母への憧れ 谷崎潤一郎「少年滋幹の母」
時は平安時代
藤原国経には歳若き美しい妻がいた
藤原時平が彼の妻を慕い、狙うその無礼を
「不愉快に感ぜず、却って幾分かうれしいような気がしていた」
SM😂😂😂老年になればなるほど
醜くなるらしく かなり ハードです👿
そしてまた
「二三年来生理的に夫たる資格を失いかけているところから、此のまゝでは、―――何とかしてやらなければ、―――妻に申訳がないと云う気持が、昂じて来ていた」ので自分のような老いぼれを夫に持った人の不幸を、だん/\強く感じつゝあったのだ」
笑😆
知的に物を考え
妻の幸せを中心に考えた国経はそれを
「善と信じて疑わない」
頭で愛を考えた国経は
情に突っ走った時平に
妻を奪われてしまった
やっとのこと
嫉妬で狂おしく情愛を沸き立たせられた国経は
自身の誤りを自覚するも時すでに遅し
またもやSMワールド フルスロットル
妻を奪われた国経は「恋慕と絶望に苛まれつゝその後なお三年半の歳月を生きた」そうな
可哀想なのは息子 滋幹である
母が他の男に連れて行かれた夜のことについて
何もおぼえていないらしい
事件のあった当時
四ー五歳
母の顔を全く知らない乳児でもない
その母が他の男の所へ走ってしまったのだから
母を思慕する情は尋常ではない
況んやその母が世にも稀なる美女との噂
夜な夜な泣き続け
乳母の抱かれて眠ったそうだ
最初のうちは
子=滋幹の腕に歌を書き
恋文を秘密裏に交換し合っていた父と母
涙を一杯ためて返歌していた母
他人の妻になっている母の許を訪れても
母は必ず
膝の上に載せて
頭を撫で
頬ずりをしてくれたので
顔を見ようと
抱かれながら仰向いて見たが
顔は残念なことに
部屋が暗いのと
髪が輪郭を覆い隠しているので
はっきりとは見えず
それはまるで
「厨子の中にある御佛を拝むようで」あった
だから
うつくしいと云う噂だけで
ほんとうにそうと「得心が行っていたのではなかった」
実際のところ
記憶にあるのは
その五つの時に父の文に感動し
流れた涙を袖で隠そうとする母の朧げな顔のイメージ
と
無言で抱きしめてくれた母の
香が薫きしめてある着物の香りのみ
まさしく源氏物語の世界の再現ではないか
そしてそれらは
四十年の間
彼の頭の中で大切に育まれ
「次第に理想的なものに美化され
浄化されて
実物とは遥かに違ったものになって行った」
そして滋幹
七八歳の頃には
だんだん
母に会うことが出来ないようになり
十一二歳の頃
幾度か母に逢いたいと云う望みを
洩らしたことがあったが叶わなかったそうな
それを
自分の容貌が不幸にして母に似ず
父に似ていることから
自分を可愛がってくれないと思い込むことで解決
月日が経った
滋幹は四十四、五歳
母がおそらくは六十歳前後
そう云う齢になってもなお
母のことが忘れられず
面影を想い浮かべてなつかしがっていた滋幹
ある夜のこと
「谷花が雪あかりのような作用をして
あたりの物象を暗まぎれから浮き上らせているのであろうか、―――と、ちょっと滋幹はそんな気がしたが、
それは花のあかりではなくて
花の上の空にかゝった月が、今しも光を増して来たのであった」
まさしく「陰翳礼讃」の世界
「空は弥生のものらしくうっすらと曇って、
朧々と霞んだ月が花の雲を透して照っているので、
その夕桜のほの匂う谷あいの一郭が、幻じみた光線の中にあるのであった。」
なんと美しい❣️
六十の婆母の顔は見たくない
美しいと思い込んでいる母に
四五十年 会ってなくて
いきなりシワだらけのババアで物語にはならない
夏目漱石の場合も同様
彼は
母が歳行ってから出来た子らしく
老眼鏡をかけた婆さんを
彼は祖母だと信じて疑わなかった
しかし
漱石が小説に記述する母は
美しい鳥のような色彩豊かな衣を重ねた
若き日の母のイメージ=想像であった
谷崎も同様
滋幹は母と別れた年齢に戻っていた
そしてなぜ暈し(ぼかし)がかかっているのか
母も
別れた当時の母
そして
想像通りの母でなければならないからだ
ここに谷崎潤一郎の
女へのダブル・イメージの根源がある
三島由紀夫は
慈母 と 鬼子母神の
ダブル・イメージへの分化がここに興る
①
はお馴染み
いつものSMワールドに顕現する女たち
男=息子を足蹴に踏みにじり
子を喰う「刺青」の女のような
恐ろしい鬼子母神 であり
サディスティックで官能的、
且つ残酷な女=母に
与えられた幼年期の恐怖の強迫反復がここにある
②
反して「少年滋幹の母」に表現される暈された
慈母、仏、観音さまのような「母」性
エロスの影が徹底排除された女性に対する
最も浄化された聖母のイメージ には
母という未知を憧憬してやまない自他未分化の幼児の母性への無意識の要請がある
②が①を暈していることは明らか
漱石も「虞美人草」で
藤尾を殺さねば気が済まないと言っていたことを
思い出そう!(上記 「漱石の道草」参照)
谷崎潤一郎作品に現れるサディスティックな女も同様
残虐で悪い女に
踏みにじられることで快感を感じ
その女性にひざまづくことを
反復=敗北し続けることは
母がその根源であることから遠のき
幼年期の恐怖から自由となり
その恐怖を芸術的に昇華できるからだ
「春琴抄」で佐助が自らの目を刺し続ける行為は
「去勢」への恐れ
性の根源に盲目であるためであり
(三島由紀夫「谷崎潤一郎について」)
それが
谷崎潤一郎作品を貫くSMワールドの反復世界
彼は
女に足蹴にされ続けて
死の眠りにつくその「死」を
生以上に生だと著したことを忘れてはならない