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逆転〜菊池寛

以下は 菊池寛短編
学校教科書で読まれたであろう 
「形」 「入れ札」 や
「ある抗議書」 「極楽」 「俊寛」
「忠直卿行状記」
「藤十郎の恋」 「ある恋の話」
 そして
「青木の出京」 の纏め
「青木の出京」は
菊池寛というひとのリアル=
上記漫画や下記ウィキにある 「マント事件」のフィクション
菊池寛
同性愛的感情を持っていた男子学生 佐野の
身代りとして
泥棒の罪で東京大学を退学した経緯を持ち


後に
無名の若い作家たちに表現の場を与えるため
文藝春秋」の創始者となる
(創刊号には、芥川龍之介、川端康成、横光利一など)

「社」とは名ばかりで
17時頃 社長出勤
将棋やピンポンばかりに夢中の
遊び心満載の社だったそうで💦最高😊

兎にも角にも
彼の感情が抑制された客観的な文体は読みやすく
読み出したら徹夜必至
面白すぎ❣️
学校教科書でも採用された
「形」
「入れ札」
「恩讐の彼方に」 など 
学校でも読まれ、ご存じの方も多かろう
それら短編に共通する
菊池の「拘り」のテーマはなんだろうか
ずーっとぼんやり考えていて
見えてきた ので纒める🎯
それは
アリストテレスが「詩学」で
悲劇の主たる要素とした「逆転」 
と逆転に依る「恩讐」
ここでは 「逆転」についてのみ扱う

1:  加害者と被害者の逆転 in 「青木の出京」

盗みをして
下宿を追われ
東京大学を退学させられるのは
当の加害者 青木( 佐野) ではなくて
罪を被された被害者 雄吉(菊池)
佐野に同性愛的感情を持っていた
菊池の愛=自己犠牲の表現であった

人を人とも思わないような性情と、ある種の道徳感に欠陥のある青木は、雄吉に対して、またどんなことをやり出すかも、分からなかった。しかも、雄吉は青木の不思議な人格に対して、ある魅力と恐怖とを同時に感じさせられていた。

菊池寛 「青木の出京」

「どうか。俺を救ってくれ、君、告発するとか、そんなことはいいはしまいね
「僕は君のために、この罪を背負ってこの家を出ようと思うのだ」
「君がなんといっても、君に代ってもらっては僕の良心に済まない。どうか、僕に自白させてくれ給え」

青木が、「涙を流しながら誓った送金は、
いつが来ても実現しなかった…
もう、その頃の雄吉は、
自分の身代り的行動を、心の底から後悔し始めていた。彼は自分の過去におけるばからしさと、青木の背信とを恨んだ…」

2: 天国と地獄の逆転 in「ある抗議書」「極楽」「俊寛」

つまり

加害者 天国に在り、
被害者 地獄に在り

菊池寛「ある抗議書」

しかし
「あんな極悪な人間は、この世では捕まらんでも、
死んだら
地獄
へ落ちるのじゃ。
地獄で、ひどい目に逢うのじゃ」

てなこともない

①「ある抗議書」
九人を惨殺した
坂下鶴吉は牢獄でキリスト教に改宗し 告白本を発売

『人の世の罪の汚れを浄めつつ
神のみ国へ急ぐ楽しさ』と、辞世に述べ

菊池寛「ある抗議書」

人々の同情を集める。
坂下鶴吉は天国へ行ったとして、
彼の被害者は何処へ行ったでしょう。

私の義兄にしろ、姉にしろ、平常から何の信仰も持って居ません。…殺される刹那の心は、修羅の心です。地獄の思です…死際の苦悩の為に天国なり、極楽なりへは、決して行かれなかったと思います

