米澤穂信と青春の残り香
小学生の頃から本の虫だった。朝、登校と同時に図書館によって本を借り、昼休みには読み終わってしまうので別の本を借りにいく。上級生の図書委員に「同じ日にはもう一冊は借りられない」と言われて「そんなのルールに書いていない」と食ってかかるような子どもだった。
好き嫌いなくなんでも読むのだが、特に気に入っていたのはミステリだ。今では主要な作品は大方読み終わり、よくあるトリックが出てくると「このタイプか」と予想がついてしまう。けれど、それをたしかめるように読むのもまた楽しい。とはいえ、基本的には自力で謎を解こうという気はさらさらない。むしろ、騙されたい。緻密なトリックや伏線で驚かせてほしい。きれいにあざむかれ、伏線が見事に回収されていくのを見届けたときには、清々しい気分で本を閉じることができる。
好きな作家を一人挙げろと言われたら、散々迷った挙句「米澤穂信」と答える。代表作である『満願』が史上初のミステリランキング3冠を達成したベストセラー作家だ。最近の作品には、ビターな大人向けのミステリが多い。しかし、私が特に好んで読んできたのは、彼のデビュー時期から続いている、「青春ミステリ小説」の作品群だ。
本はあまり読まないという人でも、テレビアニメ化された『氷菓』のことは聞いたことがあるかもしれない。米澤穂信のデビュー作である『氷菓』から始まる『〈古典部〉シリーズ』は、無気力な男子高校生・折木奉太郎と、同級生の清楚なお嬢様・千反田えるを中心とする青春ミステリ小説だ。探偵役の奉太郎は「省エネ」を自称し、自ら謎を求め解き明かしたりはしない。好奇心旺盛なえるにせがまれて謎解きをしていくうちに、奉太郎のもとに謎が持ち込まれるようになる。そうして奉太郎とえるが所属する古典部は、たいていの場合は解いても解かなくても差し支えないのような、校内や町内のちょっとした謎を解き明かしていく。
このような「日常の謎」と呼ばれているジャンルの小説は、安心して楽しむことができる。昔は殺人事件が起こるようなミステリをよく読んでいたのだが、あるときから「人が死ぬ」ことが物語のギミックとして使われることに違和感を抱くようになってしまった。事件に遭遇するタイプのミステリを読み始めたら、まず「誰が死ぬか」を考え、「この人も死ぬ」と察知し、「怪しかったけど死んだ」と容疑者から除外し、生き残りの中から犯人を推理する。改めて考えてみると、ずいぶんと非人道的な思考だ。
こうしたミステリには、独特の不自然さがつきまとう。旅先でうっかり殺人事件に巻き込まれたり、外界から断絶された場所に殺人鬼と一緒に閉じ込められたり、密室のドアを破ったら死体を発見したりなんていう大事件は、一生かかってもそうそう出くわすものではない。それなのに、シリーズもののミステリでは、こうしたことが同じ人の身にたびたび起きるのだ。25年以上連載が続いている頭脳は大人な小学生探偵マンガの作中では、最初の事件からじつはまだ1年も経っていないにもかかわらず、死者は600人を超えている。米花町は大変な犯罪都市だ。
フィクションとして割り切って楽しめばいいのかもしれない。しかし、謎解きの楽しみのために、人が死ななくてもいいじゃないかとも思うのだ。そこで「日常の謎」である。日常生活で起こる謎を解明していくことが中心のこのジャンルでは、殺人はまず起こらない。しかし、謎解きの過程の緻密さは、殺人事件の推理と遜色ない。こうした謎解きと青春は、存外に相性が良い。謎が無意味であればあるほど、そこに青春を感じずにはいられないのだ。どうでもいいことに悩み、ああでもないこうでもないと知恵を絞り合う。謎に向き合う無為な時間は、青春そのものだ。読んでいるあいだ、私は青春のおこぼれにあずかっている。
『〈古典部〉シリーズ』の中のお気に入りは、第5弾の『ふたりの距離の概算』だ。この巻での謎は、「古典部に仮入部していた新入生はどうして本入部を辞退したのか」である。入部は確実だと思われていた新入生の大日向友子は、突然入部を辞退した。その理由はえるにあるらしい。責任を感じたえるは自分でこれを解決しようと、大日向と最後に交わした会話の内容を明かそうとしない。奉太郎は珍しく、自らこの謎の解決を決意する。そして、よりによって20キロの校内マラソン大会の走行中に情報収集と推理を終わらせ、解決編まで持っていこうというのだ。大会の記録や順位はそっちのけでだらだらと走り、後からスタートした古典部員が追いついてくると、並走しながら話を聞き、まただらだらとペースを落として、次の部員が追いついてくるのを待つ。こんな事情聴取の方法を思いつくのは、やる気のない男子高校生だけだろう。
これが謎として成立するためには、「えるが大日向が辞める原因になるはずがない」という前提がなければならない。つまり、奉太郎は「えるが人に害をなすはずがない」「何か誤解があるはずだ」と信じているのだ。古典部員の一人ひとりから話を聞き、大日向が入部を辞退した理由を考え、問題を解決しようとする。推理という体をとっているが、奉太郎はえると大日向の間を取り持とうと文字通り奔走しているのである。
しかし、奉太郎は多くの「探偵」たちのように、謎解きと解決を混同してはいないだろうか。ミステリの殺人事件は犯人を当てることで解決するが、謎解きと解決は本来別ものだ。大日向が入部を辞退した理由を当てることができたら、問題が解決するわけではない。どうしたら解決したといえるのかを、自分で設定しなければならないのだ。謎解きの後に本当の問題に向き合う姿が描かれる奥行きもまた、「日常の謎」の魅力だ。
『〈古典部〉シリーズ』と同時期に始まった『〈小市民〉シリーズ』も、米澤穂信の代表的な青春ミステリ小説だ。私はこの2つのシリーズの続きが出るのをずっと心待ちにしているのだけれど、米澤穂信のデビュー20年が経った今もなお、どちらのシリーズも完結の目処が立っていない。『〈古典部〉シリーズ』の最新刊が出たのは2016年、『〈小市民〉シリーズ』は2020年だ。つい最近じゃないかと思うかもしれないが、『〈小市民〉シリーズ』はこれがじつに11年ぶりの最新刊だったのだ。しかも、それまで『春期限定いちごタルト事件』『夏期限定トロピカルパフェ事件』『秋期限定栗きんとん事件』ときて、あとは「冬期限定」の完結を待つばかりと思ったところで発売されたのは『巴里マカロンの謎』という短編集だった。11年も待っていたのに、完結編じゃないなんて!
好きな作家の新刊が出ることはいつだって喜ばしい。だけど、ついつい期待してしまうのだ。次こそは『〈古典部〉シリーズ』を、『〈小市民〉シリーズ』を、彼らの青春の続きを、と。新刊が発表されるたびに、「今回も違った」「また新シリーズ!」「青春ミステリなのに〈古典部〉じゃないなんて......」と翻弄され続けている。やきもきと待っているうちに、米澤穂信の作風はぐっと大人向けになり、私も青春の日々からずいぶん遠ざかってしまった。青春の残り香のようなシリーズの完結を、私は見届けることができるのだろうか。そして、もう一度彼らに会えたときには、昔のような顔をして青春のひとときに身を任せることができるだろうか。