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森鴎外

 我が娘が森鴎外「舞姫」(1890)を読み、「鴎外の優柔不断さが理解できない」と読後感想を漏らした。「心なし」と評価も多い鴎外は翻訳も多くこなしている。「あれで翻訳は旨いのだと云うぢゃありませんか。」翻訳で有名になると「一字も残さずに訳するので、長くなるのだと云うことだ。」「では忠実なのね。」「ところが臆病なのです。」「創作をやれ」忠実な翻訳しかできない「借物」思考「そんなに西洋から借りてきて、いつか返せて?」と酷評を受ける。鴎外は当時の日本社会を「随分人に出来ない事をさせて慰みにする」社会と描いている。「やっぱり一番多いのは西洋の本よ。」「さうだろう。併しそれは仕方がない。あれは己の知恵が足りないから、西洋から借りてくるのだ…自分で考へ出す人にはかなわない」(「不思議な鏡」)

 鴎外の生きた時代背景を知っている人ならば早急に彼を「情なし」と決めつけることはできないであろう。どんな「凄い、情の有り余る魂」でも「磁力のやうな強い力のある鏡」に吸い寄せられ「目が見えたり、耳が聞こえたり」するが「物も言はれるかもしれないと思った」ら「選択の自由がない」「動くことができない」(「不思議な鏡」)治安警察法のもと、社会主義者や自然主義文学者らが投獄されている時代であった。日露戦争後の大日本帝国によるファシズム政権下、日本で最初の社会主義政党である社会民主党を結成した幸徳秋水ら多くの社会主義者が天皇暗殺の計画をしているとされ処刑された明治(1910)の大逆事件において森鴎外は実質的責任者の山県有朋ら政権側に立ち、リベラルな西園寺内閣を辞任に追いやった体制側の人間であった。 

 幸徳秋水が「大波には意志の自由も力もあったものではない。但一片の木葉の漂うと似て相似たりだ。」と読み処刑されていったのに対し、(幸徳秋水の日記と書簡 塩田庄兵衛編)鴎外は獄中の大石誠之助に「軍医総監として文芸の人なる森鴎外が『あそび』主義にも同情を寄せる事が出来る。彼等は人生の海へ飛び込んでその中を泳ぐと言ふのではなく無難な範囲に於て出来るだけ海に近寄り、而かも尚は現在生活の陸地に安住しようと言ふのだ...若し非常な大波が逆捲いて来たならば、彼等も進んで海を泳ぐの人とならねばなるまい。」と非難される。(大石誠之助全集 「獄中断片」 第一巻)しかし、鴎外も官僚として「手に印形を持って支払い命令に印を衝いている」「玄米八斗、糠三升…」?「それは鶏の餌になりますのださうで。」「さうかね」なんでも「そうだ」イエスと云って己は「機械的に」「盲印」をつき忠実「心なく」「翻訳」しているしかなかったのだ。(「不思議な鏡」)

 つまり、ロマン主義ほどに愛欲をロマンチックに描くこともなく、ダーウィンの進化論に影響を受け科学的に「自然」=「性」を「生生しく」(田山花袋、島崎藤村、島村抱月ら)描写することにも冷めた「イタ・せクスアリス」的目線を抱く鴎外は「事実だと云っても、人間の写像を通過した以上」は、「先ず本当だと云う詞からして考えて掛からなくてはならないね」有益なもの、自分にとって都合の良いものが真実とみなされるプラグマティズムが座覇していた西洋社会の影響も受けた博学な人だったのである。「本当を二つに見ることは、カントが元祖で、近頃プラグマチスムなんぞで、余程卑俗にして繰り返しているのも同じことだ。」と真実、自然と呼ばれるものについても慎重且つ冷めた目線を持っていた鴎外は証明できないならば「かのように」考えるしかないと ジェレミー・ベンサム 「虚構論」Theory of fictions”、ファイヒンガ-「かのようにの哲学」(1911)の日本版とも言えるような「かのように」を1912年に発表する。(「かのように」)