菊池寛「ある抗議書」

まさしく
坂下鶴吉に殺された者が
脚台になって此の悪人を――基督教的には聖徒を、天国へ昇せてやって居るようではありませんか。」

加害者 天国に在り、
被害者 地獄に在り

菊池寛「ある抗議書」

しかし、
そこまで拘る「あちら」とは
どんなところなのだろうか
どこに行こうが
坂下に殺された姉夫婦とその家族の心は「修羅」
ここが既に「地獄

②「極楽」
しかし 心配に及ばないのだ
菊池曰く
天国こそ地獄‼️
どんなに
娑婆」 で 「天国」を
ないもの」 を「あちら」=「彼岸」でと
信心深く願っても
あちら」=「天国」に着けば
すぐに飽きて
「行けなかった地獄」 がどんなとこだろうか 
ええとこではなかったろうか 
と想い始めるそうで…
しかし
天国がまさに地獄である真の所以は
以下にある⬇️
なぜなら
娑婆に居る時には
「信心の心さえ堅ければ」 
」で天国への梯子をかけれて
あちら」が可能
つまり
娑婆で 可能な 虚構=妄想=嘘=信心
天国では どんなに 
虚構=彼岸を願っても
もう「彼岸」はない
妄想を現実とすることができない

こうして
菊池の「極楽」で
極楽が極楽でなく地獄だったように

地獄
も地獄でなく天国の場合だって…ある

③「俊寛」

平氏討伐を謀反し 
鹿ヶ谷事件(1177)で流罪となった
僧 「俊寛
島流しされた最初のうち
ここは
「地獄」に思われた
特に!
」人(康頼、成経、俊寛)が孤島に
閉塞状態に置かれたことが大きい
2 vs 1
サルトルの「出口なし」に同じ「
地獄とは他者のことである
しかし二者に恩赦が与えられ
島を去り
ひとり「焦熱」地獄となったと思われたこの孤島で
俊寛は
康頼や成経が傍にいたために「切れなかった」人生への執着が

椰子の実の汁を吸っていると、
自分の今までの生活が夢のように淡く薄れて行くのを感じた。
清盛、平家の一門…そんな名前に対する自分の感情が、この口の中の凡てを、いな心の中の凡てを、溶かしてしまうような木の実の味に比べて、全く空虚なつまらないもののような、気が始め
………
鬼界ヶ島に流されたことが、自分の不運であったか、
幸福であったか分からないとまで、考えるようになっていた

菊池寛「俊寛」

このように 菊池寛の手にかかっては
被害者も被害者でなくなり
天国と地獄も逆転

そして
罪と罰だって 
平家の世で罪とされた罪
平家が海の藻屑と消えた後は
罪ではなくなり
罰も 罰でない

そして
今さら 
島から世に還れと言われても
地獄だと思われた島が天国 なのだから
地獄たる戦国の世

都に於けるいろいろな暗闇、陥擠、戦争、権勢の争奪、それから来る嫉妬、反感、憎悪…

菊池寛「俊寛」

に帰りたいわけがない
ここには
大和言葉を話すエキゾチックな土人妻と
子供たちもいるのだ
もう
どこが
天国で地獄で
誰が加害者で被害者で
何が真実で嘘かも分からなくなる

続く
菊池の「忠直卿行状記」においては
それによる乱心
今まで自分が信じて来た
自分の才能 そして 臣下を
全世界が
一遍に信じられなくなり
真実に狂う殿様の話である

3: 菊池寛 「忠直卿行状記」VS 太宰治「水仙」の逆転

そして 太宰治の「水仙」は
菊池寛の「忠直卿行状記」の逆転バージョンである。
なぜ太宰治がここに出てくるのかと
不思議に思われる方も居られよう
太宰治の「水仙」は
菊池寛の「忠直卿行状記」の分析に始まり
その逆転の発想を小説にしたものだ
物語は
家康の孫 剣術の天才 忠直卿
家来たちの会話を
盗み聞きしてしまうところから始まる

「聞えたら切腹物じゃのう」
「以前ほど、勝ちをお譲り致すのに、骨が折れなくなったわ」

菊池寛 「忠直卿行状記」

殿は
家来たちが「負けてあげるほうも楽になった」
というのを聞き 狂った
真実を見たくて、狂った。

彼は今まで自分を信じて来た。
自分の実力を飽くまで信じて来た

菊池寛 「忠直卿行状記」

しかし

何処までが本当で、
何処からが嘘だか判らなくなった

菊池寛 「忠直卿行状記」

家来たちに槍術や碁の真剣勝負を挑むも
勝利しか得られない

自分と彼等の間には虚偽の膜がかかっている

菊池寛 「忠直卿行状記」

友情も女の愛も信じられなくなった殿様は
遂には乱心
家来の女房に手をつけ
人間らしく反抗を示す」家来の到来を待った。
そして生来初めて、
女房を奪われた怒りから
自分に匕首を以て
飛びかかってくる家臣がいて忠直卿は大喜び も
束の間 
夫婦は覚悟の自殺を遂げてしまった。
忠直卿の更なる乱行は歴史が伝えている通りであるが
菊池寛は 家臣たちが

