの個としてユニバーサルな存在に転化するとき、詩は共有できるものとなるのです。

伊藤玄二郎・編『言葉は踊る』2000年(かまくら春秋社)P.36

田村(隆一):詩とはまず、楽しむものです。音楽に耳を傾けるように、いい芝居を見るように、楽しむものです。そして、誤解が生じるかもしれませんが、詩は「音」です。いい絵に出合ったときのような精神的な興奮で読み手を満たす力、それが詩のパワーです。
伊藤(玄二郎):「音」といいますと?
田村:僕たちの心に残るのは「意味」ではない。意味だとすれば解釈が必要であり、さっき申し上げたようにあらゆる誤解が生まれてきます。しかし、音は誤解のしようがありません。

伊藤玄二郎・編『言葉は踊る』2000年(かまくら春秋社)P.64

野村喜和夫『二十一世紀ポエジー計画』(2001年)

なにしろ、谷川俊太郎の詩句を借りるなら、「どんなに頑張ったって、詩は新しくはならない/詩は歴史よりも古い」のだから。詩は老いている、十分に、十分すぎるほどに。それはみずからの同一性をめぐる言説や対抗言説の可能性のすべてを汲み尽くしてしまったようにみえる。

野村喜和夫『二十一世紀ポエジー計画』2001年(思潮社)P.27

詩はたえず清新なものを求めながら、同時にみずからの淵源をも探求せずにはいられぬものらしく、私もほどなく昭和初期の「詩と詩論」から明治の「新体詩抄」へ、さらに江戸から王朝へとさかのぼり、ある年齢のとき、詩もまた万葉以来の詩歌の流れの中に立っていることを感じた」と『俳諧辻詩集』のあとがきにもあるように。

野村喜和夫『二十一世紀ポエジー計画』2001年(思潮社)P.85-87

詩は黒い。――詩に色があるとしたら何色だろう。白石かずこの自伝『黒い羊の物語』(人文書院)と新詩集『現れるものたちをして』(書肆山田)を併せ読みながら、そんなことを考えた。詩は純粋な魂の住まう家だから白がふさわしい。いや、全く逆だ。詩は黒い、とひとまずは言えるのではないか。かつてランボーは、その「母音」という名高い詩を、黒い色の喚起から始めたし、ジュリア・クリステヴァは、詩に代表される芸術創造への欲動を「憂鬱の黒い太陽」と呼んだ。

野村喜和夫『二十一世紀ポエジー計画』2001年(思潮社)P.155

詩の短さについて――どうやらそんなテーマをあらためて設けなければならないようだ。言葉のエコノミー――圧縮と転移の力学――を定義とする以上、詩は短くあるほかはない。延々と続く西脇順三郎の後期作品や、最近の例でいえば五百行を超える吉増剛造のあの「石狩シーツ」も、印象としてはやはり短いのだ。

野村喜和夫『二十一世紀ポエジー計画』2001年(思潮社)P.159

詩とは畢竟、比喩の、メタファーの力であろうか。半ばそうだと認めたうえで、最後の最後にもう一冊、私と城戸朱理の共著『討議戦後詩――詩のルネッサンスへ』(思潮社)に触れることをお許しいただきたい。戦後詩をメタファーの特権や体験の共通性(戦争、政治)に基づく詩の歴史であるとするなら、同時に、全く同じその戦後詩を横断するようにして、別の詩の歴史があるのではないか、それが『討議戦後詩』での問題提起である。討議の出発点を、従来のように「荒地派」にではなく、吉岡実に置いたことがその象徴的なふるまいであるが、正否は読者の判断に委ねよう。

野村喜和夫『二十一世紀ポエジー計画』2001年(思潮社)P.161

余技としてのつまらなさを辻詩はのがれている。つぎに、文学史的な通例として、藤村以来、ひとは多く詩から小説へと移行し、しかもそれは不可逆的である。詩人が小説家になる。言い換えれば、詩はアドレッセンスの証明であり、言葉そのものに触れるその情動的な体験をくぐりぬけて、ひとはより冷静で分析的な散文精神へと辿り着く。ところが辻仁成の場合は、最初に小説を書き(実際はそのさらに以前に詩を書いていたらしいのだが)、ついで詩の世界に参入して、以後、ふたつの領域を自在に行き来しているかのようにみえる。

野村喜和夫『二十一世紀ポエジー計画』2001年(思潮社)P.253

辻征夫『ゴーシュの肖像』(2002年)

詩の話をする以上、まず詩とは何かということをはっきりさせておいた方がいいかもしれない。詩とは何か。簡単なことだから、簡単にかたづけておこう。
ここに一人の男がいる。もちろん女でもかまわないけれど、たまたま私が男だから、男ということにしておく。
この男が外に出る。もちろん出なくてもかまわない。書斎にいても、半坪に満たない洗面所にいてもかまわないのだが、一つの例として、外に出ることにする。場所は、自然のただなか、とでもしておこうか。山が見え、森があり、風が吹いている。風は男の背中から胸へ吹き抜けて行くようだ。このとき男が、思わず発する言葉、これが詩の〈始まり〉である。それは、単に、ああという音かもしれない。ああいいなああああという吐息のようなものかもしれない。

辻征夫『ゴーシュの肖像』2002年(書肆山田)P.16

入沢康夫『詩の構造についての覚え書』(2002年)

まして、「芸術の中に、現実のものの模倣や写しを見るという嘗ての考え・・・・・・幸いにして今日では捨ててかえり見られぬ考え(ブランショ 「文学空間」粟津則雄氏訳による)」にまで立ちもどって検討する必要はないと思われる。しかし、これほど基本的とみえる命題でさえ、詩が云々されるとき、時としてあいまいになっていることがあるのだ。それは詩が言葉で作られ、そして言葉は表現、伝達の具でもある、ということの結果にほかならない。「詩は表現ではない」ということを、今一度言い直せば「詩作品は、伝達の手段ではない」ということだが、ここでいささか補足をしておくと、《マッチ棒を耳かきとして使い、とがったつららを凶器として用いる》といった意味でなら(つまり部分の機能を意識的に誤用――あるいは活用すれば)伝達手段であり得る場合もあろうと言っておくべきかもしれぬ。けれども、一つ一つの詩作品そのものの本来の任務は、やはり伝達という点にはないと言わねばならない。

入沢康夫『詩の構造についての覚え書: ぼくの詩作品入門』(思潮社)P.11-12

さまざまなイマージュに満ちた作品や、巧みな比喩を用いた作品を、その故に詩ではないと言おうとしているのではない。詩がついに言葉で作られるものであり、そこでは最少限にもせよ文章法の約束が受け入れられるのである限り、時にイマージュがふくまれ、比喩が入ってきでも、それはあたりまえのことなのであって、その点をとらえて、詩の特色として正面に据えてみても、本質的な問題解明にはならないと思うのである。そして我田引水的に言えば、それもこれも、先に確認した《詩は表現ではない》ということ(「表現」という言葉があまりに広すぎ誤解を生みそうなので、よりさしさわりのない「再現」という言葉にとりかえてもよい)が、必ずしも十分に認められていない結果のような気がしてならないのだ。この混乱は、前回にも書いたように、《詩は、本来は伝達と再現のためのものである「言葉」を用いて構成される、非再現的芸術である》という、詩そのものの逆説的性格に由来しているのだろう。この逆説的性格に精神が堪ええない場合に混乱がはじまるのである。

入沢康夫『詩の構造についての覚え書: ぼくの詩作品入門』(思潮社)P.18-19

郷原宏『ふと口ずさみたくなる日本の名詩』(2002年)

詩は音楽です。言葉という音符によってつくられた音楽です。音数の定まった文語定型詩だけではありません。決まった形式をもたない口語自由詩にも、行分けのない散文詩にも、それぞれ固有のリズムがあり、メロディがあり、シンフォニィがあります。そうした言葉の音楽が、意味やイメージと一体になって、詩という甘美な、あるいは悲痛な言語空間をつくりあげているのです。

郷原宏『ふと口ずさみたくなる日本の名詩』2002年(PHP研究所)P.1

星野徹『詩とは何か  詩論の歴史』(2003年)

ワーズワース (Wordsworth 1770-1850)とコールリッジ (Coleridge 1772-1834) の共著の詩集『抒情民謡集 (Lyrical Ballads)」の序文をワーズワースが書いている。その中で、詩の定義として 〈詩とは力強い感情が自ずから溢れ流れ出たもの〉 (Poetry is the spontaneous overflow of powerful feelings) であると述べている。詩人の内部にはいわば泉のようなものがあって、それが溢れ出るのです。彼は詩人を泉 (fountain) に例えているわけです。すなわち詩人とは泉のようなものであり、詩とはその泉から溢れ出た清水のようなものだと言うのです。

星野徹『詩とは何か  詩論の歴史』2003年(思潮社)P.33-34

ところで、〈批評こそ文学の最高の形式である〉と言ったのはオスカー・ワイルド (Oscar Wilde 1854-1900) ですが、学者批評家でオクスフォード大学の詩学教授だったA・C・ブラッドリー (Bradley 1851-1935)も〈詩の本質は現実世界の写しではなく、それ自体で独立した、完全な、自立的な世界であるべきである〉と述べています。

星野徹『詩とは何か  詩論の歴史』2003年(思潮社)P.47

野村喜和夫『現代詩作マニュアル』(2005年)

詩とは言葉による世界の捉え直し、あるいは再構成である。そしてそれは驚きを、エロスをさえ伴う。私の貧しい読書体験から、そのような一般的命題を引き出すことができると思います。それを公理として、そこから出発しましょう。もっとも、人類に言語が発生して以来、世界それ自体が言葉で出来てもいるわけですから、詩とは、かつて萩原朔太郎が述べたように、「言葉以上の言葉」ということになるのかもしれません。あるいは、言語による言語の批判。これは、メキシコの大詩人オクタヴィオ・パスが、その浩瀚な詩論『弓と竪琴』のなかで述べていることですけれど。

野村喜和夫『現代詩作マニュアル 詩の森に踏み込むために』2005年(思潮社 詩の森文庫)P.83-84

城戸朱理・野村喜和夫『討議  詩の現在』(2005年)

(あとがき 城戸朱理)
逆説的な話ではあるが、このような状況は、逆に詩を「難解」なものにする。十九世紀なかばまで、詩は民族と言語に根ざした固有の形式を持っていた。その形式を捨てるところから始まったのが今日の自由詩であって、形式という保証がないだけに、それは必ず「詩とは何か」という問いを孕み、その回答として書かれるものになる。そうでなかったら、どこに詩と散文の境界を引くことができるというのか?