情がないと自然主義者に批判された鴎外であるが、彼はただ中立的で事実に忠実であろうとするために「おもちゃをバラバラにしてしまうという性質」(「花子」)を持つ科学的な人だったのではないか。実質、鴎外は著書「大塩平八郎」(1913)でフランス革命の2年前に始まった「米屋こはし」の歴史分析を通して江戸の「貧民の頭の中には、未だ醒覚せざる社会主義があったのである」とマルクスの日本版的社会分析を試みている。そして西洋で馬鹿にされていたダーウィンに対しても「人間が猿から出来たと云うのは、あれは事実問題で、事実として証明しようと掛かっているのだから、ヒポテジスであって、かのようにではないが、進化の根本思想はやはりかのようにだ。生類は進化するかのようにしか考えられない。」(「かのように」)そして鴎外は歌会の名目で体制側、山県有朋側の歌会「常磐会」に参加しながらも西園寺の歌会「雨声会」にも顔を出し二股をかけ「二つの顔をもったヤヌスのような作家」と評されることになる。(森山重雄 「大逆事件 文学作家論」)(武藤功 「国家という難題」 )



鴎外の本心は事実どちら側にあったのだろうか。

・「被告の弁護を引き受けていた平出修弁護士に、ひそかに社会主義をレクチャー」(小田切英雄 日本文学の百年)

・「マルクス―エンゲルスの往復書簡が刊行されたのを日本で最初に伝えた」人でもあった。(鴎外百話 吉野俊彦)

・寓話を通して体制批判をしている

結果として彼は九州 小倉へと左遷される。「一旦人に知られてから、役の方が地方勤めになったり何かして、死んだもののようにせられて、頭が禿げ掛かった後に東京へもどされ」た。「その頃から役人をしているので、議論をすれば著作が出来なかった。復活してからは、下手な柄に著作をしているので、議論なんぞはできないのである」「ただ人が構わずに置いてくれれば好いと思う…著作だけはさせてもらいたい」(「かのように」)鴎外が「あそび」「かのように」生きる選択をしたのは科学的冷めた性質であった以外にも執筆を続けたいが故に官僚として対立や他者との言い争いを避けたかったという事情にあることが分かって来る。大逆事件前後、体制内にいる鴎外にとって危険思想を取り締まるよう山形有朋より指示されている立場ながら反体制側思想を持つ人物として自我を喪失せざれば生きて行けない立場だったのである。「日本にこんな事件が出来しようとは思わなかった。一体どうしたというのだろう…あの連中の目には神もなけりゃ国家もない。それだから刺客になっても、人を殺しても、なんのために殺すなんという理屈はいらないのだ。殺す目当てになっている人間がなんの邪魔になっているというわけでもない。それを除いてどうするというわけでもない。」(「食堂」)こんな時代において政権側の鴎外は自然主義の田山花袋に責められたとしても「上手なお饒舌」を言わずしてどう生き得たのか?「僕は職業の選びようが悪かった。ぼんやりして遣ったり、嘘を衝いてやれば造作はないが、正直に、真面目に遣ろうとすると、八方塞がりになる職業を、僕は不幸にして選んだのだ。」(「かのように」)花袋は「君の読まうと思ふもの」をもっと自然体で告白せよと迫るが(「不思議な鏡」)「お上のすることには間違いはございますかいから」子どもすらこの一句しか言えないことを知っていた時代だったのだ。(「最後の一句」)

「ぶりっ子」の鴎外に「山椒大夫」や「高瀬舟」「鶏」「阿部一族」などが書けただろうか。彼ほど他者を決めつけず中傷せずとことん他者の事情を追求し他者の真相を知ろうとする作家はいなかったのではなかろうか?逆にそのような決めつけない宙ぶらりんさが「あそび」「かのように」「情がない」と言われる所以となっている。自家の鶏に自分の鶏を混ぜた使用人が「自分の鶏が産んだもの」と卵を持ち帰り周囲が見かねてその悪事を大家に伝えるもそのずるさを「生活力」と分析できる鴎外は「情なし」だろうか。(「鶏」)三島由紀夫も絶賛した「寒山拾得」のあらすじを我が子に説明する時、鴎外は「実はパパアも文殊なのだが、まだ誰も拝みに来ないんだよ」と言ったそうだ。(森鴎外 寒山拾得縁起)誰かが王やお上、メシアなのは実質その人がそうだからではなく、他者がそのひとを王、お上、メシアだとして扱うからだとラカン的に分析し皮肉っているのだが、鴎外の娘もまたすごい。「ぱっぱなら泥棒しても上等よ」と森茉莉は「父の帽子」で鴎外への信を表明している。見せかけの偽善や小手先の知恵や策略ではなく真実や愛だけはどんなに一時的に破壊されたとしてもその残響は消せない。