忠直卿を人間扱いにしないので
忠直卿の方でも、おしまいに臣下を人間扱いにしなくなったのかも知れない

菊池寛 「忠直卿行状記」

と分析
しかし 太宰は「忠直卿行状記」を逆転思考で解析

このごろ、気味の悪い疑念が、ふいと起って、誇張ではなく、夜も眠られぬくらいに不安になった。その殿様は、本当に剣術の素晴らしい名人だったのではあるまいか。家来たちも、わざと負けていたのではなくて、本当に殿様の腕前には、かなわなかったのではあるまいか。庭園の私語も、家来たちの卑劣な負け惜しみに過ぎなかったのではあるまいか。あり得る事だ…
殿様は、真実を摑みながら、真実を追い求めて狂ったのだ。殿様は、事実、剣術の名人だったのだ。家来たちは、決してわざと負けていたのではなかった。事実、かなわなかったのだ。

太宰治「水仙」

つまり
菊池寛「忠直卿行状記」

真実を求めて狂った殿様

太宰治「水仙」
真実
真実と信じられず狂った殿様
=「天才の煩悶」
=引き裂かれた自己愛=水仙ナルシスの物語

続く「入れ札」では 目線が逆転
真実側からではなく
嘘から責め

嘘に嘘 =真実
罪に罪 =無罪

となることが明かされる

4:嘘と真実の逆転 in 「入れ札」

「この野郎!」
そう思いながら、脇差の柄を、左の手で、グッと握りしめた。

菊池寛「入れ札」

でも弥助を斬れない
九郎助も嘘をついているからだ
九郎助がこのように「火のように怒っていようとは
夢にも知らない弥助」
は、
平気な顔をして寄り添って歩いていた」

口先だけの嘘を平気で云う弥助でさえ
考え付かないほど、自分は卑しいのだ

菊池寛「入れ札」

弥助の嘘を嘘だと咎めるには、
自分の恥ずかしさを打ち明けねばならない
弥助の罪の追求には
九郎助自身の罪の告白が先行する。

弥助嘘を真実として沈黙せざるを得ない
他ならぬ自分の嘘
弥助の罪を罪でもなくした自分の
罰から罰の資格を奪った現実に
九郎助は心底情けなく
「自分の浅ましさがヒシヒシ骨身に徹えた」

あらすじはこうだ

代官を斬り殺した 国定忠次一家の者は
共に関所を破り 国超えを試みる。
50人に近かった乾児が日数が経つに連れ
一人二人と減り
残った11名
一命をかけて ついてきてくれた者たち
だが
忠次は決断せねばならない
人目に触れないように他国を横行するために
別れて移動することを。
しかし
最も忠義ある子分たちの

汝は行け 汝は来るなと云う区別

菊池寛「入れ札」

は付けたくなかった
そこで入れ札=投票をして
最も信任の厚い三名が
忠次のお供をすることに決まった
浅が四枚
喜蔵が四枚
嘉助 と 九郎助 が一枚ずつ 出た
残るは一枚
そして
浅、喜蔵、嘉助 の三名に決定

十一人の中でお前の名を書いたのは、この弥助一人だと思うと、彼奴等の心根が全くわかんねえや

菊池寛「入れ札」

と九郎助に云う弥助
九郎助は 皆の衆の第一の兄分だったからだ
しかし
この弥助の嘘が嘘であると知る唯一の九郎助は
火のように怒った

もう、一言(嘘を)云って見ろ、抜打ちに斬ってやろうと思った。

菊池寛「入れ札」

九郎助に投票したのは
他ならぬ自分=九郎助だからだ

このように

重ねられると真実

重ねられると無罪になる性質をもつ
一人の殺人が殺人でも
何千何億人の殺人が
もはや殺人ではないように
内と外がメビウスの輪のように反転する
「ハハハ…
に過ぎぬ」 
真実には勝てんと
バカにしてはいけない
噂も撒き散らせば 噂が真実として
独り歩きを始め
形=外が内
内が外
となることも。