城戸朱理・野村喜和夫『討議  詩の現在』2005年(思潮社)P.379

吉本隆明『詩とはなにか』(2006年)

ここで辛うじていえることは、詩の場合には、ほんとのことはこころのなかにあるような気がし、批評文の場合にはある事実(現実の事実であれ、思想上の事実であれ)に伴ったこころにあるような気がすることである。だから、詩作が途絶えがちであった時期、わたしは内発的なこころよりも、事実に反応するこころから、ほんとのことを吐き出してきたということはできる。
詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである。こう答えれば、すくなくともわたしの詩の体験にとっては充分である。

吉本隆明『詩とはなにか 世界を凍らせる言葉』2006年(思潮社 詩の森文庫)P.12-13

発生期に叙事詩から叙情詩がわかれてゆく過程は、詩が、物語性を、いいかえれば何が語られうたわれているかを排除して、作者の、あるいは作者に憑いた超作者の自己表現性の断面によって分化されたものであることをおしえている。ヴァレリイが詩は節調ある言葉で、叫び、涙、愛撫、接吻、歎息などが暗々裡に表現しようとおもっているところを表現したり再現したりしようとする試みだ、とのべているところは、詩の本質を自己表現性としてみ、また、たえず詩の純化がその自己表現性をもとめておこなわれ、その断面で分化したことを指そうとしているようにみえる。まったくおなじように、ハイデッガーが詩とは神々並びに事物の本質に建設的に名を賦与することだと云っているのも、中村光夫が詩が本質が歌であり、歌は言葉以前の肉声または叫び声であるといっているのも、詩が意識の自己表現としての面で純化されるという性質に、詩の本性をもとめていることを意味している。

吉本隆明『詩とはなにか 世界を凍らせる言葉』2006年(思潮社 詩の森文庫)P.28

谷川俊太郎『詩を考える』(2006年)

*詩とはなにか
詩を書いている人間は、詩らしきものを書き続けることによって、永遠に「詩とはなにか」に答え続ける――とでも言うより仕方がない。が、読む側に立ってそれを考えることは、書く人間にとっても不可能ではない筈だ。
一介の読者として、詩というものをふり返ってみた場合、私が第一のよりどころとするのは、詩を読んで得た感動の記憶である。

谷川俊太郎『詩を考える 言葉が生まれる瞬間』2006年(思潮社 詩の森文庫)P.8

谷川俊太郎『詩ってなんだろう』(2007年)

詩をよむと、こころがひろがる。詩をこえにだすと、からだがよろこぶ。うみやま、ゆうやけやほしぞら、詩はいいけしきのように、わたしたちにいきるちからをあたえてくれる。ふしぎなもの。詩ってなんだろう、というといかけにこたえたひとは、せかいじゅうにまだひとりもいない

谷川俊太郎『詩ってなんだろう』2007年(ちくま文庫)P.171-172

「詩ってなんですか?」という質問をよく受けます、子どもからも、大人からも。いつも私は困ってしまいます。詩とは何かという問いには、詩そのもので答えるしかないと思うからです。

谷川俊太郎『詩ってなんだろう』2007年(ちくま文庫)P.173

中村不二夫・川中子義勝 編『詩学入門』(2008年)

新延(拳)(略)いずれにせよ、言葉は何かを言うための手段ですが、言いたいこと、伝えたいことを、そのまま表して相手に伝えようとすることが散文であるとしたら、詩は日常の言語から異化したものでなくてはならない。詩人とは日常の言葉をいかにして異化するかということでしのぎを削っている人種だとしますと、普段使っている言葉と違う手ざわり、肌ざわり、散文の論理では使えない何かを読み手に直接もたらすというのが詩の営みなのだと思います。

中村不二夫・川中子義勝 編『詩学入門』2008年(土曜美術出版販売)P.280-281

小林(康夫):(略)ひょっとしたら詩が成立するためには、僕の話の最初の所に戻れば、「私の語る言葉の中に私じゃないものが語っているかもしれない。それを私は分からないかもしれない」という話をしているわけですよね。ですから極端に言えば、「私にすら私の言っていることがよく分からない。私が分かんないのにどうして他の奴が分かるのか」みたいなことになるわけですけれど、その条件がなければ、おそらく詩なんてものは成立しないのじゃないかと思いますね。

中村不二夫・川中子義勝 編『詩学入門』2008年(土曜美術出版販売)P.324

小林(康夫)(略)もちろん自分の存在の奥深いところに繋がっていくし、その奥深いところは、ひょっとしたら自分の体全体を織りなす(心臓もなにも全部波打ってるわけですからそういう複雑な振動体としてある身体の)組織ということもありましょうけど、もっと深いところにそれを越えて震動しているわけですよね。心が振動しているっていう。それはいったいどこに行くかというと、結局自分という存在の一番奥深いところに振動がおりていくということは分かる。たぶん「詩」はそういう、言葉というものを通じて、言葉をそういう風に振動させることで自分の体も振動させるということを密かに企んでいるように思えますね。

中村不二夫・川中子義勝 編『詩学入門』2008年(土曜美術出版販売)P.345

西岡(光秋)(略)詩のおもしろさって、一体、何だろう、詩とは何だろうかを考えてみたことがあります。詩とは想像力を「異界」に遊ばせる文学であるということ。人間の心象を異なった世界、また現世とは異なった世界という意味合いだけれども、詩はこの現実という場を離れて、しかも現実をすべて捨て切っていない「異界」に心象、つまりイメージを投入する文学ですね。いろんな言葉を駆使して、イメージの種を撒く。そのことによって日常の垢を詩が洗い去ってくれる。その楽しさを伝えてくれる。詩の醍醐味も味わわせてくれる。この「異界」における想像力の増殖は論理による分析を拒む。いうなれば、詩は論理によって解釈するものでないということですね。

中村不二夫・川中子義勝 編『詩学入門』2008年(土曜美術出版販売)P.350-351


吉本隆明『詩の力』(2009年)

小説作品が着飾った盛衣装だとすれば、詩は身体の骨格であり、その身体にやや古風な伝統的な衣装をじかに身につけたのが古典詩の世界だと言うべきかもしれない。

吉本隆明『詩の力』2009年(新潮文庫)P.7

小池昌代・林浩平・吉田文憲『やさしい現代詩』(2009年)

詩は驚きであり、発見である。これはそういう言い方をしてもいいだろう。その人だけが見ている目、その人だけが感じているもの、そういう「世界」との出会いの個別の感受性の驚きや発見がすぐれた詩には必ずある。

小池昌代・林浩平・吉田文憲 編著『やさしい現代詩』2009年(三省堂)P.2

詩はこのように未知のものへの呼びかけでもある。ここに収録した詩にはそのような未知の声があることを信じて、私たちはこれらの作品を選択した。

小池昌代・林浩平・吉田文憲 編著『やさしい現代詩』2009年(三省堂)P.3

三田洋『ポエジーその至福の舞』(2009年)

詩は想像力の産物である。想像力は私たちに翼を与え作品に奥行きを与え魅力を深める。夢と想像力は宮沢賢治の童話のように相互に解放しあいながら作品の魅力をつくる。

三田洋『ポエジーその至福の舞』2009年(土曜美術社出版販売)P.84

詩は感動である、と萩原朔太郎は書いた。またその詩論からも感情を最重視していることがうかがえる。こうした朔太郎の詩論を待つまでもなく、詩はつきつめれば感性であるということができる。優れた技術も深い認識も、鋭く豊かな感性が介在しなければ詩の魅力的な世界を形成できない。

三田洋『ポエジーその至福の舞』2009年(土曜美術社出版販売)P.106

詩と音楽との遭遇がこのように感動をよぶのはなぜなのだろう。それぞれの起源を探ってみると、何かが見えてくるかもしれない。詩の起源とされる抒情詩は古代ギリシアの lyric からきていて、リラ(小竪琴)にあわせて歌われた詩から始まったといわれている。もともと詩は歌(音楽)であったのだ。

三田洋『ポエジーその至福の舞』2009年(土曜美術社出版販売)P.198

詩の抒情は単なる主観的情緒の表現から思想、認識をも包容する広大な裾野をもつ。秋谷氏の主張するように詩の魅力は抒情であり詩の本質は抒情である。わたしは抒情を追究しながら、その確信をますます強めている。

三田洋『ポエジーその至福の舞』2009年(土曜美術社出版販売)P.273-274

メンドーヨ氏は講演の中で詩による雨乞いの実例をこう紹介した。詩はエネルギーであり、それは人類の、文学の財宝である。モンゴルでは詩の力で自然の力を揺り動かすという場面によく遭遇するという。例えば十九世紀末、モンゴルの砂漠が数年間に亘る旱魃に見舞われたことがある。その際、砂漠に住むある詩人が詩を書き、その地の霊峰に人々と集まり、詩を空に向かって朗読し雨乞いを続けた。暫くすると快晴の空に俄かに雲が沸きたち、雨が降り始めたという。

三田洋『ポエジーその至福の舞』2009年(土曜美術社出版販売)P.278

谷川俊太郎・和合亮一『にほんごの話』(2010年)

谷川:僕は詩にはメッセージはないという立場です。日本語を、いい職人が作った美しい細工のように、ある存在としてそこに置けるのが詩だと思っているんです。だから、まず美なんです、真・善よりも。美しい細工のように、言語を「存在」にしたいんです。なかなかそうはいかないんだけど、理想を言えば、詩を素晴らしい細工の小箱のようにそこに置いてみたい。

谷川俊太郎・和合亮一『にほんごの話』2010年(青土社)P.168

山田兼士『詩の現在を読む 2007-2009』(2010年)

「詩はことばであり」に始まる批評的散文詩(「詩論詩」と呼びたくなるところだが)の途中から引用する。

  詩は美ではない。美の崩落現場に身を起すものであり、その上に流れ行くものだろう。詩の生成する舞台では、常に金閣寺は炎上し、王宮は破裂する。

詩は美であるとする古典的通俗的定義から遠く離れ、北川詩学は「美の崩落現場」に現れ流れるものこそを「詩」と呼ぶ。北川詩学にとって「詩」とはまず「自由」であるからだ。
どんなに精巧で堅固な論理や、倒錯した悲恋物語を仮装しても、詩は論理や物語をめざさない。体系を粉々にし、系譜を唾棄し、遺伝子をドブに捨てる。そのことで、いかなる神学や美学、イデオロギーの支配をも、被支配をも受け入れない、調子の低い、一人ぼっちの、自由なダバダバダである。オーイ、駄馬よ。どこまで行くんか。

山田兼士『詩の現在を読む 2007-2009』2010年(澪標)P.110

『田村隆一全集』(2010-2011年)