1911年=大逆事件の翌年に出版された西田幾多郎の「善の研究」はファシズム思想として利用されたが時代背景を考慮に入れると鴎外作品と同様の「あそび」、真反対のスキゾ=相対的「万華鏡」のような「イズム」「おもちゃ」的要素をもつ「かのような」書物と解釈も可能である。しかしながらRelativ「ism」相対主義も結局のところは民主主義~社会主義を通過してファシズムへ戻るのだからこの分析に時間をかけるのも無駄かもしれない。西洋のロダンの目に別品な女は日本では別品ではない(「花子」)しかし蔦子でも滝子でも川端康成の手にかかれば骨となっては皆同じ「まるっきりちがった人間が、そっくりおなじになってしまいましたね」と表現されてしまうのだ。(川端康成 散りぬるを)

「何もかも日本人の手に入っては小さいおもちゃ」「なんでも日本へ持ってくると小さくなる」(「青年」)三島由紀夫をして「残酷」「非人間的」「人工的」と言わしめた川端の魂が抜け出た「空っぽ」容器の「鏡」「あそび」社会、自分の分業的位置を知り求められるものを「妄想」し「分身」として「かのように」「ぶりっ子」として生きる。「何を見てもむやみに面白がる」「諦念の態度」を持ち、自分で考えずに「借物」を常態として如何様にも「コピー」が可能な「さくら」をシンボルとする社会形態が日本のそれなのである。(「不思議な鏡」)そんなSocialな和を重んじる日本に於いては情を入れたり、自我を自覚したり「心を決めては」生きるのが難しく「小さく」相対的に鏡に遊ぶほうが容易い。鴎外の書は「空」や「無」を主要哲学とする日本社会に生きる「こつ」の手引書のものとも言える。その代表として鴎外が酷評されただけではなかったか?

 反対に川端の酷評はあまり日本では聞かないのはなぜだろうか。親族を乳幼児期に立て続けに喪失した「よるべなさ」が雪国の手前と向こうを「あいまい」にする。(フロイト) そんな川端世界がとことん日本的だからかもしれない。夏目漱石の「明暗」の津田にとってもお延や清子ら女性たちは津田のエゴイズムを投入する容器でしかなかったし、理想主義者、武者小路実篤の「友情」においても野島はありのままの女性をそのままで愛することなく「自分の思い通りにならない「杉子」の容姿=「容器」に「武子」の性質が入ればいいのに」と杉子を肉体的に愛し武子を精神的に同時に愛するという「二股」部分全体的思考が暴力的であることが分からない。結果、杉子は親友に取られてしまうばかりか、1時間以上側にいるのも耐えられないとして捨てられてしまう。

「そらみつやまとの国は…言霊の幸(さきは)う国と語り継ぎ言ひ継がひける。」(万葉集)

 ヘンリー・ミラーは「日本人に、残虐さと繊細さ、暴力と平穏、美と醜が混在している」「日本人ほどこの両面性をはっきりと、好奇心を強くそそるように示している国民は存在しない」(ヘンリー・ミラーコレクション15 p200)と日本の「空」と「無」の持つ美と暴力性の二重性についてコメントしている。

三島由紀夫様 なぜあなた程の人が最期にあれほど熱く日本国民に訴えられたのでしょうか?

