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走る情熱、紺碧の海
濃いブルーの海が広がっている。
遠く数百m先に湧き上がった白い波は、一定のリズムでこちらに寄せては引いていく。水平線には雲がぽつぽつと遠慮がちにたたずみ、透明感のある水色の空がグラデーションで濃くなりながら宇宙に続く。
横になって目をつぶった。波の音に混じって、背後から妻と娘の声が聞こえる。この後のランチのお店の相談をしているようだ。
ほんの30分ほど前、ゴールに倒れこんで立ち上がれなかったのが噓のようだ。42kmの道のりが遠い昔のことのように思い出された。
青島太平洋マラソン
2024年12月8日、第38回青島太平洋マラソンには約1万人のランナーが参加している。スタートはひなた宮崎県総合運動公園。すぐ東には青島の美しい海岸が南北に伸びている。
コースはここから一路、北へ進み市街地を抜けて16㎞を過ぎたあたりの宮崎神宮で折り返す。スタート地点の運動公園に戻ったところで33㎞。そこから海岸沿いに南に進んで青島が目の前に見えてきた辺りで最後の折り返し。運動公園にゴールすると42.195㎞となる。
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今日の天気予報は晴。気温は最低4℃、最高14℃。北西の風5~6m。気温はそれほど上がらないのでありがたいが、風が強いのは気になる。16km地点の折り返しまでは北に向かうので向かい風。前半は無理にペースは上げず、折り返してからペースを上げていきたい。
不意に自分の名前を呼ぶ声がして振り向くと、フェンスの向こうで妻が手を振っていた。
「何時ごろに戻ってこれそう?」
「目標は12時20分。でもどうなるか分からない」
「わかった。青島の海岸でバードウォッチングでもしておくわ」
妻はそう言って笑った。リュックにはいつもの双眼鏡が入っているようだ。
風と椰子の木
午前9:00。スタートの号砲とともに前方のランナーが動きだした。
ランナーは事前のタイム申告順にS~Eの6グループに分かれて整列している。私はAグループ。並んでいる場所からスタート地点までは200mほどだ。周りのランナーに合わせて私も進みだした。
「じゃあね」
「ありがとう」という言葉が届いたかどうか。妻の姿が目の端から消えた。
スタジアムの外周を進んでスタート地点に到達した瞬間、北西の風を直接受けた。なるほど、この向かい風の中を16㎞まで進むのだなと思った。
あらかじめ風の向きと強さを考えてペース配分を考えていた。左手首に目をやって、ボールペンで書き込んだ数値を確認する。各地点までの累積時間だ。風を考慮した場合とイーブンペースの場合の2パターンを書いている。
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40㎞の地点で3時間8分前後。42.195㎞の道のりを3時間19分でゴールする計算だ。
コースはほどなくしてバイパスに上がった。遮るものがなく左前方からの強い風を受けた。道路沿いに立ち並ぶ椰子の木も風に煽られて一斉に右に傾いている。
できるだけ集団の中に入って風を受けない位置をキープしたい。そう思うもののペースの合う集団がなかなか見つからず、いつの間にか単独走になっている時間も多かった。
ペースは最初の1㎞こそ混雑のため5分ほどかかったが、その後は04:44/kmで安定した。予定通り。バイパスは左にカーブしながら北に向かって伸びている。その向こうに続く青い空と山の稜線が美しい。
10km地点で左腕のメモを見た。47分39秒。時計は48分2秒。少し遅れているが原因は最初の渋滞だから、距離を踏みながら少しづつ取り戻していけるはずだ。
沿道からは、地元の方々の大きな声援が聞こえてくる。特に高校生のボランテアの皆さんの応援が際立つ。今日は3,000人の高校生が活動しているそうだ。給水所で水やスポーツドリンクの準備をしたり、応援団やチアリーディングなどのパフォーマンスを披露してくれたり。ありがたい。応援はいつもチカラになる。
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市街地に入った。ビルの影響のためか風向きが頻繁に変わる。北に向かっているはずだが風がなくなる瞬間が何度かあった。追い風になっているのだろうと少しペースを上げてみる。
13㎞あたりでチームで走っているランナーがいた。2人がペーサーになってその後ろに3,4人のメンバーがついていた。とても雰囲気が良かったのでしばらく隣で走らせてもらった。ペーサーはタイムや風向き、この先のコースの状況などを話している。単独で走るということは、これらのことを一人頭の中で考え続けるということなので、それだけでもエネルギーを消費する。ペーサーとともに走るというのは本当に心地よい。
しばらく並走していたが、今は風が弱まっている。せっかくのペースアップの機会を逃したくないと思い、数キロほどしてチームから離れた。
初めて足の疲労を感じたのは16kmを過ぎた頃。疲れるには早過ぎると思い、時計の心拍数を確認すると167まで上がっていた。ペースアップが原因だろうか。心拍を落ち着かせることで疲労感は抑制できる。ピッチに合わせて長く息を吐くことを意識していると心拍は150台に落ち着いていった。
心肺機能は問題なさそうだ。でも筋力の疲労感はやはり気になる。昨日、宮崎への移動時に重い荷物を持って歩き過ぎたか。1日の歩数は12,400歩だった。フルマラソンの前日にしては歩きすぎた。どこまで足が持つだろうか。そう考えながら宮崎神宮の前で折り返した。
上がらない足
コースが南向きになると完全な追い風になると思っていた。予定ではここから徐々にペースを上げて04:35/kmで走ることにしている。