(高橋源一郎-解説エッセイ)
いや。まいった。これは「いい詩」とか「すごい詩」とかいうカテゴリーに入らないだろう。けれど、詩であることには間違いない。小説家は、こんないい加減な書き方はしない。あまりにもアバウトすぎる。「滑川」はどこへ行った? 鎌倉の歴史は? そんなものは、どうでもいい。目の前に浮かぶすべて、景色であれ、歴史であれ、はたまたパンティやブラジャーであれ、それが、詩人の手にかかると、改行され、かきまぜられ、遙か遠くから眺められ、歌われ、要するに、「詩の形」になる。世界は、きわめて豊かで、同時に、いつも死にかけている。その、絶対に否定できない事実を、ある律動で記述する。それが「詩」である、と田村隆一はいうのである。あるいは、(ある時期以降の)田村隆一の手にかかると、世界は、どうあがいても「詩」になってしまう。そのような存在のことを、我々は「詩人」と呼び習わしてきたのかもしれないのだが。

『田村隆一全集』2010年(河出書房新社)第3巻 P.499

二十年前には詩人のなりそこねがコピー・ライターだったが、今はコピー・ライターになりそこねたのが詩人だということになっている。たしかに今の詩の一行とコピーの一行を比べてもどちらに詩があるか形からはほとんど区別がつかない。
しかし、詩はあくまで「私」にむかっていく。私のなかに「私」を探しにいく道程が詩ではないだろうか。「私」にいたり「私」を感動させればそこにおのずと普遍性が生れるのだ。したがって詩にとってまず問題は「私とは何か」からはじまる。そうしないと「われわれとは何か」「人間とは何か」は出てこないのである。けっきょく詩を書くということは私のなかに人間を探しにいくということだろう。

『田村隆一全集』2010年(河出書房新社)第5巻 P.522-523

言葉とは不思議な生き物だ。とくに、「詩」と出会ったとき、あるいは街頭や路地裏ですれちがった瞬間、散文では経験できない光を感受する。
どんなにすぐれた散文でも、意味の航跡をたどらなければ、ぼくらは、ぼくの「世界」から一歩も踏み出せないし、同時に、その「世界」を深めることはできない。
ところが、「詩」は光そのものだ。言語だけでできている城壁のくせに、石や鉄のそれよりも強靭で柔軟性に富んでいる。だから、詩の周囲には、どんな雑音のなかでさえ、豊饒な沈黙がある

『田村隆一全集』2011年(河出書房新社)第6巻 P.57

中原道夫『現代詩、されど詩の心を』(2010年)

エリオットは、「創造における批評精神は、詩においては思想の性質を動かすのではなく情緒の性質を変するのだ」と言っているが、ぼくのこの詩的衝動は、ぼくが雪山の美しさに感動した「抒情」とどこが違うのだろう。暗さ、明るさ、哀しさ、喜び、怒り、情緒にはさまざまなものがあるだろう。しかし、詩が感動から生まれるものでなくてなんであろう。観念の鎧に身を固め、一人よがりの詩を書く詩人に読み手は心を動かすはずはない。読み手があって、はじめて書き手の詩は完結するのである。それが現代詩の「現代」の意味であり、現代詩復活への道である。

中原道夫『現代詩、されど詩の心を』2010年(土曜美術出版販売)P.37

ちなみに「広辞苑』によれば「風景・人事など一切の事物について起こった感興や想像などを一種のリズムをもつ形式によって叙述したもの」とある。
「詩とは何か」については、多くの詩人が語っているが、俳句・短歌などと異なって形式的規律を持たない現代詩においては、自分が詩を書いたり読んだりした経験を答えている。ようするに、それが「夢」であったり、「批評」であったり、「抒情」であったり、「社会」であったりするが、それは詩を展開させるための方法論にすぎない。

中原道夫『現代詩、されど詩の心を』2010年(土曜美術出版販売)P.41

グウィッチン族の言葉で歌われる意味は分からなかったが、感動は充分に伝わってきた。あれは正しく詩であった。生きる喜び、悲しみ、それを歌うことが詩でなくてなんであろう
詩の原点、それは感動以外のなにものでもない。

中原道夫『現代詩、されど詩の心を』2010年(土曜美術出版販売)P.43

アリストテレスは詩の発生について、二つの原因があり、その一つは「人間は最も模倣的な動物であって、人間の最初の知識は模倣を通してなされる所にあり」もう一つは「人間すべてが、模倣された物に悦びを感ずるというところにある」と言っている。「模倣」というのは感動の再現であり、「模倣された物に悦びを感ずる」ということは、感動の再現である「詩作品」に触れる喜びである。ということは、演劇が観客なしでは舞台が成立しないのと同じように、詩もまた読み手である詩の享受者なしでは存在しないということである。

中原道夫『現代詩、されど詩の心を』2010年(土曜美術出版販売)P.45

J.L.ボルヘス『詩という仕事について』(2011年)

講義の始めに、定義についてお話をしました。それを締めくくるに際してやはり申し上げたいのですが、われわれが非常によくおちいる誤りは、ある事柄を定義できないのだから、それについては無知である、と思い込むことです。ただ今チェスタートン風の気分であれば(これは、結構この上ない気分だと思いますが)、われわれは何かについて何も知らないときにのみ、その何かを定義し得ると、むしろ言いたいわけです。
例えば、詩を定義しなければならないが、何となくあやふやで、自信がもてない合、私はこんな風な言いかたをするでしょう。「詩は、巧みに織りなされた言葉を媒体とする、美なるものの表現である」。この種の定義は、辞典や教科書には十分かもしれませんが、われわれ皆にとっては、やや説得力に乏しい感じがします。つまり、もっと大事な何かがあるはずです。その何かに励まされて、われわれは詩を書くことを試みるだけでなく、詩を享受し、詩のことなら何でも心得ているという気にもなるのです。
これこそ、詩とは何であるかを、われわれが心得ているということです。非常によく心得ているがために、かえって他の言葉で定義できない。

J.L.ボルヘス『詩という仕事について』(鼓直・訳)2011年(岩波文庫)P.30

中村不二夫『詩の音』(2011年)

今から二十数年前、私がはじめて現代詩というものを意識したとき、田村隆一の次のような詩があった。この出会いは、その後、詩の発想を考える上での、重要な意味を持つ契機ともなった。

 いかなる条件
 いかなる時と場合といえども
 詩は手段とはならぬ
 君 間違えるな
(田村隆一「西武園所感」より)

詩を手段としてはならないという言葉の響きが、とても印象に残った。

中村不二夫『詩の音』2011年(土曜美術出版販売)P.212

宮田小夜子『詩とは何か』(2011年)

「詩とは何か」、萩原朔太郎は「詩はイデアとしてのリズムつまり旋律である」と言い、鮎川信夫は「詩は思考である」と言っているが、現代詩(そもそもこの呼び方も曖昧だ)は詩人によるさまざまな把え方を容認して来た。 多くの詩人は自己流の物差しで詩を読み書いている。詩を書くための「詩」の定義など必要でないし、無意味である。けれどおよそ「詩」なるものに憑かれた者はこの無意味な問いの前で立往生させられた経験は一度ならずあるはずである。「詩とは何か」を問うことは自らが自らに発する自己批判でもあるからである。

宮田小夜子『詩とは何か』2011年(編集工房ノア)P.6

現在「現代詩」は多種多様、形式内容共に乱立混線状態にある。「心に響く詩を」と言いつつ、それもまた混迷の域にある。しかしその一方で、本当の詩が人の心に響かないはずはないと頑に信じてもいるのである。
さて、詩とは何? つまり、その本質は「抒情と批評にある」と言うのが私の結論である。それでは「批評」とは何か。その要素を詩に限って言えば次のような項目になる。
(1)自己批評(自他の認識) (2)思考的論理的な社会性 (3)排除、否定、拒絶 (4)外側とのギャップ(日常との抗い) (5)イロニー、異化、倒錯
詩の魅力は逆説を生きることであり、純粋な言葉への感動ではなく、言葉の持つ純粋な美への感動である。

宮田小夜子『詩とは何か』2011年(編集工房ノア)P.7

「詩とは何か」半世紀余り、詩を読んだり、みたいなものを書いたりもしたが、未だよく分からない。「わからないものの豊かさ」という言葉を、故石垣りんさんから直接聞いたこともあったが、「詩とは何か」とはそのようなもの(豊かさ)を求めての、永遠の問いかけであって、私の個人的な試考にすぎないが、詩に出会う入口になれば幸いである。

宮田小夜子『詩とは何か』2011年(編集工房ノア)P.274-275

『パウル・ツェラン詩文集』(2012年)

というのも、詩は無時間のものではないからです。詩はたしかに永遠性を必要とします、しかし、詩はその永遠性に時間を通り抜けて達しようとします。時間を通り抜けてであって、時をとびこえてではありません。
詩は言葉の一形態であり、その本質上対話的なものである以上、いつの日にかはどこかの岸辺に――おそらくは心の岸辺に――流れつくという(かならずしもいつも期待にみちてはいない)信念の下に投げこまれる投壜通信のようなものかもしれません。詩は、このような意味でも、途上にあるものです――何かをめざすものです。

『パウル・ツェラン詩文集』(飯吉光夫 編・訳)2012年(白水社)P.102

詩――それは息のめぐらしを意味するものであるかもしれません。詩はもしかするとその道のりを――芸術〈クンスト〉の道のりでもある道のりを――このような息のめぐらしのために進むのではないでしょうか?

『パウル・ツェラン詩文集』(飯吉光夫 編・訳)2012年(白水社)P.119

たしかに詩は――今日の詩は――決してないがしろにできない語彙選択の困難さ、統辞法〈シンタックス〉のますます急になる勾配、さらには省略法へのますますめざましい感覚とどうしても直接の関係をもってしまうと思われるのですが――詩は、まぎれようもなく、沈黙へのつよい傾斜をしめしています

『パウル・ツェラン詩文集』(飯吉光夫 編・訳)2012年(白水社)P.122

詩〈ポエジー〉はもはやみずからを押しつけようとするものではなく、みずからを曝そうとするものである。

『パウル・ツェラン詩文集』(飯吉光夫 編・訳)2012年(白水社)P.172

佐古祐二『抒情の岸辺』(2012年)

詩は、直接には政治を変えることはできない。しかし、一人ひとりの奥深いところの「風景」を変えることはできる

佐古祐二『抒情の岸辺  詩を愛する人たちへ』2012年(竹林館)P.199-200

『松尾真由美詩集』(2012年)

想像的なるもの、私は詩をこう呼びたくなるのだが、実際には詩を定義することはむずかしい。詩人はそれぞれに記憶があり、感情があり、五感があり、習慣があることで各々に差異があり、その上で詩作があるのだから詩は一括りに語れるほど単純なものではない。だが、心象や生存を言葉に密着しながら組織立て、現実から己を解放するのはまさに詩の大らかで晴れやかな所作であって、そこには開示の経験がある。新しさの体験がある。詩人はそれを発見と名づけるだろう。

『松尾真由美詩集』2012年(思潮社現代詩文庫)P.120

長田弘『なつかしい時間』(2013年)