5: 内と外の逆転 in 「形」

摂津半国の侍大将 中村新兵衛の
「武者姿は
戦場に於て、水際だった華やかさ…
猩々緋の服折を着て、
唐冠纓金の兜を被った彼の姿は、敵味方の間に、
輝くばかりのあざやかさを持っていた
『ああ猩々緋よ 唐冠よ』と敵の雑兵は、
新兵衛の槍先を避けた

菊池寛「形」

「新兵衛どの、折入ってお願いがある」と
元服してからまだ間もないらしい美男の青年の士

「ついては御身様の猩々緋と唐冠の兜を
借して
たもらぬか」…
「ハハハ念もない事じゃ」新兵衛は高らかに笑った
「が申して置く、あの服折や兜は、申さば
中村新兵衛のじゃわ」
……しかし
いざ出兵😰
「新兵衛は
何時もとは、勝手が違っていることに
気が付いた」

何時もはに向っている羊のような怖気が、
敵にはあった。彼等は狼狽え血迷うところを突き伏せるのに、何の雑作もなかった。

今日は、彼等は戦いをする時のように、勇み立っていた。どの雑兵も十二分の力を新兵衛に対し発揮した…
手軽に兜や猩々緋を借したことを、後悔するような感じが頭の中をかすめた時であった、敵の突き出した鎗が、縅の裏をかいて彼の脾腹を貫いていた。

菊池寛「形」

」の方に真実が?
そんなことはない
彼は彼の実力で侍大将まで昇りつめたはずだ
実力あり
→「形」への畏怖
→更なる勝利 であったはずが
形(外)が内 
となった瞬間に鳥肌が立つ
菊池寛 恐るべし

真の実力とは?なんだろうか
真実と虚構
形=外 と 内 の境界線はどこに?
「この世界はすべて一つの舞台
人間は男女を問わず全てこれ役者にすぎぬ、
それぞれ舞台に登場してはまた退場していく、
そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる」
  (シェイクスピア「お気に召すまま」第二幕第7場)

この舞台現実めいたものにするお芝居
に過ぎないのだろうか

6: 現実→舞台への逆転 in 「藤十郎の恋」

姦通を姦通らしく
現実らしく
現実を利用
し、芸を磨き
舞台で演じるため
の姦通の狡計を現実に仕掛け
芸に写実性をもたらした「」の「藤十郎の恋

傷ついた現実の人妻 
お梶の 舞台裏での首吊りにより 
大ヒット成功となる

藤十郎の心のある悪魔的な思付がムラムラと湧いて来た。それは恋ではなかった。それは烈しい慾情ではなかった。 それは、恐ろしいほど冷たい理性の思付であった。

菊池寛「藤十郎の恋」

「藤様、いま仰った事は、皆本心かいな」
「人妻に云い寄るからには、命を投げ出しての恋じゃ」

必死の覚悟を決めたらしいお梶は、
火のような瞳で男の顔を一目見ると、
いきなり傍の絹行燈の灯を、
フッと吹き消してしまった。
恐ろしい沈黙が、其処にあった。
お梶は
身体中の毛髪が悉く逆立つような恐ろしさと、
身体中の血潮が悉く湧き立つような情熱とで、
男の近寄るのを待っていた…

突如、藤十郎の立ち上る気配…
闇の中に取り残されたお梶は、人間の女性が
受けた最も皮肉な残酷な辱しめを受けて、
闇の中に石のように、突っ立っていた。」

そして
この興行の評判に連れて 噂が立ち始める
「藤十郎殿は、この度の狂言の工夫には、ある茶屋の女房に偽って恋をしかけ、女が靡いて灯を打ち消す時、急いで逃れたとの事じゃ」
…或朝 
楽屋の片隅の梁に首を吊って死んだ女性の姿
そして 
それまでもが 更に
藤十郎の茂右衛門の芸に深みを与え
座の人気をも煽る結果に。
もう
「其処には、
藤十郎が茂右衛門か、
茂右衛門が藤十郎か、