でも上がり切らない。風が回っているのか向かい風になる時間も多い。ストライド(歩幅)を伸ばしてペースを上げようとするがせいぜい04:42/kmまでだ。
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メインロードから左に折れて、宮崎県庁前のクスノキの並木道に入った。ここは500mほどの区間だが往路、帰路ともに折り返すところなのでたくさんのランナーが行き交う。顔つきはそれぞれ多様だ。笑顔の人もいれば、苦悶の様子の人もいる。知り合いのランナーと行き交ってエールを送る人もいた。
20㎞。左腕を見ると1時間35分18秒と読めた。時計を見る。1時間35分16秒。予定通りの時間だ。
でも足の余裕はなくなってきている。計画ではこのあと37㎞地点まで04:35/kmペースに上げていくことにしている。そこまでは上げられないなと思った。
足が重くなっていくのがわかる。頭の中で目標を3時間20分切りではなく、3時間22分の自己ベスト更新に切り替え始めた。今のところトータルの平均ペースは04:46/km。無理にペースを上げず最後までキープすれば自己ベストは狙えるはずだ。
21㎞の大淀川を過ぎてしばらく進んだあたりだったか。反対側の沿道に立っていた高校生の1人が大きな声で歌い始めた。
「誰にも見せない 泪(なみだ)があった」
周囲の10人ほどの高校生たちが後に続いた。
「人知れず 流した泪(なみだ)があった」
「栄光の架け橋」の大合唱が始まった。通り過ぎた後も背中越しに歌声が響いてくる。じんと来るものがあってしばらく余韻に浸りながら走った。
30km。左腕に書いた文字は2時間21分30秒。時計は2時間23分34秒。何とか04:50/kmを下回るペースは続けられている。かろうじて自己ベストを狙えるタイムではある。
コースは再びバイパスに戻っている。往路では気づかなかったが緩やかな起伏を繰り返す。登りではペースが落ち、下りになっても戻り切らない時間が増えている。今は追い風のはずだ。背中を押されている気配は感じるのにストライドが伸びない。
道路沿いに立つ椰子の木が青空に映えて綺麗だった。
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目の前でとても軽い走りをするランナーがいた。背丈は私とそれほど変わらないがストライドはとても広い。私の1.5倍はありそうだ。フォアフット(足裏の前部)でそっと着地するので足音が聞こえない。ゆったりとしたフォームで一定のペースで走り続けている。息も上がっておらずジョグをしてる雰囲気だ。こんな走りができるようになりたいなと思った。
左にスタジアムが見えてきたところでバイパスを下る。ペースは05:00/kmまで落ちた。足裏が攣りそうな気もする。
自己ベストをあきらめると目標を見失って気持ちが前向きにならない。ストライドを気にする余裕もなくなっていく。引き続き追い風のはずだが、ペースは落ちていく。他のランナーにも抜かれ始めた。
海岸沿いに出ると太平洋が見えた。でもすでに感情は消えつつあり、海の青さに心が動かない。ただ、何があっても歩きたくない。そう思って走っている。
ゴールの先に
37km。青島が目の前に近づくと最後の折り返しだ。身体の向きが180度変わった瞬間、強風がぶつかってきた。
自己ベストの可能性はすでにないが、ふとサブ3.5(3時間30分切り)は守れるかなという気持ちが芽生えた。自分へのせめてもの「お土産」として。
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何度かの起伏を超えるとスタジアムが見えてきた。
40km。時計を見た。3時間15分52秒。
残り2.2㎞。ペースは05:45/kmまで落ちているがこれ以上ペースダウンしなければサブ3.5は守れそうだ。
41kmを過ぎてスタジアムの外周に入る。
「あと500m」の看板が見えた。
早く楽になりたい。それだけ考えて足を前に出す。フィニッシュのゲートが見えた。残り100m。時計を見た。3時間29分。何秒かは見えなかった。
ペースを上げて前のランナーを抜いた。腕を振ることで足を前に出す。顎が上がる。理想のフォームからはほど遠いがどうしようもない。
あと、20m、10m。フィニッシュゲートをくぐって時計を止めた。
タイムを確認する余裕もなくひざまづいた。地面にへばりつくように両手を投げ出す。1分、2分・・・後続のランナーの邪魔になると思って立ち上がった。とぼとぼと歩きながら時計を見た。3時間29分48秒。
サブ3.5は守れたんだなと思った。
+ + + + + +
名前を呼ばれたのでフェンスの方に目をやると妻が笑いながら手を振っていた。
「そんなに土下座しなくてもー」
ゴール直後に長い時間ひざまづいていたことを言ってるらしい。
自分の姿を思い出して思わず笑った。妻の隣で娘も笑っている。応援に来てくれたようだ。
スマホを向けられたのでピースサインをした。
「動画ですー、一言どうぞ!」
少し考えて、「ありがとうございました」と言って頭を下げた。
2人がまた笑った。
いいところを見せられなかったなと考えていた。でも2人は記録などにそれほど関心はないのだ。価値観の違いは時に人の気持ちを楽にしてくれる。
娘の車が海岸沿いに停めてあるというので歩き始めた。1㎞ほどの距離が長くて私は2人から遅れ、何度も休みながら歩く。
20分ほど進んだ頃、松林の奥に2人の影が見えた。そしてその先に海が広がった。
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私は横になって目をつぶっている。暖かい陽射しと波の音が心地よい。先ほどまでの時間が遠い昔のことのように思える。
背後から私を呼ぶ声が聞こえた。
「ランチは海鮮丼に決まったよー」
ありがとうと言って立ち上がる。
ネガティブな気持ちがすーっと消えていった。そして、また走ろうと思った。