「ここまでやれるわけがない」。絶望と希望と、私にとっての書くということ
読み終えたばかりなので、言葉というよりただ熱量だけが残っている。
文字通り、ライターという仕事への情熱で熱せられたバトンを、本書を通じて私も受け取ったような。いや、受け取ってしまった、という方が近いのか。そして、このバトンを私はどうするのか、という新しい謎を残して。
「推敲」について述べられた最終章。「書く」こと以上のエネルギーが注がれているように感じた(実際の作業においても)。
書き手としての自分を、どこまで客観視できるか。
どこまでリセットを許容できるか。
読み手のプロである編集者と、どこまで勝負を仕掛けられるか。
自分であって自分ではない視点を、どう作っていくか。
書き手である「自分」を、徹底して脱ぎ捨てていく手法と思考、プロセス。
恐ろしい章だった。
全てを読み終え、やや呆然としている。
全てを語り尽くそうとするエネルギーが、最終行に至るまで私を打ちのめしてくるのに、読み終えた今、喉元にこみあげてくるものがあるのはなぜか。
これは、いわば、絶望です。
こんなこと、私にできるわけがない。
ここまでのことを、ただ書くのがすきだっただけの、私にやれるはずがない、という。
途中、何度もそう思ったのだ。この本は、私の身の丈にあっていない、と。
取材もした、書いてもきた。
推敲も編集も、経験はある。
でも、こんなことができるのは、一部の優秀なライターさんだけで、私のやれることじゃない。
そう思ってはみるのだけれどページをめくる手は止まらず、同時に、「徹底的に考え抜け!」という語り口は、1ページも緩むことがない。
それでもやるのだ! ここまでやるんだ、やってこそライターなんだ!
追い込みはいつまでも続き、こんな本を嬉々として手に取ってしまった自分が恥ずかしくなっていく。
けれど、最後の最後、古賀さんはこう語りかけたのだ。
書くことに向かう自分に。読者である私に。
「お前なら、もっとやれるだろう?」
「お前の力は、こんなもんじゃないだろう?」
感情論でも、自己啓発でもない。
ロジックで。
小手先のテクニックなどではなく、考え続けるための闇、自分の中のブラックホールを提示してくれたような本。
私の中には、今、ライターという仕事に対する、絶望と希望が一緒くたになって、在る。
書くことに魅せられて、半ばしがみつきながらこの仕事を続けてきた自分が、この本を読んでしまった意味とは。
受け取った膨大な情報量と熱量。
そして、こんな自分に、「もしかしたら、できるのかもしれない」という光が差していることに、とんでもなく打ち震えている。