運動の前提

今まで考え方とか習慣とか、食事のこととか、本職である理学療法士としての内容はあまり触れてこなかった。

というのも理学療法士と聞いたとき、大抵の人はこういうイメージを持っているなというのを実感しているから。

「運動、リハビリの人」
「人を治す人」

一見するとあながち間違いではない。
というより、2・3年前までそういうイメージを自分も持っていた。

ただ、どうもここには非常に大きな誤りがあり、だからよくなる人、よくならない人が分かれてしまうのではないかと色々な面からみたときに感じるようになった。

まず、そもそも我々の体というのは何からできているか。
6割から7割方は水分であり、あとはたんぱく質とか微量な栄養分である。

人も含めて、生物全体として「細胞」が集まってできている。
単細胞生物も含めて、有機物とよばれるものである。

そのうちの動物と呼ばれるものにジャンルを分類すると、生きていくには水と空気とエネルギー、すなわち外から何かを毎回摂取しない限りは生きることが継続されないことになる。

そして人間というところまで落とし込む。

人もまた、食べて飲んで呼吸して生きているが、それだけではただ生きているだけで他の動物と何ら変わらない。

そこに加えて感情であったり、言葉であったり、理性であったりと、より高度な能力が付与されている。

人それぞれにはそれぞれの好みがあるから、好みが近しいもの同士で共同体を作りたがる習性ももっている。

…大分学術的になってしまった。
てか最後の2ブロックくらいは余計でしたね。

話を戻すと、生きていくために必要なことをするために体を動かすことが必要になってくる。

それこそ「なぜ運動をするのか」というところなのだが、やはり「生き残り続ける」ために本来あるはずなのである。

ずっと昔は狩りをしたり、木の実を採取したりと、生活の中に運動が常に関わりがあった。

それが動かなくても生き残れるようになった今だと、運動というものがどうも「スポーツとか特別なことをしている人」のものであるかのような錯覚をしている人がどうも少なくないのではないかとおもうようになっている。

だから人のことを運動単体でみるよりも、そこに付随するものは何か、なぜその運動をする必要があるのかということを考えるようになった。

確かに運動の仕方、体の使い方で動きがよくなったりするのは間違いありません。

しかし、本当に運動「だけ」みたところで本当にいいのか?というのが本音です。
特に病院で働いていた頃は、結局目の前でやれることというのが運動の提供でしかなく、背景をイメージしようにも実際にみていないから本当はどんな習慣を持っているか、どんな生活を送られているのか、どんな人と関わっているのかというところがわかりづらいところが強かった。

また理学療法士という資格が、相手からの期待がどうしてもそういう「運動」であったり「体の使い方」であるところからという視点になり、自分も無意識のうちに引っ張られているようになってしまう。

そうしているうちに、本質的な問題にまでいかなくなってしまう(もちろん、自分の引き出す力の問題もあるかもしれないが)。

ここで言いたいのは、

運動とかはあくまで枝葉の1つに過ぎない

ということである。

本当に必要なところは、
運動をする前段階としての
「考え方、無意識のなかでの習慣、環境」なのだと自分は考えている。

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もなりん
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