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重ね煮ヒストリー(1)初めての出産・育児は苦しかった【病院通いの薬漬け生活】

今日は
私の重ね煮ヒストリー(第1話)を
お届けします♡


①妊娠5か月で日本一の小児科病院へ・・・

私は27歳のときに
第1子となる娘を妊娠しました。

ウキウキ気分でベビー用品を揃えたり
育児書を読んだりしていたのもつかの間。

安定期に入った頃の健診で、
医師から思わぬ言葉を
かけられます。

発育が極端に悪い。うちでは診られないので、
大きい病院へ紹介状を書きます。」

「何か重大な病気があるのかもしれない。
立てない、歩けない子の可能性もある。」

金属バットで頭を殴られ、
どん底に突き落とされたような
気持ちでした。

毎日フルタイムで働いていた私。
急に仕事に身が入らなくなり、
当時の上司によく怒られました。

そんなある日、はじめて
かすかな胎動を感じたのです。

「この子は必死に生きようとしている。
だから、医師に何を言われようが、
私はこの子の生命力を信じよう」
そう心に誓いました。

②38週1900グラム、緊急帝王切開で出産

それからというもの、
毎週大きな病院に通い続け、
発育の状況を見守る日々でした。

そして、38週1900グラム
ピタリと成長が止まってしまった娘。

このままでは、母子ともに危ないということで、
その日に緊急帝王切開で出産することに
なりました。

産まれてきた娘は
手のひらに収まるほどの小さな体。

すぐにNICUに入院となり、
直接母乳をあげることが
叶いませんでした。

搾乳した母乳を瓶に入れて
NICUに通う日々。

1900gの小さな体


小さいけれど、泣き声は力強い。
懸命に生きようとする姿に
涙があふれました。

幸いにも、
大きな病気は見つからず、

産まれて3週間後に、
無事退院することができました。

③地獄の入院生活


初めての育児に
日夜奮闘していた
生後3か月のとき、
産院の健診で、娘に病気が見つかりました。

そして、10か月のとき、手術のため
2週間の入院が必要となりました。

もう、その時のことを思い出すと
未だに胸が苦しくなります。

●狭いベビーベッドから出られない。
●遊べないし、身体も動かせないから、1日中ずっと不機嫌。
●1人で手術室に連れていかれるときの、恐怖に満ちた表情。
●術後の痛みに苦悶し、グッタリした姿…


術後の姿


くわえて、
当時は、コロナの1回目の緊急事態宣言が出た頃。
病院の緊張感は尋常ではありませんでした。

付き添いの私は、
●2週間、病院から外出できず。
●食事は院内の売店のお弁当のみ。
●夜はガチガチの長いすで仮眠…

授乳が急に不規則になってしまったため
乳腺炎となり、

食事と睡眠が乱れたことから、
お腹の調子を崩すようになりました。

(その2か月後、潰瘍性大腸炎と診断されます)

それでも、
手術は無事に成功、
地獄の2週間を乗り切り、
退院することができました。

④小児科通い 年15回


辛い入院生活も乗り越えて、
順調に成長していった娘。

私の育休も終わり、
保育園に通い始めます。

すると、
次から次に感染症にかかるようになります。

インフルエンザ、RSウイルス、
アデノウイルス、ヘルパンギーナ、
溶連菌、手足口病、コロナウイルス・・・

高熱が出て、なかなか治らない。
そして、必ず中耳炎や気管支炎をこじらせる。

夜間に咳が止まらず呼吸困難となり、
3度も救急搬送されました。

3歳~4歳のあいだの
小児科通いは年15回・・・

たびたび高熱を出していた



私はたびたび
看護休暇で仕事を休まなければなりませんでした。

けれども
やるべき業務は積みあがっていく…

業務を持ち帰らせてもらい、
娘を寝かしつけた後、
夜な夜な仕事をこなしたりしながら

綱渡り状態で
何とか生きている
日々でした。

潰瘍性大腸炎を発症してしまった
私のお腹は、
常に不安定。

娘が体調を崩すたびに、
心配や疲れ、睡眠不足が
お腹の症状となって
出てきてしまう。。。

激しい下血に悩まされ、
体重は35キロまで落ちフラッフラに。

処方されていた薬は、
なんと1日12錠

医師からは
「一生治らない難病」
「薬を飲み続けないといけない」

と言われ、

それまで健康を自負していた私にとって、
こんな絶望的なことは
ありませんでした。

(第2話に続きます→)


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