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日本古代史空白の150年を埋めておく(関裕二説を基に)(3/3)

これまでの話を基に、事項を整理した上で、空白の150年のシナリオを作成します。


事実と考えられる事項

(1)卑弥呼没す(248年)
 247年・248年に北部九州付近で皆既日食(下のファイル参照)
(2)纏向の興隆(4世紀前半または3世紀)
(3)の分布に見られる大変動(320~350年)
(4)神功皇后は(応神天皇の母ならば)4世紀後半
(5)倭による朝鮮半島侵攻(391~404年:広開土王碑

日本書紀・古事記

(1)神功皇后は卑弥呼と同時代
(2)神功皇后が三韓征伐
(3)応神天皇の母は神功皇后
(父は仲哀天皇だが疑義が残る:産まれるのを石で押さえて遅らせた)
(4)神功皇后の軍は、仲哀天皇の2皇子を騙し討ち
(5)神武東征時、ニギハヤヒ(物部氏の祖)は神武天皇を迎え入れた
(6)神武天皇も崇神天皇もハツクニシラススメラミコト(初めて国を治めた天皇)
(7)応神天皇は、日向の女性を娶り、奈良で亡くなる

関氏の説または参照している説

(1)東征を神武・崇神・応神の3回に渡ってなぞっている
(2)神功皇后がヤマト側として、日本海勢力と共に、北部九州を制圧
(3)日本海vs瀬戸内海の攻防で、神功皇后は敗退
(4)疫病流行に苦しむ崇神天皇が厄除けのため、日向に逃れた貴種の末裔(応神天皇)を招き入れる
(5)崇神天皇は、神武東征でのニギハヤヒ(物部氏の祖)ではないか

井沢元彦氏の論点

パズルを組み合わせるようにシナリオを作成しようとしましたが、迷いが生じたため、「逆説の日本史」第1巻・第4章「神功皇后編」を久々に読みました。20年以上前の著作なので、見解の変化もあるかもしれませんが。
ちなみに、井沢氏は邪馬台国東遷説を採っています。

(1)8世紀、称徳天皇が道鏡に譲位をしようとした際、宇佐八幡(大分県)の神託を得ようとした→天皇家の故郷は九州

(2)宇佐八幡で、応神天皇・神功皇后と共に比売大神(ひめおおかみ)が中心に祀られている→(様々な理由から)比売大神が卑弥呼ではないか

(3)宇佐八幡宮では「二礼・四拍手・一拝」と出雲大社と同じで、強い怨霊→卑弥呼は日食の責任で殺されたことで怨霊に(無実の罪で殺されると怨霊になると信じられていた)

(4-1)三王朝交代説(崇神・応神・継体
(4-2)諡号がついている場合、始祖を意味するのではないか
(4-3)日本書紀で天皇でもない神功皇后に1章を割いている
神功皇后は始祖であり、特別な功績として三韓征伐を当てたのではないか

暫定シナリオ設定

【3世紀前半】
最先端地域は北部九州。
邪馬台国は筑紫平野。卑弥呼(日御子)は周辺諸国を束ねるが、2回のほぼ皆既日食(247年は食のまま日没(食分0.95以上)、248年は食のまま日の出)の凶事で殺害される。
纏向には周辺地域から人が集まり始める。
朝鮮半島からタニハへのルートにより、文物が近江・東海へも流れる。

【3世紀後半】(266年~空白の時代)
北部九州は混乱後、トヨによりまとまる。
吉備、纏向に合流。
纏向において崇神天皇即位。

【4世紀前半~半ば過ぎ】
ヤマト(纏向勢力)、出雲・邪馬台国を支配下に。(国譲りの元となるエピソード)
362年?、仲哀天皇殺害される。

【4世紀後半】
日本海vs瀬戸内海の対立。
神功皇后・応神天皇、敗走し日向へ。
応神天皇、大和入り。(神武東征の直接のエピソード)
倭軍、朝鮮半島へ侵攻(三韓征伐:主体は神功皇后とは限らない)

413年から倭の五王の時代に。

様々な情報があり過ぎて、整合性を取るのは大変ですが、最大公約数的なのはこの辺りかと思っています。

これを基にしつつ、新しく知った情報に応じて更新して行きたいと思います。

気になる論点

ヤマトが支配地域を広げたことについて、仲哀天皇の父である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が担ったのであれば時期的に合いそうなのですが、関氏によると、考古学上合わないとのこと。

阿波で、ヤマトの前の時代に墳墓の初期形態が存在していたようで、物部氏や崇神天皇の登場に関係があるような気がします。

形的変遷から神武東征をB.C.70年と推定した長浜氏の説も、考古学との関係が見られるようになったらシナリオに入れる必要が出てくると思います。

最後に一言

長文になり過ぎないように、省略した事項が多々あります。
マニアの方には、合わない箇所が必ずあるのだろうなと思います。
初心者の方のお役に立てば・・・。


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