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夏も近づく八十八夜、新茶の季節です。

 立春から数えて八十八日目、いわゆる八十八夜は5月1日です。八十八夜といえば、茶摘みですね。八十八夜に摘んだお茶は、長寿の薬ともいわれています。また、米という漢字は八と十と八を重ねて出来上がることから、縁起のいい農の吉日とされています。今日は、八十八夜にちなみお茶のお話をお届けします。♪

 お茶の歴史、発祥は中国です。中国の歴史の中で、お茶が登場するのは、中国の古代皇帝「神農(しんのう、農業・漢方の祖)」の逸話です。神農は、野草とお茶の葉を食べていたと伝えられています。この伝説から、お茶の発見は紀元前2700年ごろ、神農時代と考えられます。紀元前1世紀の漢の時代の医学書『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』には、お茶の記述があり、お茶はよく知られていたようです。ただし、主に上流階級の嗜好品として愛飲されていました。


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 日本には、奈良・平安時代に、遣唐使や留学僧によってもたらされました。平安初期の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都(だいそうず)永忠が茶を煎じて奉った」と記述されています。これが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれています。お茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などの限られた人々だけが口にすることができました。

 鎌倉時代になると、日本の臨済宗の開祖である栄西が著した日本初の茶の専門書「喫茶養生記」により、お茶の効能が紹介されました。栄西は、深酒の癖のある将軍源実朝に、良薬としての茶と本書を献上したと「吾妻鏡」に記されています。宗の僧である上人は、京都の高山寺に茶を植え、茶を奨励しました。ここが最古の茶園とされ、栂尾のお茶を「本茶」とし他のお茶と区別しました。鎌倉末期から南北朝にかけては、寺院を中核とした茶園は京都からさらに広がり、伊勢、伊賀、駿河、武蔵でも栽培されるようになりました。

 禅宗寺院に喫茶が広がると共に、社交の道具として武士階級にも喫茶が浸透していきました。さらに南北朝時代になると、茶を飲み比べ、産地をあてる「闘茶」が行われました。
 室町時代、足利義満は、宇治茶に特別の庇護を与え、これは豊臣秀吉にも受け継がれ、宇治茶のブランドが形成されていきました。その後、千利休らによって「茶の湯」が完成し、豪商や武士たちに浸透していきました。
 

 江戸時代は武士階級だけでなく、庶民にも茶の湯が浸透していきました。明治維新後は、お茶は海外にも輸出されるようになりました。明治20年ごろには、輸出総額の20%を占めていました。明治初期、士族授産事業などを契機に平坦な土地に集団茶園が形成されるようになりました。しかし、茶園開拓をした士族たちは次第に離散していき、かわりに農民が茶園を継承していくようになりました。集団茶園の形成は、茶園の形成だけにとどまらず、流通や各種機械の発明など茶業を中心とした関連産業の成立に影響を与えました。しかし、明治中期まで、花形輸出品として発展してきた日本茶も、インド、セイロン紅茶の台頭で、輸出は次第に停滞していきました。代わりに国内の消費が増え、お茶は国内向け嗜好飲料に変わりました。お茶が日本人の生活に根付いたのは、大正末期から昭和初期と言われます。意外と近年になってからなのですね。

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 健康に良いといわれているお茶ですが、どんな栄養素があるのでしょうか。まず、お茶といえば、カテキンですね。


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