「三島はほんとうに同国人の行動を変革しようと望んだのか…高度の知性に恵まれた三島が、大衆の心を変えようとしても無駄だということがわからなかったのだろうか。これまでにそうしたことを達成できた者は一人としていない。アレクサンダー大王も、ナポレオンも、仏陀も、イエスも、ソクラテスも…」(ヘンリー・ミラー ヘンリー・ミラーコレクション 15 三島由紀夫の生と死 p210)

森鴎外 主要出版年表

「舞姫」(1890)
「イタ・せクスアリス」(1909)
「あそび」(1910)
「沈黙の塔」(1910)
「青年」(1910)
「花子」(1910)
「食堂」(1910)
「妄想」(1911)
「かのように」、(1912)、
「分身」
「不思議な鏡」(1912)
「阿部一族」(1913)
「大塩平八郎」(1914)
「山椒大夫」(1915)
「最期の一句」(1915)
「高瀬舟」(1916)
「寒山拾得」(1916)

「あそび」(1910)
「ルウズヴェルトは『不公平と見たら、戦え』と世界中を説法して歩いている。木村はなぜ戦わないだろうか。」

「どうも先生には現代人の大事な性質が欠けています、それはnervositeです」

「木村の関係している雑誌に出ている作品には、どれにも情調がない。木村自己のものにも情調がないようである」

「捺印をして、給仕に持たせて、それぞれ廻す先へ回す…その間には新しい書類が廻って来る。」「皆ひどく疲れた容貌をしている」し「随分詰まらない事」である。

「政府の大機関の一小歯車となって、自分も回転しているのだということは、はっきり自覚している。自覚していて、それをやっている心持が遊びのようなのである」

「役所での秩序的生活と芸術的生活とは矛盾していて、到底調和が出来ない」

「沈黙の塔」(1910)
「芸術も学問も、パアシイ族の因習の目からは、危険に見える筈である。なぜといふに、どこの国、いつの世でも、新しい道を歩いて行く人の背後には、必ず反動者の群がいて、隙を窺っている。そして或る機会に起って迫害を加える。只、口実丈が国により時代によって変る。危険なる要所も其口実に過ぎないのであった。」

「あれはなんの塔ですか」「沈黙の塔です。」「車で塔の中に運ぶのはなんですか」「死骸です。」「なんの死骸ですか。」「パアシイParsi属の死骸です。」「なんであんなに沢山死ぬのでせう...」「殺すのです。又二、三十人殺したと、新聞に出ていましたよ。」「誰が殺しますか。」「仲間同士で殺すのです。」「なぜ。」「危険な書物を読む奴を殺すのです。」「どんな本ですか。」「自然主義と社会主義の本です。」

「妄想」(1911)
「自分のしている事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。その勤めている役の背後に、別の何物かが存在していなくてはならないやうに感ぜられる。策(むち)うたれ騙られてばかりいるために、その何物かが醒覚する暇がないやうに感ぜられる。」

「背後の何物かの面目を覗いて見たいと思ひ思ひしながら、舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を勤め続けている。此役が即ち生だとは考えられない。背後に或る物が真の生ではあるまいかと思はれる。併しその或る物は目を醒まそう醒まそうと思ひながら、またしてはうとうとして眠ってしまふ。」

「死といふものは…この自我といふものが無くなってしまふのだと思ふ」

「自我が無くなるといふことは最も大いなる最も深い苦痛だ」。

「自我といふものが有る間に、それをどんな物だとはっきり考へても見ずに、知らずにそれを無くしてしまふのが口惜しい。残念である…残念だと思ふと同時に、痛切に心の空虚を感ずる。なんともかとも言はれない寂しさを覚える。それが煩悩になる。それが苦痛になる。」

「不思議な鏡」(1912)

「おい。己の羽織はどこにある。」
「今綻びを縫っているところです。」
「少しは穴が小さくなったかい。」
「もう半分くらい小さくなりました。」
「穴の半分潰れた羽織」から「情が半分の穴から抜けて出たのか」
「書くものに、『情』がない」「元から無い」
「己の魂は体を抜けて外に出た」身体は空の容器となった。

人魂=「青い火の玉」とは「日本人の象徴のような気がしてきた」。体から心が分離した「もぬけの殻の体」空の容器は「机の前に座って」「只『うんうん』とばかり云っている」「同情はしない、情がないのだ」

万事「『あそび』の心持」「あそびが肯定的評価で、情なしが否定的評価である」

「己は生きながら浄瑠璃の鏡に掛けられたやうなものである」

「なる程真剣でなささうな顔をしているなあ」
「あそびか。へん。」
「内心苦しんでいるだらうなあ。」
「なに感じがないから、苦みはしないさ。」

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