創造における才能とは、自分への理解度のこと
こちらの後半を視聴。感激で、胸がいっぱいです。ありがとうございます。
後半は、CQについてさらに掘り下げたお話になっていました。物語に期待と満足をうむ、CQの設定。CQがどれほどに重要な要素か、後半のたちばなさんのお話に、納得の嵐です!すごい!
かいつまんで、私にとっての発見・共感ポイントをピックアップします。創作をされる方は、「物語のつくり方」ぜひぜひ視聴してみてください。創作しない私でも、後半はさらに胸アツになりました。まさにクライマックス感、たっぷりです。
1)テーマとは、作り手の内側から生まれる「問い」
物語のテーマは何か?より良いテーマは何か? とはよく問われることですが、たちばなさんはこれを「問い」と言いかえます。
「問い」、それは「仮説」とも言い換えられます。そして、それは「なぜ二人は結ばれないのか?」という安直なものではなく、作り手の内側から生まれる問い、切実な悩みである必要がある、と。
自分が持っている切実な問いがあるからこそ、受け取り側との共感を呼ぶ。創作の基本、ここにあり、ですね。
作り手が持っている切実な問いは、自分を掘り起こすことでしか出てきませんね。もしかしたら他の人には見せない「問い」なのかもしれないし、それが自分の本質的な問いであればあるほど、自分というものをあらわにしていく。創作は、そういった自分を曝け出していく行為を可能にしていくものだと感じます。
2)創作の才能とは、自分への理解度のこと
後半は、1秒たりとも聞き逃すことのできない、御数珠にしてお守りにしたいくらいの言葉が続きました。
このトークイベントで最も感動した、私にとってのクライマックスは、たちばなさんが「創造性が、才能やセンスといったものに閉じ込められるのは許せない」とおっしゃったところでした。
創作というものに対する、誠実な愛を、私はこの言葉に感じます。同時に、一部の人に限定するのではない、創作の可能性を広げようとする熱意と好奇心をひしひしと感じました。
CQの設定、そして、それが切実なる作り手の問いであることを踏まえれば、創造性とは、自分への理解度そのもの。自分を知る必要があるし、それによって世界を知る必要があるということ。
ゼロから何かを生み出す特別なことが創作なのではなく、自分と真摯に向き合うことであり、世界と向き合うリアルそのものだと教えられたような、ワクドキを感じます。
リアルを生きる自分と、物語というフィクションの世界。それは、実は分離しているものではなく、綿密に重なり合い、呼応しているものなんですね。
だからこそ創作とは、その間をせめぎあうことであり、その間で自分を知る作業であると、たちばなさんのことばを私はそう理解しました。
それって、決して気楽にこなせることではないとも思います。
だからこそ、創作は面白い。なぜなら、それが必ずしも嘘っぱちではないからです。嘘ではないということは、生きていることそのもの。
書いていると、本当にそう思うんですよね。嘘が書けない、というか、自分がどうあがいても出てしまうというか。どんなにその人を描こうと思っても、自分なしにはその人を描くことはできない。
それが「問い」という切実な自分の奥深くの悩みや疑問と呼応し、それによって描かれた創作はまた、受け手自身の深い「問い」と呼応する。
物語はそうやって、現実を生きるひとの想いのなかで作られ、継承され、刷新されてきたのだなと。
うーん、やってみようかな。私には才能がないのではなく、自分への理解度が低いだけなのだと思ったら。もっと自分を知りたいですし、もっと自分を理解してあげたい、物語をつくることは、その手段であると思ったら。
というわけで、ちょっとだけ構想している案件を、物語に落とし込めるのか、、、何事も挑戦、やってみようと思います。
たちばなさん、noteイベント企画の皆様、素晴らしいお話と機会を、本当にありがとうございます。
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