詩というのは、人間のもつもっとも古い言葉のかたちですが、つねに世界の「風景」を見つめる言葉として、そう言ってよければ、なによりデジタル的な言葉でありつづけてきた言葉です。

長田弘『なつかしい時間』2013年(岩波新書)P.180

菅野覚明『吉本隆明―詩人の叡智』(2013年)

ごく一般的な通念においては、詩は、「巧みなレトリックをつくり出すとか、ある時間、ある場所におけるある感覚をどんなにピタリと表現できたかというような、「芸」の特殊な追及とかんがえられている」(「現代詩の発展のために』5-370)。

菅野覚明『吉本隆明―詩人の叡智』2013年(講談社)P.200-201

詩が内部世界の表現であるというのは、現実像として受感されている現実体験を、「反すうしたり、それを理論的にかんがえてみたり、感情的にあたためたりしたところを表現する」(5-366)ことを意味している。「芸」としての詩においては、しかし、現実がこれこれこのように受感されてあること自体、つまり、内部風景がそれとしてあること自体が疑われたり批判されたりすることはない。

菅野覚明『吉本隆明―詩人の叡智』2013年(講談社)P.201

『蜂飼耳詩集』(2013年)

詩は、それまでにないものの見方を示す方法の一つにほかならない。言葉が言葉を照らし出し、それによってさらに別の言葉に光が当たり、一編の全体図へ向かって力に似たものを集めていく。見慣れたものも、見知らぬものになっていく。一編の詩が生まれる途中の、計画性はないにもかかわらず、言葉を必然的に引っぱっていく力、動き、それが詩だろう
(略)
現代の詩が事あるごとに対面する疑念の一つは、意味だ。その行は、その言葉は、その詩はどういう意味なのか、と。言葉は、意味を担う運命を託されているから、単純に無意味のふりをすることはできない。結局は、無意味も意味に取り巻かれ、見張られている。その結果は詩の歴史のなかにも投げ出されている。
意味らしきものを一編の詩から引き出すことはできる、ということは事実だ。けれど、意味やテーマやモチーフという角度から説明したとしても、それでその一編を語ったことにはならない。なぜなら、詩は言葉そのものが持つ音の性格と常に一つのものであり、この点を含めることで、単なる意味以上の出来事を引き起こしているものだからだ。言葉をたどっていって、その先に見えてくる、意味以上の出来事。そこにある言葉を総合したところ以上の事柄。鍵はそこにある。

『蜂飼耳詩集』2013年(思潮社現代詩文庫)P.124-125

言葉で書かれるものである以上は、詩は常に音で出来ている。音が抜ける部分、つまり休止・休音の部分も含めて、音の構造物なのだ。音と同時進行のかたちで立ち現れてくるものは意味だが、このとき、伝わらないことをおそれて説明に終始するような角度の衣を着せるなら、一編の詩としては、もっとも残念な結果を呼び寄せる。詩は、説明ではない。単なる行分け散文の鈍さからは離れたところにしか詩は成り立たない。
だが、音だけの構築物を目指すことができるかといえば、仮に近いものができるとしても、面白味の薄い次元で終わってしまうだろう。試作の熱の高さとは裏腹に、そうしたものには、退屈な靄がかかっている。言葉は、音に運ばれる。これはもちろん、身体的に音を発するか否かの問題ではなく、それ以前の、言語の根源的な性質のことだ。音と意味が、運ばれていく。ある一編が詩であるならば、その始発の点で、すでに何か起きているものだ。始発の点というのは、最初の一行のことではない。最初の一行も含めてではあるけれど、その一編を構成するすべての語の始発の点、ということだ。

『蜂飼耳詩集』2013年(思潮社現代詩文庫)P.127

対し、文学の言葉は、その一点にしばし留まるという力によって、生そのものだ。文学の言葉のなかでも、とくに詩にその力があるのは、なぜか。それは、詩は、音の要素と切り離せないことで、心拍や呼吸や血流と深く結びつく次元で動くものであり、生の根源に絶えず、絶えまなく、触れていくものだからだ。詩は、生きているもののなかを通過するそのとき、生をいっそう濃くする。詩の生も、受け手の生も、そのとき、ぐっと濃度を高める。詩を読んだり書いたりするということは、言葉によってもたらされるこうした眺めに、立ち会いつづける、ということだ。
(略)ただそこにあるもの、ただそこに起こることとして、詩があればよい詩は、感覚を表すだけのものではなく、時代や思想や日々の暮らしだけを表すものでもない。つまりはそのいずれでもあり、いずれでもなく、それらすべての総合体として、脈打ちながら、すべての生のあいだに存在するものだ。その距離であり、限定のない反映、限界のない反射だ。そうでなくて、他のなんだというのだろう

『蜂飼耳詩集』2013年(思潮社現代詩文庫)P.131

言葉で表された内容は、どんなものであっても、内容だけでは語れない。それは常に、方法と一体のものだ。つまり「なにを」は「いかに」と一体で、決して切り離すことはできない(いうまでもないけれど、翻訳の困難も結局はそこから生じる)。「なにを」と「いかに」の同時進行によって生み出される言葉の世界、うねりと全体図。これが詩の核心部分であり、詩の秘密だと考える。神話はこの点を、容易にはたどれないほど深いところから示す。言葉そのものによって、言葉の歓びと苦しみを示す。
(略)「なにを」と「いかに」のあいだには、幸せな一致よりもむしろ、せめぎ合いがある。このせめぎ合い、この相克に、詩があるこの相克こそが詩なのだ、とさえいえる。言語によって、あるいは時代、国や地域によって、どのような詩がより濃い流れを描くかは異なる。そこには幅があり、差異がある。けれど、「なにを」と「いかに」の相克が詩を貫くことに、変わりはない。詩の秘密は、簡素なすがたをしている。

『蜂飼耳詩集』2013年(思潮社現代詩文庫)P.133-134

詩は、順応的な精神とは反対側に立つ。政治、経済、法律などの社会の規則や決まり事の隙間から落ちるもの、外れるもの、それでも人にとって大事なものを拾い上げてかたちにしていく。それが詩、詩の在り方なのだ。

『蜂飼耳詩集』2013年(思潮社現代詩文庫)P.139

松浦寿輝『詩の波  詩の岸辺』(2013年)

役に立つ、立たないということとは別に、人間に喜びをもたらす、あるいは悲しみや怒り、複雑な感情をかき立てるための言葉というものがあります。意味を伝達するだけではなく、言葉が人間の鑑賞に堪え得る、ある「美しい形態」をとってそこに存在し、紙の上に、記憶の中に、心のひだの間にとどまり続けるということがあるわけです。繰り返し眺めたり、読んだり、口ずさんだりすることで、そのときの年齢に応じて読者の心にさまざまなエモーションをかき立てる。そういった言葉こそが詩なのだと思います

松浦寿輝『詩の波  詩の岸辺』2013年(五柳書院)P.46

この学校の卒業生に、プロサッカー選手の中村俊輔さんがいらっしゃるそうですね。たとえばサッカーのオーバーヘッドキックというやつ。あれはすごい技でしょう。空中にあるボールを自分の頭上を越えて後方へ蹴るものですが、ボールが正確に計算しつくされた軌跡を描いて、キーパーの手の届かないゴールの隅にスパッと決まる。球の軌道と人間の身体の軌道が、ある一瞬で合致し交叉する。その瞬間、これ以外にないという方向と速度でボールが蹴り出される。そういうファインプレーが決まった瞬間、「お、なんてかっこいいんだろう」とわたしたちはため息をつくわけですが、詩という言葉の芸術もある意味でそれと似たようなものなんです。美しい言葉のかたちがぴたっと決まる。と、その瞬間、言葉は詩となる。詩が生まれるのです。

松浦寿輝『詩の波  詩の岸辺』2013年(五柳書院)P.64-65

大まかな括りで言えば、「古典の空間」とは内部の詩が咲きる場所のことであり、「現代詩の冒険」が繰り広げられるのは外部の詩が吹きすさぶ荒野のことだととりあえず定義できるかもしれない。が、しかし事態はそれほど単純ではない。実のところ、こうした内部/外部の対立自体、観念的な二分法にすぎず、内部と外部、火と風は、一人の詩人の中で矛盾しつつ共存しているのだろう。内部へ引き絞られてゆく力と外部へ逃れ出てゆく力と、その両者に絶えず引き裂かれながら産み落とされてゆくものが真正の詩なのだろう

松浦寿輝『詩の波  詩の岸辺』2013年(五柳書院)P.266-267

阿部公彦『詩的思考のめざめ』(2014年)

名づけは詩のもっとも基本的な機能です。何かの存在をみとめ、その対象が気になってしまうこと。それに名前をつける必要があると思うこと。実際に名前をつけるかどうかよりも、名づけの必要を感じること自体に詩のエッセンスがあるのです。

阿部公彦『詩的思考のめざめ  心と言葉にほんとうは起きていること』2014年(東京大学出版会)P.10

ここで私はいよいよ大事なことを言おうと思います。みなさんからは反論が出るかもしれませんが、私はまったくまじめです。実は詩は、このような退屈で死んだ言葉に非常に近いところにあるのです。近接していると言ってもいいし、際〈きわ〉にあると言ってもいい。
というのも、詩のもっとも大事な機能の一つに、儀式になろうとする衝動があるからです。詩とは生きているぐにゃぐにゃしたリアルなものに、形を与えようとする衝動だからです。

阿部公彦『詩的思考のめざめ  心と言葉にほんとうは起きていること』2014年(東京大学出版会)P.37

聞こえてくる、という感覚が詩では大事になると私は言いました。それはなぜかというと、言葉を意味のあるものとして、つまり自分の必要に直結した意味のあるものとして耳にするのとは違う聞き方のモードがあるからです。生の現実中の言葉の、その新鮮さやきらびやかさや唐突さに衝撃を受けつつも、同時に、そのような文脈や状況から言葉の威力を丸ごと引っこ抜いてしまいたい。そのようなとき、私たちは言葉を聞くのではない。言葉が聞こえてくるのです。

阿部公彦『詩的思考のめざめ  心と言葉にほんとうは起きていること』2014年(東京大学出版会)P.37-38

川田靖子『詩とは何か』(2014年)

ヴァレリーは言った。「散文は歩行であり、詩は舞踏である。」(『ヴァリエテ』)

川田靖子『詩とは何か  手法とポエジー』2014年(青土社)P.15

まず、詩情がなくてはならない。
すると詩情とは何か?に再び戻ってしまうが、ここでは深追いしないことにする。あまりに諸説紛々だからである。詩人によって、懐かしさ、ほのかなるもの、ヴァージニア・ウルフの言うように「蜘蛛の糸より細いが、二頭の馬で引っ張っても切れることのない強靭な何か」であったりする。

