わたしの話を聞いて
わたしが綺麗になりたいと切望したのは、
人に好かれたい、愛されたいという気持ちはもちろんだけど、根本的には、
「わたしの話を聞いてほしい」
という気持ちだったのだ。
こどもの頃は、こどもだからと話を聞いてもらえなかった。
大きくなっても、ブスだからって話を聞いてもらえなかった。
結婚したら、女だからって話を聞いてもらえなかった。
わたしはいつになったら話を聞いてもらえるのか。
わたしはただの、こどもを産み育てるためだけの生き物なのか。
傷つけないで、嫌なことをしないで、
優しくして、やりたいことをやらせて、
わたしを認めて…
という、その声がもうずっと無視されてきて、
いつしかその声をあげることさえ、諦めていた。
気づいたら、
何も持っていなくて、
荷物がどんどん増えていって、
立ち上がることもできなくなっていた。
わたしは、誰に聞いて欲しかったのかな?
お母さん?
でもお母さんだけにそんな根深い気持ちを背負わせることはできない。
逆にこどもに、お母さんにもっと話を聞いて欲しかった!!って恨み節で言われたら、
ごめん、けど母ちゃんもいっぱいいっぱいやってん…って思っちゃう…。
お母さん(概念)ってやつだね。
どうしたらいいのかな。
誰に聞いてもらおうかな。
するといつも、わたしがわたしの話を聞くかぁ、ってなる。
すこし癒されるけど、
正直いつもひとりぼっちで、さみしい気もする。
内なる自分にだけわかればいいや、って、
割りきれないわたしがいるぞ。
やっぱり、誰かに受け入れられたい。人間だもの。
やっぱり誰かに受け入れられたいんだ、わたし。
誰かに受け入れられることを諦めていたな。
家族も、友達も、ぜんぜん信用できてない…。
誰かに聞いてほしいなら。
わたしは意見を行っていく。
受け入れられなくても、意見は言っていい。
受け入れられなくても、わたしの価値は変わらない。はず。
誰かに話を聞いてほしいなら、
意見を言っていくということ。
当たり前なのに。
ずっと出来なかった。
口を閉ざすことを強要されすぎて、
理解されないことが多すぎて、
わたしは意見を言ってこなかった。
だけど。
もう。
大人。
わたしは意見を言っていく。
言っていい。
他の人と同じく、わたしも意見を言っていい。少数派だからって、劣っているわけじゃない。
声をあげよう。
少しずつ、できることから。
そしたら、
誰か聞いてくれる、理解してくれる人が、いるかもしれない。