なぜ、アートで自分を知ることができるのか。 アートを楽しみながら、自己理解を進める3ステップ
アートを起源まで遡ると、アートの役割は、古今東西、共通することもあればその土地で独自に発展した部分もある。それは言い換えると、人類共通の本質的な欲求を表現していたり、その逆で、その国特有の文化や価値観があったからこそ表現された世界があったりする。
それらを発見するのは、とても面白い。
時代別にアートの役割を知ると、その時代のその社会のことが、リアルにわかってくる。それは、私たちが歴史を文字で学ぶより、より一層、豊かな想像力を掻き立てる。
一方で、そういった時代背景や、描かれた神話とか教義とか、歴史的事件などの知識や文化の違いを意識せずに、ただの作品として観賞する、という方法もある。
どんな時代のどこの国の作品であっても、作品に対する知識を必要としない楽しみ方もできる。
今回は、アートの楽しみ方の一つとして “アートを活用して、自分を知る方法”を3ステップで紹介したい。
※アートの定義は様々ですが、今回のnoteでは絵画をイメージして書いていきます。
Step1:“ムズカシイ、ワカラナイ”という感情を捨てる
もし、アートを楽しみたいと思う一方で、アートは “難しい”とか、“わからない”という感覚を持っている人がいたら、まずはその感覚を払拭したい。
そういう感情は、目の前の作品と向き合う(見ること、観察する)ことを阻むからだ。
それは、例えるなら人間同士のやりとりと同じ。「あなたのこと、もうわからない、理解できないわっ!」と思いながら、相手の話を真摯に聞くことはできない(ちょっと、このセリフでは感情的すぎるだろうか。言い争いのイメージ、心の中で毒を吐くような、知ろうとはせずに、跳ね返してしまう感じ)。
逆に、「あなたのことをわかりたい、知りたい、何か共感ポイントがあるかも..」と寄り添う気持ちの方が、真摯に耳を傾けられるし、相手の理解は進むと思う。
だから、アートが“難しい”とか“わからない”となってしまう気持ちを紐解き、拭って、まっさらな気持ちで作品と対峙できるようになりたい。
アートが難しい、わからないと感じるとき、一般的な心境はこんなイメージではないだろうか。
一、作者が何を表現したのかわからない
一、作者のメッセージがわからない
一、描かれている内容(宗教、神話、歴史等)を知らないから楽しめない
一、上手い下手の判別がつかない
一、見ても、何の感情も沸かないから、どうしていいかわからない
これらは、今、私がざっと思いついたものだけど、かつて、昔の私が感じていた正直な気持ちだ。
でも、これらの感覚感情は、こんな風に分類し、それぞれこう捉えることができる。
<現代アート>
一、作者が何を表現したのかわからない
作者自身もわからない可能性有り。モヤモヤしたままに、それを色で表し、形で表し、自分のモヤっとしたイメージのままに、具体化なんかせずに制作しているかも。
一、作者のメッセージがわからない
作者自身、メッセージが言語化されておらず、思いつくまま制作しているケースも多々ある。言語化でき、さらにそれを表現することができれば、それは作家だ。言葉で表現することが苦手な人、あるいは、アートで表現することが得意な人がアーティストだ。
<昔の作品>
一、描かれている内容(宗教、神話、歴史)を知らないから楽しめない。
まず、あなたは、目の前の作品は、宗教や神話が描かれていると知っている(あるいはわかっている)。それだけでも、知性に溢れている。だけど、それ故に、“わからない”と反応し、見る行為を拒否しているかもしれない。物語を知らなくても、描かれたものを観察すると、その前後のストーリーは自分の想像でも描ける。それくらい、あなたの想像力は豊かだし、絵は細部にまでこだわって描かれている。そこで描くものは、宗教や神話や歴史のストーリーでなくてもいいのだ。自由だ。
<アート全般>
一、上手い下手の判別がつかない
ディーラーでもブローカーでもない限り、目利きである必要はない。それに、例えば上手い絵、上手な作品だけが、ミュージアムに並ぶわけではない。上手い作品だから、高額な値段がついているわけでもない。
世界を驚かせ、世の中の常識を変えた作品、誰も思いつかなかった視点、誰もできなかった表現、そんな作品は、必ずしも“うまい”作品ではない。とってもヘンテコで、アウトローで、まともな常識人には理解不能なものがいっぱい。価値あるものとは、技術的に優れているモノ、上手なもの、万人が良いと評価したものとは限らない。
その絵がとても高価である理由は、過去、どうしても欲しい人が、どうしても自分のモノにしたくて、誰にも払えない価格を提示したから、、それだけのことかもしれない。その作品を欲しくない私にとって、その価値はわからない。その価格ほどには…。
一、作品を目の前に、何の感情も沸かない。どうしていいかわからない。
目の前のそれは、あなたに響かないものだった。ただ通り過ぎればいい。ただ、それだけのこと。
(それって、例えば、親友のAさんが大好きな芸能人“岡村隆史さん”と道で遭遇したとき、Aさんは、感動して走り出す。私にとっては、ただの人。通り過ぎる。みたいな話なのだ。