川田靖子『詩とは何か  手法とポエジー』2014年(青土社)P.46

歌がなくてはならない。
中原中也の詩に、私たちが打たれるのは、そこに、うたがごく自然に感じられるからではなかろうか。なぜかは分からないが、現代詩にはあまり見られないうたがそこに流れているからではなかろうか。「少し古めかしい」と思う読み手もいるかも知れないが、中也の詩から、読者が受ける心地よさは、やはりうたであろう。

川田靖子『詩とは何か  手法とポエジー』2014年(青土社)P.47

作品としてまとまりのある美がなくてはならない。
→そこでまた美とは何か?に戻る(美辞麗句に限らないが、ある美しさががなくては駄目)。

川田靖子『詩とは何か  手法とポエジー』2014年(青土社)P.49

調べがなくてはならない(歌←訴えの説もある)。(折口信夫『言語情調論』)
伝えたいことが切実になると、リズムが生じる。ただしリズムは拍子とは限らず、内的な躍動とでも言うべきものかもしれない。あからさまな拍子は、時として下品になる(例えば、お囃子や、掛け声の類)。

川田靖子『詩とは何か  手法とポエジー』2014年(青土社)P.49

どこかで、レアリズム(時空)を跳び越えなくてはならない。
目に見えない世界さえ書けなくてはならない(夢、幻も、非現実も)。

川田靖子『詩とは何か  手法とポエジー』2014年(青土社)P.50

井坂洋子『詩はあなたの隣にいる』(2015年)

詩の定義は詩人の数だけある。
『詩の原理』を著した、現代詩の祖でもある萩原朔太郎の“詩はことばの音楽である”を皮切りに、日本を代表する詩人によって多くの定義は書かれてきた。そうたくさんは知らないのだが、中には私の原点のようなことばもある。たとえば“詩は感情が母胎である"という山本太郎のことばや、これは定義というよりも、詩の書き方だが、永瀬清子の「普段着のごとく書けよ/流れるごとく書けよ」などだ。なるほどそうかと素通りするのでなく、折に触れて思いだす、私に必要なことばになっている。

井坂洋子『詩はあなたの隣にいる』2015年(筑摩書房)P.10-11

かつて田村隆一は詩とは何かという質問に、“目の前の大木を指差すこと"という答え方をした。また、現代美術家のマルセル・デュシャンは便器を展示した。それが彼のゲイジュツ観であり、詩だったからだろう。しかし、木にしろ便器にしろ、いまは誰も詩人の人差し指の方向を見ようなどとしない。

井坂洋子『詩はあなたの隣にいる』2015年(筑摩書房)P.232

北川朱実『三度のめしより』(2015年)

詩が人間をなまくらにするというよりも、人間をなまくらにする要素が詩に含まれている。詩を始めたばっかりに、悪者にもなりきれないで中途半端なぐずぐずな生活を送ったものが僕の周囲にも二人や三人ではない」と金子光晴は言ったが、”詩を始めたばっかりに”という言葉は、朗々と詩を語るかのような紙芝居屋や、朔太郎のためにあるのかもしれない。

北川朱実『三度のめしより』2015年(思潮社)P.233

山田兼士『詩と詩論  二〇一〇-二〇一五』(2016年)

最もよく知られたヴァレリーでさえ、ここでは詩人としてより言語学者として論じられている。「若きパルク」や「魅惑」といった名詩の作者としてよりも、没後発見された膨大な量の「カイエ」(フランス語でノートのこと)の書き手としてのヴァレリーが俎上にのせられるのである。そのほんの一端を覗いておこう。

  (・・・・・・)この滞在、この「言語行為の不消化」が、ヴァレリーの言う詩の「再生の形式」の起源――おそらく、そこには言語と非言語の境界や転換の問題も含まれてくるだろう――である可能性は、全くないわけではないと思われる。そのために、『カイエ』を読み直してみること。ただし、もしこの思い付きが成立したらしたで、そこには別のアポリアが発生してしまう。実際、それは「詩とは言語の誤用である」と言うことにほかならないから。

山田兼士『詩と詩論  二〇一〇-二〇一五』2016年(澪標)P.15

河津聖恵『闇より黒い光のうたを』(2018年)

詩には、人知れず被った暴力によって傷ついた者たちの呻きがひそむ。私たちが聞き届けよう身を乗り出す時、闇から光へ、あるいは闇からさらに深い闇へと身をよじる獣たちがいる。かれらは私たちに応え、私たちを呼ぶ。傷を負ったまま天を見上げ、声なき声で、蘇った鋭い痛みに呻きうたおうと、身じろぐのだ。そこに一瞬輝くのは、この世で唯一天を見上げる獣である人間の原形としての、痛々しい輪郭である。

河津聖恵『闇より黒い光のうたを  十五人の詩獣たち』2018年(藤原書店)P.10-11

そもそも詩には、共同性やつながりという、太古から人間がもとめてきた、いわば無意識のモラルや喜びへと人の心を向き直らせる力があった。詩をそのような力を持つものとして考える場合、書かれる詩だけではなく、人間がどんな苦難の中でも手放さない歌のすべてを指すはずだ。詩、と呼ばれるようになる遥か以前から、それは、うた、と言われていた。

河津聖恵『闇より黒い光のうたを  十五人の詩獣たち』2018年(藤原書店)P.12-13

高橋郁男『詩のオデュッセア』(2018年)

近世以降では、ゲーテやボードレール、ニーチェ、コクトーらの詩論に惹かれた。それらを含む幾篇かを、『世界の詩論』(窪田般彌・新倉俊一 編 青土社)から引く。
(略)
・ボードレール(仏 1821-1867)
 詩とは、人がたといほんのわずかでもじぶんの内部にくだりゆき、みずからのたましいに問いかけ、その熱情の思い出をよびおこそうとするならば、詩自体以外の他の目的をもたない。それは他の目的をもつことはできず、したがっていかなる詩も、詩を書くたのしみのためにだけ書かれた詩ほど、偉大で、高貴で、真に詩の名にふさわしいものはありえない。
(「E・ポオについての新しい覚え書」平井啓之 訳)

・ロートレアモン(仏 1846-1870)
(略)
 ――詩は嵐でもなければ、台風でもない。堂々たる肥沃な大河だ
(「ポエジー」渡辺広士 訳)

高橋郁男『詩のオデュッセア  ギルガメッシュからディランまで、時に磨かれた古今東西の詩句・四千年の旅』2018年(コールサック社)P.344-347

▼ヴィスワヴァ・シンボルスカ(1923-2012)
(略)
詩が好きといっても――
詩とはいったい何だろう
その問いに対して出されてきた
答えはもう一つや二つではない
でもわたしは分からないし、
分からないということにつかまっている
分からないということが命綱であるかのように

(『終わりと始まり』 沼野充義 訳 未知谷)

「詩とは?」への旅が、ようやくここで「命綱」にまで辿り着いたのか、あるいは振り出しに戻っただけなのか判然とはしないが、「分からないという命綱」は、率直で力強い、頼れる一本の枕のように思われる。尤も、彼女が書き記した「分からない」という文言の本当の意味までは、他人には計り知れない。「詩とは?」は、その問いの意味を極めるための永遠の疑問符なのかもしれない

高橋郁男『詩のオデュッセア  ギルガメッシュからディランまで、時に磨かれた古今東西の詩句・四千年の旅』2018年(コールサック社)P.358-360

飯塚数人『詩の根源へ』(2018年)

中沢新一は《「比喩」機能を前面に引き出して、むしろ隠喩や換喩の働きだけで、まとまりのある意味を生み出そうとする言語活動があります。それが詩なのです。》《詩は「比喩」の力を存分に利用して、ものごとの異なる領域を自由に結びあわせ、それによってあらゆるものごとが原初の全体性を保ったまま、相互に歌い交わしているような状態を、ことばによって生み出そうとしています》という(カイエ・ソバージュⅡ『熊から王へ』)。

飯塚数人『詩の根源へ』2018年(藤原書店)P.14

彼自身、詩を発表したことのあるウイルソンは、「韻文は滅びゆく技法か?」(世界教養全集別巻2『東西文芸論集』所収)という非常に含蓄に富んだ詩論を書いているのだが、彼はそこでつぎのようなことを言っている。
《「詩」とはなんだろう? 私の考えはこうだ。つまり、「詩」とは、かつてはあるひとつのものを意味していたのだが、今ではそれと違う種類のものを意味するようになっていること。したがって、古代、中世、近代の韻文作家たちを誰かれの別なく、さまざまな時代から引きぬいて頭のなかでごたまぜにしたあげくに、「詩」に関する一般論を述べたてたりすべきではない。 それぞれの時代におけるその機能を考慮にいれたうえで、韻文と散文とを二つあわせて考えるべきであるということ。》(高松雄一訳)

飯塚数人『詩の根源へ』2018年(藤原書店)P.25

十九世紀にはいって、「韻文」から「詩」を切り離そうとする動きがあらわれる。これまで韻律を持った形式で書かれていた文章はすでにほとんどが散文にかわられ、新しい「詩」の概念が必要とされたからだ。文学者たちはさまざまに「詩」を定義しはじめる。コールリッジは詩を真理ではなく歓びを直接の目的とした形式であるとし、ポオは詩を音楽の茫漠さに近づけるべきと主張し、マシュー・アーノルドは「道徳的な深み」と「自然の魔術」を真の詩の特質とした。こうして「詩」の意味あいはだんだんと狭められ、きわめて特殊なものになってゆく。

飯塚数人『詩の根源へ』2018年(藤原書店)P.26

二十世紀初頭、フランスの社会学者にして中国研究家のマルセル・グラネは『中国古代の祭礼と歌謡』において、ベトナムの祭祀や歌謡との比較から、詩を農村の民俗と結びつける。《グラネーは詩を古代の季節的な祭礼と舞踏において即吟された、即興的な文学としてとらえようとした。詩はそのような祭礼の場において、競争的に歌われた口承の文学だとするのである。

飯塚数人『詩の根源へ』2018年(藤原書店)P.36-37

書経には、舜帝が音楽を司る官に、《詩というものは、人が心に意図する所を言語に表現したものであり、歌というのは、(詩が意味する所をよりよく表現するために)言葉を引き伸して詠じたものだ。楽器の音階によって、このひき伸した歌に旋律を付け、律呂の調子によって、楽器の音を調和させる。八種類の楽器の音色が協調し合い、(ある楽器が他を圧倒して)おたがいの調和を破るようなことがないならば、神々をも、人々をも、和らげることができるのだ》(尾崎雄二郎他訳、世界古典文学全集2所収)とのべる場面がある。

