洗濯機ではなく、手で洗う効用
不良主婦歴25年の私。
掃除も洗濯も下手、料理はようやく最近マシになってきたレベルです。
言い訳以外の何物でもないですが、極端に視力が悪く、ゴミが落ちていても気づかない。洗い物をしても、汚れが目に入らない…。
洗濯しても服に汚れがついたまま、洗剤の溶液が溶けきらずくっついたままの時もあります。
洗濯機の掃除をしたり、洗濯機を変えてみたり、洗剤を変えてみたり、いろいろやってみるのですが、一向に改善が見られない。
見かねた親切な友人から、洗濯の仕方をイチから丁寧に教えてもらったこともありました。
言われた通りにやっても、なかなか汚れが落ちず、家族から不興を買う…。そういうのを繰り返していました。
元々特に楽しかったわけでもない洗濯は、より嫌いになり、ゴミのついた服にコロコロをかけるのもゲンナリ。
そういった嬉しくない洗濯を、ずっと繰り返してきたわけです。
実はいいヤツだった服たち
昨日、いつものように洗っても全然綺麗にならなかった服たちが、洗濯竿に悲しそうにかかっている様子を見て、ふと「あ、手洗いしたらいいんだ」と思いつきました。
それで、かかっていた可哀想な服をバケツに放り込んで、モミモミ、くしゅくしゅ、ザバザバと洗ってみたんです。
今まで嫌だな、と思っていた洗濯だったはずなのに、その時初めて、洗われている服に愛情を感じました。(ただのジャージです。化学素材です。)
今までは、すぐに汚れる問題児、と思って仕方なく付き合っていたのですが、なんだか会話できるヤツに見えてきたんです。
普段怖いな、怖いなと思っていた、いかつい格好した、ぱっと見不良少年に、恐る恐る口を聞いてみたら、すごく優しかった、みたいな感じです。
なんだ。この子、向き合ったらちゃんと喋ってくれるんやん。
と思ったら嬉しくなった。
そうして干された服たちはちょっと猫の毛はくっついてたけど、手で取れる程度。みるからに清潔感溢れる「洗いざらしくん」に変わったのです。
不便益
この前、不便益を考えるオンラインセミナーに参加しました。
不便益とは、京都先端科学大学の川上浩司教授が提唱されている「不便だからこそ、いいこともある」という考え方です。
詳しくはこちらご覧ください。
あまりにも便利を追求すると、不便なことを敢えてする人が出てきたり、不便を楽しむツールが出てきたりする。
それを、録音物を例にとって説明されていました。
iTunesやサブスクなど、音楽をより手軽に聴くツールはどんどん進化してきていますよね。一方で、ここ数年、アナログレコードの売上がCDの売り上げを遥かに超えてきた。
いまやCDは風前の灯です。
曰く、「超便利なものが出てくればくるほど、超不便なものも出現してくる。そして、中途半端なものは消えていく」と。
生き物を扱うつもりで
今まで、洗濯は洗濯機にお任せしてきましたし、それが当たり前と思ってきました。
しかし、洗濯機が家庭に普及したのは、たったの50年位前ではなかったでしょうか。それまで人類は、ずっと手で洗濯物を洗い続けてきたわけです。
手洗いの歴史のほうが遥かに長いですよね。
今回、手洗いしてみて、服や繊維の表情が全く変わったのに本当に驚きました。というより、「表情なんかもちろんない。生き物じゃないんだから当たり前。」と思っていたことが、実はそうではなかったことに気づきました。
同時に、あんなに洗濯が嫌だったのに、洗うのが楽しくなった。
無機物で無反応なモノを扱うのと、反応ある生き物を扱っているのでは、やっている行為が大きく違います。
服が生き物なんてあり得ない、という声が聞こえてきそうですが、繊維も元は生き物ですから、そういうつもりで扱うって、結構大事な気がするのです。
たかが服、たかが洗濯ですが、おそらく人生の中で洗濯しない日の方が少ないはず。それを考えると、手洗いの効用たるや、小さくないじゃないでしょうか。
まさにこれこそ不便益。
自分や家族の心の健康と、服たちの持続可能性を考えると、いいことだらけじゃないかと。
いつまでできるかわかりませんが、できる範囲で手洗いを続けてみようと思います。
さあ、明日の朝はどんな洗濯物が待ってるかな。
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