幻痛というファントム in かたちだけの愛 平野啓一郎著
もし皆さんが
片足を失って
義足をつけなければならない時
生足で歩いていた過去
生足を失った現在
義足で歩く未来
喪失された生足=
未だ過去を生きている過去を
できるだけ
リアル=現在に接続 繋げることができれば
と願いもするだろう
身体の断絶…
残りの身体は現在を生きているのだから
取り残された過去にリアルを補完し
現在に連れてきてやることが
せめてできれば と
ないはずの足が痛むのだから…
痛いのは
「あの時」
過去
事故の時の痛み
今ではないのに
でも
「脛のところが裂けるみたいに痛い」
あの時に発せられなかった過去の叫び声
脳がまだ
「以前の体のかたちをイメージしたまま」
だから痛む幻痛=ファントム
人は普通に毎日
どこにもぶつけずに
歩けることに
感謝などしていないし
また
あちこちぶつからず歩ける
自らを天才とも思っていない
ひとは
空間における自らの姿かたちを
空想する空想力に優れているから
あちこち傷だらけにならないで歩けるのだ。
私がこれに気づいたのは双子を妊娠していた時
前にも後ろにも広がるドナルドダックのような腹
空間把握がままならず
ごっつんこ💦
以前そこにあった「脛が痛い」
遅れて発せられた
過去の叫び声
幻痛
過去を引きずっているファントム
に
義足を作ろう!
その義足は
生足(リアル)の断片に
上手く重なってくれるだろうか?
生足に
馴染んでくれるのだろうか
と「生」足=「リアル」中心の思考をしがち
義足→生足
義足が 生足 にうまく合えばよいなと
生の足にできるだけ似た
リアルに近い義足…
を思う
あたまに描いてみる
ひとは
それがリアルに
似ていれば似ているほど
近ければ近いほど
拒絶反応が少ないとおもう
しかし実際のところは
その反対こそが真である
義足が
ある限界点を超えて
リアルに近づきすぎると
拒絶反応が起き
嫌悪感を引き起こし
不気味に感じる
真実は近づきすぎると憤る (W.Hオーデン)
完璧に近いと思う人の
粗探しをしたくなる心理に同じで
完璧すぎる 善人すぎる 美しすぎる
なんか悪いとこある「はずだ」と「空想」する
これを「不気味の谷」現象と呼ぶ
実際のところ
義足は
リアルではなく
自分の思う
イメージに合えば痛みが消えるそうだ
義足というファンタズム
生足が
ファンタズム=義足に
うまく重なれば…
生足→義足(空想) 落ち着く
思考の中心は 従って
リアルにはない!
このように
喪失=過去の断片は
真実=リアル ではなく
こうであって欲しい空想イメージ
で喪失部分を埋め
自らのファンタズムがそこにフィットすれば
未来へと接続する
❌ 人工足を 生=リアルに近づける のではなく
⭕️ 生=リアルを 義足(ファンタジー)へ接近させる
アクシデントとは
空想による
過去と未来の線路の
切り替え
〇〇は〇〇でなくなる
路線変更なしには前進できないもののようだ
ゲージ(君)は ゲージでなくなる
トラウマやアクシデントによる
人格の可塑性というこの必然に
フロイトよりも前に
気づいていたのはスピノザなのだ
皆がスピノザについては
口を黙たがるようだが
フロイトも同じだ
脳科学者ダマシオが
脳科学的に
デカルトの誤りとスピノザの大発見に切り込み、
カトリーヌ・マラブーが
スピノザの仕事を引き継ぎ
可塑性の研究を続けている。
そして
日本では
平野啓一郎はむろん
村上春樹もこのテーマで多くの小説を書いている。
子をアクシデントでいちど喪失(〇〇は〇〇でなくなる故)した親の哀しみの視点まで…
以下 参考
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