飯塚数人『詩の根源へ』2018年(藤原書店)P.61

ここからエリオットは、詩を個性の表現ではなく個性からの逃避であると主張する。個の純粋な志としての詩という見解を否定する。彼にとっては、たった一篇の詩さえ、ヨーロッパ文学の歴史全体の集積として、存在している。《芸術の情緒は没個性的である。したがって、詩人がこのような没個性に達するためには、じぶんのなすべき仕事に全身をうちこむほかにみちはない》とエリオットはいう。かくして詩から作者は消去され、純粋な芸術作品となって自立するわけだ。

飯塚数人『詩の根源へ』2018年(藤原書店)P.98

歌うこと、声をだすこと、自然とともに生きること、万物と結びつくことは、人間の根源的欲求なのだ。真の詩は生命のひとつの現象としてあらわれる
ルソーは言語のはじまりを精神的欲求、情念の表出とみる。言葉は声であり、歌であり、詩であり、音楽だった。

飯塚数人『詩の根源へ』2018年(藤原書店)P.133

ダーウィンも言語は求愛行動のための歌から発生したとのべているそうだ。毛詩大序から影響を受けた古今集仮名序の「花になくうくひすみつにすむかはつのこゑをきけはいきとしいけるものいつれかうたをよまさりける」ということば(引用は丸谷才一『文章読本』から)も、詩という現象が生類の普遍的基層に位置することを示す。詩は生きとし生けるものの命の発露なのだ。

飯塚数人『詩の根源へ』2018年(藤原書店)P.135

あらゆる芸術が音楽の状態に憧れるとするなら、それは宇宙の運行に則っている、という以上に、人間の内部にある鼓動・拍子・音律にしたがっているからだ。(略)テレンス・W・ディーコンは韻律を言葉とおなじように社会的通信手段として発達してきたと考え、霊長類や初期人類の叫び声に由来すると推察している(『ヒトはいかにして人となったか』)。真の詩は生命の現象としてあらわれる。韻律はもはや作品としてはとらえきれない生きとし生けるものそれ自体の営みだ。

飯塚数人『詩の根源へ』2018年(藤原書店)P.144-145

やがて歌は言語としてかたまり、伝承されるうち、形式化し、自然との関連を失い、文字に記され、外化され、テキストとしての詩になるのだ。
けれども文学の根源は、本質は、世界を虚構化することにあるのではない。世界の意味を摑み、あらためて提出することにこそある。

飯塚数人『詩の根源へ』2018年(藤原書店)P.221-222

山口昌男は《近代詩は共同体的感情の紐帯から切り離されるか、基盤としてその様なものを失った個人の孤独の魂の叫びとも言い得るならば、未開社会の歌謡=詩は、共同体を媒介として過去と現在の交錯のうちに広がる感情の母胎とも言えるのである。共通の生活様式と共通の目的と、共通のイメージと語彙と共通の儀礼と呪術と、共通の生活感情を持つもののみが頒ち合える感覚と感情がその中に宿されているのである。この場を除いて未開社会の歌謡は存在しないと言ってよい》と書く(「未開社会における歌謡」)。

飯塚数人『詩の根源へ』2018年(藤原書店)P.253

ほんとうの詩は、生命との共生を実現するためのものであってほしい。それは言葉の中に自足するものではない。生きること、存在することそのものにつながっている。詩は自然と精霊への祈りの中から生まれた。詩は儀礼をつうじて聖なる世界を体験させ、ざわめく地上の生命と交響する。詩に興こり、礼に立ち、楽に成る。詩は実践する。それは人間が一度さまよいでた世界への回帰にほかならない。

飯塚数人『詩の根源へ』2018年(藤原書店)P.274

人間は伝統から脱けだすことができない。とどうじに、自然からも脱けだすことができない。詩はたんに外界に放出され、書き記され、文字に固定され、鍛えあげられたことばではなく、発生の現場、自然環境ともみっせつに関連する。本論後半では、この問題を追求してきた。詩人の生活や人間の営みの総体といった事柄を超え、生命の普遍的基層に到達するための祈りとしての詩

飯塚数人『詩の根源へ』2018年(藤原書店)P.283-284

室生犀星『新しい詩とその作り方』(2018年)

自分が今持つところの詩についての信条は、あくまで正新で真実であること。また、読者にとっても良き幸福をもたらすべきものであることを感じる。自分等の生き育つからには、自分等のちからを人々に感じさせずにおかないし、また、認めさせずにはおかない。自分等の世界にあって詩は明らかに「魂のミード(報酬)」であり、「二つなき魂の慰安」であるからだ。

室生犀星『新しい詩とその作り方』2018年(国書刊行会)P.12

(章題)詩は優しい春のような感情である

室生犀星『新しい詩とその作り方』2018年(国書刊行会)P.21

詩は愛である
詩は、ちょうど、われわれがいつまで経っても忘れることの出来ない、肉親の愛のようなものである。いつも詩をおもうとき、心は美しく清いものに抱かれ、いつくしまれるのである。

室生犀星『新しい詩とその作り方』2018年(国書刊行会)P.24

すべての詩は、その作家の正しい心の現れである。善い人であれば、善い詩をかくにきまっている。悪い人はわるい詩をかく。これはほんとによく自然や運命から摂理されているから恐ろしい。

室生犀星『新しい詩とその作り方』2018年(国書刊行会)P.31

(章題)詩は自然の中に

室生犀星『新しい詩とその作り方』2018年(国書刊行会)P.37

詩は真と美と、そして宗教的なるものによってのみ、表現され、また内実される

室生犀星『新しい詩とその作り方』2018年(国書刊行会)P.48

明らかに詩は宗教でもある
詩のもつ端厳で善良なる信仰は、一つの良き魂ある言葉となって、読む人の胸になんともいえない爽やかな心持ちを起こさせるものである。何等の雑念なく、邪気をもたない高い心持ちになるのである。

室生犀星『新しい詩とその作り方』2018年(国書刊行会)P.63

詩は、詩を求める者にのみ、よき囁きをもって温かい理解を生みつけるのである。あたかも、神を求める者にのみ、神のすべての意識が味読されたり信仰されたりするようになるのと同じである。
詩こそ、われわれにとって、疑いなき「神のいるような温かい王国」である詩こそ、われわれにとって永い春の日の「世にもたのしい心の慰め」である

室生犀星『新しい詩とその作り方』2018年(国書刊行会)P.65-66

詩から音律を奪うことは出来ない。換言すれば詩とは情緒的に作家の思想をある音律ある文字で表現したもので、全く説明を省いたところにその特徴を持っている。であるから音律と思想は詩に欠くことの出来ない要素である。

室生犀星『新しい詩とその作り方』2018年(国書刊行会)P.74

詩には、どんな急進的な韻律があっても、詩みずからがもつところの優しさが含まれていなければならない。そして、それを表現する上に、極めて優美な、リズミカルな、美しい仮名づかいによって、静かなリズムとゆたかな情念とを読む人々の胸に湧かさなければならない。

室生犀星『新しい詩とその作り方』2018年(国書刊行会)P.231

大岡信・谷川俊太郎『詩の誕生』(2018年)

大岡:詩てのは瞬間的に生まれて消えてしまうある種の原子のようなものだというのは、まったくそうだと思う。ただわれわれの詩に関するかぎりは、死ぬ瞬間てのはよくわからないんだよね。文字に定着されてしまうから、ほんとうは死んでるかもしれないのに仮死状態で生き残っているのかもしれない。詩が生まれる瞬間は僕も非常におもしろいけれども、詩が死ぬ瞬間もおもしろいね。

大岡信・谷川俊太郎『詩の誕生』2018年(岩波文庫)P.10

大岡:(略)詩てのは現実にいつまでも存在しているものじゃなくて、どこかに向って消滅していくものだと思う。消滅していくところに詩の本質があり、死んでいく瞬間がすなわち詩じゃないかということがある。あるものが生まれてくることはわりあい自然であって、むしろそれが消えていく瞬間をどうとらえるかが、実はその次の新たな「詩の誕生」につながるのじゃないかな。

大岡信・谷川俊太郎『詩の誕生』2018年(岩波文庫)P.12

大岡:(略)言葉では解明できないような不思議な魅力を持ったものを見ると、これは詩だって思うでしょう。ということは、〈詩〉という言葉は言語の世界に深く潜んでるけれども、同時に言葉で解明できないようなものを指す最も有力な一つの記号でもあるわけだね。

大岡信・谷川俊太郎『詩の誕生』2018年(岩波文庫)P.23

谷川:(略)それがあなたの場合には、喧嘩している子供の内面、内面の心象風景みたいなもののほうに、おそらく感情移入していくんだろうね。あなたの場合、詩というものが人間の内部への旅みたいなことがある?
大岡:かなりあるね、それは。シュルレアリスムの作品を読むようになって感じたことだけれど、シュルレアリスムの詩というのは、一方で言葉のなかで強烈にイメージをとらえようとする意味で瞬間性がある。ところが一方、シュルレアリスムは人間の内部に潜む無意識の世界を重視するでしょう。そこには時間が入ってくる。その両面を強く問題にしているところに、僕は関心を持ったんだな、いま考えてみると。

大岡信・谷川俊太郎『詩の誕生』2018年(岩波文庫)P.30-31

大岡:ドナルド・キーンさんが『日本の文学』という本のなかで、古今集の序文にはヨーロッパ人には考えられない詩の観念があって、これは驚くべきことだと書いている。つまりヨーロッパ人には、詩というのは人間を超える超越的存在と人間の世界とを媒介するものとしてあって、詩人はそれをいわば代弁する人であるという考え方がずっとあった。ところが日本では、紀貫之の書いた古今集の序文を見ると、生きとし生けるものはみな詩を語るし、人間が自分の心の内にある感動を自ずと表わして言葉になったものが詩であるといっている。日本人にとっては、詩というのは人間を超えるものと人間とを媒介するものではなくて、人間の内部に潜んでいる力を外に押し出すものらしい。これはヨーロッパにとっては驚くべき思想である、ということなんだよ。それを読んでむしろこちらが驚いたけど、そういう観念の違いはどうもあるのじゃないかと思うね。

大岡信・谷川俊太郎『詩の誕生』2018年(岩波文庫)P.59-60

谷川:(略)吉田健一さんが、詩というものは日々の現実的な感覚に基礎を置いている、と言っているよね。たとえば朝の光を書いた詩を読むのに、その朝の光に対する現実的な感覚がないとしたら、作者の言葉がどうの思想がどうのということばかり論じることになってしまう。そういうふうな詩の解釈が、いままかり通っているからだめなんだ、という意味のことを書いていたけどね。どんなに日常的な現実から離れたように見える詩でも、そういうものが基本にある。あるからこそ、逆に新しい感覚が出てくることが可能になるんだ。だから、基本になる現実感覚を失ったということは、たいへん困る問題じゃないかな。

大岡信・谷川俊太郎『詩の誕生』2018年(岩波文庫)P.210

■中原道夫『みんなの現代詩』(2019年)

