旅のわだち2
恩恵に預からなかったバブル景気がはじけた後にやってきた円高。アメリカへ出かけるようになった頃は、もう30歳になっていた。
阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件といった社会不安が広がった95年。1ドル80円前後の為替を背景に並行輸入が流行り、ナイキのエアマックスが驚くような値で売り買いされていた。
ロサンゼルス空港で借りた初レンタカーは、フォードのコンバーチブル。受付でもらった地図と道路標識だけが頼り。カーナビはない。右側通行に慣れる間もなくフリーウェイに乗り、モーテルを探しながら走った。
当時は健康ブームで、マッチョたちのビーチバレーを横目にレオタード姿でベビーカーを押す女性や、オフィス街でタバコを手にした僕への見下すような視線を思い出す。
「明日は野茂が登板するぞ」って声をかけられたこともあった。
サンディエゴ郊外の国境近くのナイキショップでスニーカーを爆買いする日本人連れが複数。車を駐車場に停めてからメキシコ・ティファナへ歩いた。
路上の物乞いの親子を見て、突然涙が溢れた。
デリーの交差点で腕や脚が無い人に金を要求されても、ボンベイ(現ムンバイ)のビニルシート集落を目の当たりにしても流れなかった涙。
高い金網の向うに星条旗がはためいていた。
アメリカの家族連れが、安い酒を買いメキシコ料理を食べに”遊びに来る”国境の街の日常。道路には、南から来たイミグレーション待ちの車列。家財道具を積んだ埃まみれの旧式が目に付く。
理不尽が立ちはだかった。
サッカー日本代表がドーハの悲劇で初出場を果たせなかったワールドカップアメリカ大会は、前年の94年。
ジョホールバルの歓喜で手にした切符は、4年後のフランス大会。
僕の旅の興味もヨーロッパへ向かった。