ミーハーな気持ちになれば、ちょっと近くに寄って、生のオーラを感じてみる。絵画でも、有名なものには、ちょっと近寄ってみる。だけど、 響くか響かないか、自分の感じたままでいい。
好みとか、人生観とか、生い立ちとか、色々な要素が関係していて、タイミングや、年齢にもよるし、良い悪いもない。完全に“自分にとってどうか”の自由な世界でいい。)
これで、むずかしいやわからないが払拭できただろうか。
そうしたら次のステップへ。
Step2:情報を纏わない、素の作品を見る(それは観察)
アートは動かないし、喋らない。
だから、見る側が想像力を働かせることになる。
その想像の世界を膨らませるのに、作品にまつわるエピソードや作者の生い立ち、人生遍歴、時代背景、制作当時の作者の境遇や心境なんかを知ると、イメージが描きやすい。
作品単体ではなく、壮大なストーリの中の一部として楽しむような感覚に近いかもしれない。
だけど、そんな一切の情報なしに楽しむ。単体で楽しむ方法。
それはつまり、情報源は、目の前の作品とタイトルのみ。
(タイトルは、最後まで知らない状態で楽しむこともアリだ。)
とにかく、見る、観察する。
パッと見て、目に飛び込んでくるものは何か。
遠くから見て、目立つものは何か。あるいは遠目で見て、初めて浮き上がってくるようなものはあるか。
細かく描かれている部分はあるか。
描かれているモノ同士、共鳴しているものはないか、関連しているものはないか。
異質なモノはないか。
例えば、自分が模写する程に観察してみる。
制作している作者の身体に憑依した感覚で、筆跡を追って、心の中で描いてみる。
そんなイメージで見る。
過去、こんな体験はないだろうか。。
「作品をよく見てください。」
と言われて、”何をどう見ればいいのかわからない”、”すぐ見終わって手持ち無沙汰になる”。
人(の脳)はとっても素直なもので、言葉を字面通りに受け取る。
“見てください”に対しては、一瞥しただけでも“見た”になる。
だけど、「観察してください。」となるとどうだろうか。
小学校のとき、ひまわりの観察日記を描いたイメージに近い。
茎の細かい毛や、葉脈、花粉の粉まで描く。
対象を隈なく見て、どこがどうなっているか、パーツ毎にチェックし、どう重なり、ジョイントはどうなっているか、細部はどうなっているか、近づいて見て、全体を見て、後ろも見て、隠れているところもチェック、、観察とはそんな行為だ。
素の作品を見るとは、もう限界というくらい観察する行為と思って欲しい。
Step3:“作品”と“感想”と“自分”を言語化する創造的楽しみ。そして、他者理解の楽しみ。
“素の作品を楽しむ”とは、結局、何を楽しむ行為か。
それは、作品を媒介にして、言語化を楽しむ行為だ。
言語化の手順はこんな感じに。。
①その作品には何が描かれているか、観察した結果、自分の感性で言語化する。
描き手が言葉にできなかったものを、鑑賞者が言葉にするのかもしれないし、描き手が抽象的なコトを具体的な絵で表現したのかもしれない。描き手の描きたかったコトが、意のままに伝われば、表現力が優れているとも言えるし、描き手と鑑賞者の感性が似ているとも言える。でも、大抵は、描き手が何を表現したかったかはわからないから、様々に解釈するのが面白い。
②その描かれたモノやコトに対して、自分がどう感じるか、何を思うか、どう考えるか、それを言語化する。
③言語化した自分の感情や考えについて、なぜ、自分がそう感じたのか、そう考えるのか、その理由を更に追求する。
自分の価値観、今の心境、性格、様々な要因が内在していることに気が付く。
④第三者がいれば、①②③を共有する。
共有することにより、他者との作品解釈の違い、感性の違い、意見の違いから自分という人間の特性や、今の状態を客観視することができ、自己理解が進む。また、同時に、他者理解も進む。
こういう楽しみ方をするとき、作品は、単にテーマを提供してくれるテキストのようなもので、作品と他者との対話は授業のようなものかもしれない。
抽象的で、普段は立ち止まって考えない “幸せ”とか、“人生の意味”とか“国”とか“支配”とか、自分とか他人とか、様々なテーマを、絵を媒体にして、バーン!と突きつけられて、自分で考え、自分の人生を思い、言葉にする時間。
他人の価値観や生き方や常識に触れて、世界を広げる時間。
とても、創造的で、とても刺激的な、面白いの遊び。
アートだからこそ持てる時間
学校で学ぶことがない大人にとっては、何か、自分の意見や考えを発言するときは、何か目的がある。
・仕事で、何かを決定する際の会議
・コミュニティにおけるイベントの企画
・家庭内で、何をどうするか決めるとき etc
そういうときは、制約もあれば、結論も必要で、たとえ自由な意見交換ができたとしても、最適解が存在する。
アートの良いところは、最適解がない。
作品の感想を言い合うのであれば、映画や本でもできるだろうが、観るにも読むにも長時間必要であり、手軽さがない。
アートは観賞に数分でいい。
それに、解釈が自由な分、他人との相違も生まれやすく、とても自分らしさが表出する。
同じものを見て、同じ言葉を聞いて、こんなにも他人と自分は違うのかと自覚すること。
別の時代、別の国で描かれたものを見て、こんなにも世界は多様なんだと視野を広げること。
こんなに面白いことはない。