それは演劇の舞台が、観客との一体感によって成立するのと同じで、詩もまた読者との共感の上に成り立つということである。

中原道夫『みんなの現代詩』2019年(東方社)P.167

長山靖生『恥ずかしながら、詩歌が好きです』(2019年)

形の見えない想いを言葉に刻んだものが詩歌です。念のために言っておくと、愛を詠った詩歌にだけ「愛」があるわけではありません。不安、孤独、恐怖、借別、憤怒、失望、あるいは絶望を詠った詩歌であっても、そうした想いを言葉に紡いでいるという時点で、可能性への希望が込められており、絶望すら包む愛がそこにはあります。

長山靖生『恥ずかしながら、詩歌が好きです』2019年(光文社新書)P.331

水田宗子『詩の魅力/詩の領域』(2020年)

詩の魅力とは何だろうか。詩はつねに古く、新しい表現ジャンルであり続けている。詩は詩人の内面の表現であるが、読者の心の奥深くへ入り込み、その心を摑む。詩表現は、詩人の内面と読者/他者の内面との対峙であり、詩を媒介にして詩人の内面と読者の内面を繋ぐ。詩作品は、詩人の内面だけではなく、読者の内面をも外在化するのである。それが詩の持つ力だろう。
詩人の内面の顕現化といっても、それは必ずしも詩人本人にとって自明のものでも理性的に理解していることでもない。もしそれが自明のものならば、その発露を詩表現に託す必要はないだろう。内面の欲求や表現への衝動は、詩人自身を翻弄する、不可解で、危険なものだ。理性では理解やコントロールできず、言葉ではうまく伝えることができない、未知の領域、心の奥深くに潜む魔物のようなものである。

水田宗子『詩の魅力/詩の領域』2020年(思潮社)P.8

詩表現は、常に現実性と普遍性の間にあって、常に互いの間の拮抗を送り返している。神話的、寓話的な宇宙空間へ向かう想像力と、個人の経験とその時代性の中にとどまり続けて、固有の経験、実在の表現を追求する方向、前者は、時間と空間を超える「永遠」の中に生きる実存の姿を表す瞬間を表象しようと求め、後者は、歴史と時間の闇の中に捨て置かれた個としての実在を浮かび上がらせようと足掻く。それはロマンティシズムとリアリズムの拮抗というよりは、どちらから表現の入口へ入っても必ず中で重なり、ぶつかり合う運命的な重層性なのだ。

水田宗子『詩の魅力/詩の領域』2020年(思潮社)P.10-11

したがって詩表現は、そして詩の言語とは、あくまでも身体的な、現実的で、いま、ここの感受性に訴えて、それが耳とか目とか鼻とか脳とかの器官を超えた、心と直結している琴線としての身体となることを通して、内面と内面を繋ぐものとなっていくことを希求する。詩は、光や風、悲しみや痛みのように身体的感受性や心では強く感じていても、それが社会的なコミュニケーションの言葉では言い表すことができないことを言葉で顕現化しようとする。それが驚きと啓示の衝撃を伴うのである。それが言葉を用いながら、言葉を超えた詩の言語であるだろう。
詩は内面に深く埋もれたままの記憶をそのまま呼び覚ます。何の解釈もなしに。日常世界での生活の中で、存在の根源的な相への回路を開く。隠された感情や不可視のままに埋もれていた心的風景の記憶がその回路を通して蘇るのである。啓示とは記憶の、心の痕跡の一瞬の蘇りである。
ここで身体的感受性というのは心-内面の表皮とでもいうべき心のアンテナである。
ユーモアやアイロニー、リズムなどレトリックを援用する場合でも、それらは個々の身体的器官の能力を超えて、身体全体がアンテナとなった直接的な通路を通して心に到達する。詩を読むと音楽が聞こえてきたり、色や匂いや手触りや風景が彷彿として浮かび上がるのは、言葉によって身体的感覚を通して喚起されたものがその源泉である感性を総動員されるからであり、そのことによって他者の感覚器官ではなく内面、つまり他昔の心の奥深い領域に達するからで、その回路でなければ、他者の内面を顕現化することはできないだろう。詩とは他者の感性と想像力を総動員させる力であり、それが詩の
魅力であるだろう。読者は振動が伝わるように全身を刺激され、自分でも知らなかった内側、そこに隠してあった秘密、そこに貯蔵されていた、見えなかった真実へと誘導されて啓示の一瞬を味わうことができる。詩が触発するのは他者の記憶の蘇生の回路なのだ。

水田宗子『詩の魅力/詩の領域』2020年(思潮社)P.16-17

詩は見えないものを見えるものにするというよりは、また、見えるものを感受する感覚によって受け止められるようにするというよりは、直接心に到達する詩特有の、独自の道を作るのだ。そして、人が普通に見ているものはそれ自体で存在するのではなく、そこに隠されたもの、その水面下に存在するものの世界を暗示し、人生の真相を示唆する認識へと誘うのである。だからこそ人は詩に深く触発されたとき、これまでの現実が異なったものに感じるのだし、現実が突如変貌する経験を持つのだ。
目や耳などの感覚器官では感受できなかったもの、論理的思考では認識できなかったもの、コミュニケーションの言葉では伝達できなかったものの顕現化を試みる詩表現は、沈黙に最も近いところへの接近を常に諮っているのである。詩は沈黙への道行きなのである。詩は言語だけではなく反言語芸術でもある。

水田宗子『詩の魅力/詩の領域』2020年(思潮社)P.18

コールリッジやその影響を受けているシェリーもポオも含めて、ロマン派の詩人たちにとっては詩と記憶が一体であることは明らかだ。詩とは記憶なのだ

水田宗子『詩の魅力/詩の領域』2020年(思潮社)P.147

谷川俊太郎『さよならは仮のことば』(2021年)

(詩『理想的な詩の初歩的な説明』より一部抜粋)

詩はなんというか夜の稲光にでもたとえるしかなくて
そのほんの一瞬ぼくは見て聞いて嗅ぐ
意識のほころびを通してその向こうに広がる世界を

それは無意識とちがって明るく輝いている
夢ともちがってどんな解釈も受け付けない

言葉で書くしかないものだが詩は言葉そのものではない
それを言葉にしようとするのはさもしいと思うことがある
そんな時ぼくは黙って詩をやり過ごす
すると今度はなんだか損したような気がしてくる

谷川俊太郎『さよならは仮のことば』2021年(新潮文庫)P.145-146

小林真大『詩のトリセツ』(2021年)

そもそも、詩とは何でしょうか?『百科事典マイペディア」を開いてみますと、「詩」という項目には「一般に、一定の韻律に則って選ばれた句を一定の形式に配列して表現される言語芸術」と明記されています。分かりやすく言えば、詩とは
「言葉」を用いて作られる芸術作品
であると言えます。

小林真大『詩のトリセツ』2021年(五月書房新社)P.10

彼らが指摘するように、詩は私たちが普段見ることのできない人生の本質を、言葉によって表現することができます。自分が感じた感動をなんとかして形にしたいという芸術家たちの熱い思いが、私たちの心をはげしく揺さぶり、いつまでも印象に刻まれる、すばらしい作品を生みだすのです。

小林真大『詩のトリセツ』2021年(五月書房新社)P.19

ここまで、私たちは詩が芸術であること、詩人が言葉を人生の真理や感動を伝えるための「素材」として用いていることを学びました。

小林真大『詩のトリセツ』2021年(五月書房新社)P.20

いわば、この詩を前述した「文の構造性」という視点から分析していたと言えるでしょう。一方で、私たちはこの詩を「リズム」や「イメージ」といった、他のさまざまな視点から分析することもできます。実のところ、ロトマンは詩を色々な要素が結びついた、システムの複合体であると論じました。 バイオリンやピアノがお互いに共鳴して美しい交響曲を奏でるように、詩もさまざまな要素が互いに影響しあいながら、絶妙なメロディーを奏でているのです。

小林真大『詩のトリセツ』2021年(五月書房新社)P.23-24

吉増剛造『詩とは何か』(2021年)

「詩の心」、「詩情」とか「詩心」とか、それから「ポエジー」あるときには「ポエム」とか、そんな言い方をしますけれども、それよりもはるかに底のほうの、「かたち」にならない、名づけがたい根源的なところにあるらしいものの、「思想」というよりも、「思いの塊り」といったほうがよいようなもの、それの、そのはたらきのようなものをこそ、そして、そのはたらきを促す、あるいはさそう僅かな力をこそ、つかまえなければならない。(略)そういうところへと躙り寄っていくための、「詩」とは、細い道のひとつなのだろうと思います。ですから、「和歌」や「俳句」やあるいは「小説」も含めて、戦前、戦後すぐまでの、「かたち」のある芸術活動とは、今や「詩」は、まったく違うものになってきています、そうひとまず申し上げておきたいと思います。

吉増剛造『詩とは何か』2021年(講談社現代新書)P.6

「詩」は、思いがけないところで、煙か白雲のように、不図、その姿のようなものをあらわすことがあります。ごく最近の経験を申し上げてみたいと思いますが、三年程をかけまして、石巻のホテルの一室に籠もって綴りました詩を、詩集(『Voix〈ヴォワ〉』)として上梓をしようとして最終校正をいたしておりました。二〇二一年の六月のある日のことでしたが、どうもここは、イメージになっていないし、弱いな、消そうかしらという内心の囁きが聞こえてしまったのかも知れません。女川で津波に逢われた方のお心が、ホテル(ニューさか井二〇六号室)の一室の通気口から入ってこられる一夜、・・・・・・というところで、そうだ、思いのようなものが、白い煙が白雲のようにこの部屋に入ってきたというところで、詩人(作者)の心にもまた、白い煙か白雲の一筋のような詩の姿形が入って来ていました、・・・・・・この弱く、儚い、白雲か煙のようなものこそが「詩」の姿形の一端であると気がついたことがありました。「純粋言語」とか「根源」とか、ひち面倒ないい方から漏れていってしまいますもの、漏れていってしまいます、弱いもの儚いもののすぐ傍にこそ、詩の出入口があるようなのです。そしてこの「漏れる」ということからは、「音楽」にも「絵」にも、あるいは思考にもとどくような小径が、ふと、現れて来ているのかも知れません。

吉増剛造『詩とは何か』2021年(講談社現代新書)P.9

しかしそれでも何とかそこにまで届こうとしてもがく、悶える、そのような行為が、あるいはその行為によって出来上がった「作品」の中にではなく、そのもがいている行為そのものの、逡巡、躊躇の中にこそ、ふっと一瞬、貌を顕すのが「詩」というものなのかもしれないのです。

吉増剛造『詩とは何か』2021年(講談社現代新書)P.14

宗近真一郎『ポエジーへの応答』(2022年)