何の差別もないようであった」

芸を現実的にするため
現実を芸に利用したが故の悲劇である
そしてその逆転の悲劇が「ある恋の話」

7: 舞台→現実の逆転 in 「ある恋の話」

上記「藤十郎の恋」では
「現実」 を舞台に持ち込み

今回の 「ある恋の話」では
舞台 を 「現実」と
勘違いしたがための悲劇
と云うのも 役者の動作が
「何処までも質素」で 写実的

心から泣いたり怒ったり笑うたりする有様が、普通の人が泣いたり笑うたりするのと少しも違わない

菊池寛「ある恋の話」

から
観客の女性が役者=舞台 つまり
写実的に演じられる登場人物に恋してしまった

浅草の守田座
染之助という役者に惚れ
「素顔を一度でもいいから
見たい見たいと思っていた願が叶って…
その素顔を一目見ると…急に醒めてしまった」

「あら染之助が来るよ」…
こんな男が、あの美しいおっとりした染之助では
よもあるまい

菊池寛「ある恋の話」

その役者が舞台から
現実に降りてきた時
突如として
百年の恋も醒めたそうだ
それでも その役者に惚れているから
舞台に通い詰めるうちに評判になってしまい
「舞台上の染之助が
じっと私の方見詰め始め…見詰め方が烈しく」なって
ついには
「見詰め合う」ようになってしまった 笑
そしてラブレターが来る

私が舞台の上で歎けば、貴女もお歎きになり、
私が舞台で笑えば、貴女もお笑いになるのを見て…
貴女が私を愛していて下さることと信じて疑いませんでした。

菊池寛「ある恋の話」

なのに
「貴女は熱心に私を見詰めて下さるだけで、一寸も一分も私に近づこうとはなさらない」
だって

私の見詰めているのは、染之助ではなくて、三浦之介とか重次郎などと云う昔のまぼろし
ですが、
染之助はそうは思わなかった

菊池寛「ある恋の話」

そして初デート❤️
向こうもこちらの心得が分かったと見えて
デートに舞台衣装でやってきた🤪
しかし
「舞台衣装」で
「私の前で手を突いて、何かクドクドと泣いたり口説いたりするのを聞いていると」
相手にする気も起こらなくなり
切り上げて帰ってしまった💦
染之助も訳わかんないですよね
芝居の人物」「舞台上の芸」に恋していただけ
だなんて😓
染之助は「ヒドク落胆していた」そうだ
ウディアレンの「カイロと紫の薔薇」
みたいに ロマンスさえ なりませんでした

以上
菊池寛の短編をまとめると

8: まとめ

ロマン=天国=舞台上も
近くで現実となれば色褪せる「ある恋の話」や「極楽
反対に
現実に「」を創造した=「藤十郎の恋」や「青木の出京」では
地獄天国への梯子とし
舞台=虚に「現実」味をもたらし
地獄」=お梶の自殺 菊池の東大退学という
被害者=「善」の 地獄=現実 が
加害者=「悪」の 天国=舞台への脚台となる
in 「ある抗議書」
まさに菊池寛のこの一言に尽きる

加害者 天国に在り、
被害者 地獄に在り

菊池寛「ある抗議書」

地の獄とは「あちら」にはなく ここ=「娑婆」
天の国
とは の国

天」の「国」=「偽」への「信心」=「嘘」=「想像力」
🆚
「地」の「獄」=「ここ」=リアル=理性

どんな「衣装」をつけるか=「」=フェイク
ここを「天国」にも「地獄」にもする in 「形」
愛する男の罪を被って「」=加害者の衣装を着た
菊池寛
まさに音の過剰 は音の欠如口封じ
誰が菊池を庇っても 盗みの衣装は消せなかった
沈黙は金なり」
トーマス・カーライル

衣装哲学」で説いたのはこのこと

もう 地獄=ここ 
でもなく
ではない   in 「俊寛
天国 とは 「ロマン」であり
    嘘吐きの国 想像力の座感する「彼岸」
地獄

想像力の欠如=理性の住む残酷な「ここ」=現実
     in「青木の出京」「ある抗議書」「藤十郎の恋」

何が 真実で 何が虚構か 気が狂う
           in  「忠直卿行状記」
嘘や罪も反復すれば真実=無罪となるのだから
        in 「入れ札」 「青木の出京」

菊池寛 お見事 としか言いようがない👏







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