そこから少し縦に掘って、比喩とは何であるのか。あるいは、そもそも論ですが、詩においてなぜ比喩があるのか。類型的な言い方になりますが、世界を一行で断言する、その可能性と不可能性のあわいに比喩が生成する水準原点があるんじゃないか、と牧歌的に言ってみたいわけです。なぜ詩なのか、なぜ詩が比喩に追い込まれてきたのかということと、世界を一行で言い切る、しかし一行では断言できない世界にわれわれは在る、という断裂への時空的な違和、そこに比喩の水準原点がある。

宗近真一郎『ポエジーへの応答  詩と批評の戦いでは、抵抗主体に支援せよ』2022年(幻戯書房)P.91

町田康『私の文学史』(2022年)

なので、整理してみますと四つあります。「わかるからわかる」「わからんけどわかる」「わかるけどわからん」「わからんからわからん」。僕は最初に、詩とは何かと言ったら「感情の働きを言葉にしたもの」と言いましたけど、感情の中でもうちょっと詳しく言うと、「わからんけどわかる」、こういうものが詩というのではないかということです。

町田康『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』2022年(NHK出版新書)P75

萩原朔太郎『詩人はすべて宿命である』(2022年)

ただ最も不自由に困ることは、天質的に詩人と生れ、恵まれた詩的才能を持つて居る人でさへが、インスピレーションの感興なしには、決して詩が書けないといふことである。そしてしかもこの感興は、詩人の予期できない時に於て、稀れに気まぐれにしかやつて来ない。私はそれを或る仕方で、予期の出来るやうに変更し、人為の手段で自由にすることを考へてゐるのだ。そしてこの工夫が、即ち私のいふ「詩の作り方」なのである。
原則として、詩は異常精神学の産物である。

萩原朔太郎『詩人はすべて宿命である』2022年(安智史 栗原飛宇馬・編/国書刊行会)P.17-18

詩は魂の底の中から、自然に湧き出して生るべきものである。詩は理智によって構成さるべきものでもなく、阿片によって呼び起さるべきものでもなく、その他の如何なる手段によっても、決して人為的に作らるべきものではない。

萩原朔太郎『詩人はすべて宿命である』2022年(安智史 栗原飛宇馬・編/国書刊行会)P.22

愛敬浩一『詩から遠く離れて』(2022年)

言うまでもなく、詩は創作なのであり、私的な告白ではない。告白である場合も、それは仮構的に構成されるので、かならずしも実生活に還元されはしない。

愛敬浩一『詩から遠く離れて』2022年(土曜美術出版販売)P.309

  詩はただ言葉の都合で、それのみで、そこから組立てられている。制作だから作り出されているものと受け取ってもらいたい。そこに含蓄されている、すべての感覚的内容、視覚的要素、心理的表象、ないし気分、ムード、言葉の連続のもつれあいに従って生ずる進行する情緒、それらは、この一まとめの構造――作品に直接的に関している限り、まったく架空の上に立つ。

(*引用者注:上記は)三好達治の自作解説(「解釈と鑑賞」一九六一年六月)である。よく分かる解説だと思う。三好達治が「エクリチュール」という概念を知っていたら、その用語で説明したかもしれない。「詩はただ言葉の都合で、それのみで、そこから組立てられている。」という一行が、すんなりと「架空の上に立つ」とまとめられている。

愛敬浩一『詩から遠く離れて』2022年(土曜美術出版販売)P.310


付録:生成AIによる「詩とはなにか」への回答

以下は、
 「『詩とは何か?』という問いに、詩人や批評家は、どのように答えていますか?」
 「では、『詩情(ポエジー)とは何か?』という問いに、詩人や批評家は、どのように答えていますか?
という2つの「問い」に対する、生成AI(Chat GPT)による回答である。同じ「問い」を40日ほど間隔をあけて2回問い合わせた結果となる(2回の内容は案外異なる部分も多く興味深い)。

【2024年1月6日のQ&A①】
〈問い〉
「詩とは何か?」という問いに、詩人や批評家は、どのように答えていますか?

〈答え〉
「詩とは何か?」という問いに対する詩人や批評家の答えは多岐にわたりますが、いくつか一般的な視点を挙げてみましょう。詩に関する考え方は文化や時代によって異なり、異なる文学運動や詩人の立場によっても異なります。

1.言葉の美と表現の芸術:

詩は言葉の美を追求し、表現の芸術であるとする立場があります。詩人たちは言葉の選び方、音の響き、リズムなどに注目し、それらを用いて情緒や思想を深化させることが詩の中心的な役割だと捉えています。
2.感情や経験の表現:
別の視点では、詩は詩人の感情や経験を深く表現する手段であるとされています。詩は抽象的なアイディアや人間の感情を豊かな言葉で捉え、読者に共感や共鳴を呼び起こすことが期待されます。
3.社会や文化の鏡:
一部の詩人は、詩を社会や文化の鏡として見ることがあります。詩は特定の時代や社会の価値観、課題、文化を反映し、時には批判的な視点からそれらにアプローチする手段となります。
4.言葉の解釈と複層性:
詩はしばしば多義的であり、異なる読者が同じ詩を異なる解釈で受け取ることがあります。詩は意味の多様性を許容し、読者に主観的な解釈の余地を与えることがあるとされています。

これらはあくまで一般的な傾向であり、詩人や批評家が異なる立場から詩にアプローチすることがあります。詩は芸術の一形態であり、その定義は主観的でありながらも、言葉の魅力や表現力を通じて人間の感情や思索を深める重要な手段とされています。

ChatGPT (2024.01.06)

【2024年2月18日のQ&A①】
〈問い〉
「詩とは何か?」という問いに、詩人や批評家は、どのように答えていますか?
〈答え〉
「詩とは何か?」という問いに対する詩人や批評家の答えは多岐に渡りますが、一般的には以下のような視点が示されることがあります
1.言葉の美と表現力:
詩は言葉を用いて美しく表現された文学の形態であると見なされます。詩人は言葉の選び方や響き、リズムに重点を置き、独自の感性や視点を通じて感情や思索を伝えます。
2.感情や経験の表現:
詩は詩人の感情や経験を深く掘り下げ、抽象的な言葉や比喩を使って表現する手段と見なされます。詩人はしばしば個人的な体験や共感を通じて普遍的なテーマに触れます。
3.象徴と意味:
詩はしばしば象徴的であり、単なる表面的な意味を超えて、深い哲学的な洞察や人間の存在に関する洞察を提供します。象徴や意味の層を通じて、詩は読者に多様な解釈の余地を残します。
4.音楽性とリズム:
詩は音楽的な要素を含み、リズムや韻律を通じて言葉の響きに重点を置くことがあります。これにより、言葉そのものが響き合い、読者や聴衆に感情や印象を与えます。
5.言葉の遊びと創造性:
詩は時に言葉の遊びや創造性を通じて新しい意味を生み出します。言葉の選択や配置において独自性が求められ、詩人は言葉の力を最大限に引き出そうとします。

これらの要素は詩の定義に対する一般的なアプローチですが、異なる詩人や文学理論家が異なる視点からアプローチすることがあります。詩は個々の感性や文学の流れによってもその定義が変化するため、一概には特定できない豊かな表現の形態であると言えます。

ChatGPT (2024.02.18)

【2024年1月6日のQ&A②】
〈問い〉

では、「詩情(ポエジー)とは何か?」という問いに、詩人や批評家は、どのように答えていますか?

〈2024年1月6日の答え〉
「詩情(ポエジー)」に関する定義や理解も、詩人や批評家によって異なりますが、いくつか一般的な視点を挙げてみましょう。

1.芸術的な表現と魅力:
詩情は一般に、芸術的な表現や言葉の魅力に重点を置いた状態や要素を指すことがあります。詩情は言葉や表現に特有の美学的な価値を含み、読者や聴衆に感情的な共感や美的な魅了をもたらすとされています。
2.感情や想像力の奥深い表現:
詩情は感情や想像力を奥深く掘り下げ、言葉を通してそれらを表現する能力を指すことがあります。詩情が豊かである詩は、読者や聴衆に強い感情や深い洞察を与えることが期待されます。
3.言葉の響きとリズム:
詩情はしばしば言葉の響きやリズムと結びついています。言葉の音やリズムが詩的な響きを生み出し、それが詩情をより深く、感動的に感じさせるとされています。
4.人間の本質や存在への深い洞察:
一部の詩人や批評家は、詩情が人間の本質や存在、世界への深い洞察を反映するものであると捉えます。詩は抽象的でありながらも、人間の根源的な経験や哲学的な問いに対する返答として位置づけられることがあります。
5.自然や宇宙との調和:
詩情は時に自然や宇宙との調和を表現する手段ともされます。自然の美や宇宙の謎に対する詩的な捉え方は、詩情の一部と見なされることがあります。

これらの要素は詩情が広く捉えられ、その定義は主観的でありながらも、詩が持つ言葉の力や感情の深さに焦点を当てています。ポエジー(詩情)は文学や芸術の中で特別な位置を占め、その魅力は多様性と個性の表現によって形成されます。

ChatGPT (2024.01.06)

【2024年2月18日のQ&A②】
〈問い〉
では、「詩とは何か?」という問いに、詩人や批評家は、どのように答えていますか?

〈答え〉
詩情(ポエジー)」についての定義は抽象的であり、個々の詩人や批評家によって異なる視点から捉えられています。一般的には以下のようなアプローチが見られます
1.感性と美:
詩情は感性と美の表現であり、言葉を通じて深い感情や美的な魅力を伝える力を指します。詩情はしばしば抽象的であり、言葉の魔法によって読者や聴衆に深い印象を与えます。
2.言葉の響きとリズム:
詩情は言葉の響きやリズムによっても表現されます。音楽的な要素や言葉のリズムが、詩情をより感じさせ、読者や聴衆に心の奥底に訴えかけます。
3.象徴と意味の深さ:
詩情はしばしば象徴的であり、単なる言葉の意味を超えて深い哲学的な意味を含みます。言葉の選択や構造によって、詩情は複数の意味の層を持ち、読者や聴衆に探求と解釈の余地を与えます。
4.人間の経験への共感:
詩情は詩人が自らの経験や感情を通じて読者や聴衆と共感しようとする試みを含みます。共感を通じて、詩情は普遍的なテーマや人間の共通の感情に触れることがあります。
5.創造性と個性:
詩情は創造性と個性の表現でもあります。詩人が独自のスタイルや視点を持ち、言葉を通じて新しい世界や感覚を創り出すことが、詩情の重要な側面とされます。

これらの要素が組み合わさり、詩情は言葉の芸術的な形態として現れます。ただし、詩情の定義は主観的であり、読者や聴衆の感じ方にも大きく左右されることがあります。

ChatGPT (2024.02.18)

〈了〉


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