「推古朝遣唐使」記事盗用説が成り立たない理由(5)
(承前)
黒澤説は、推古朝遣唐使の存在を否定はしませんが、その記録を『日本書紀』の編者が「意図的に」12年ずらして九州王朝の遣隋使の記事と「合成」するという内容の造作をした、というものです。
しかし、これについては実は通説派の側から何十年も前に鋭い批判が来ています。
それは1980年に佐伯有清氏が『史学雑誌』の「回顧と展望」欄で触れたコメントです。
既に述べたように『史学雑誌』は我が国の歴史学界の学術誌で最も権威があり、その「回顧と展望」欄での評価は学界の趨勢の意見を示しているものと言えます。従って、新しい仮説を学界で認めて貰おうとするならば「回顧と展望」欄でのコメントを念頭に置いておく必要があります。
ここで佐伯有清氏は古田先生の十二年後差説について触れ、「説得力があるかのごとくである」と一定の評価をしています。余談にはなりますが、古田学派の研究者はこのように通説派の学者も「説得力」を認めるような論文を書かなければ、古田先生の学恩に応えたことにはならないと考えます。
さて、その上で佐伯氏は「もしも意図的に年次をずらしたのであれば、どうして最初の遣隋使である600年の遣隋使に当たる記事が『日本書紀』には無いのか?」という旨の疑問を呈しておられます。
これはどういうことかというと、『隋書』「俀国伝」にある「遣隋使」記事は最初が600年のもので、二回目が607年のものであるからです。『日本書紀』には607年の記事はあっても600年の記事はありません。仮に『日本書紀』の編者が「意図的に」『隋書』に合わせて607年の記事を造作したのであれば、どうして最初の600年の記事を造作しなかったのか、という疑問が必然的に生じます。
(佐伯氏の文章は「また推古紀の編者が『隋書』を見たならば、なぜ開皇二〇年度の遣使を、推古紀八年に取りあげなかったのか」というもの。)
これについて古田先生は1982年に『史学雑誌』掲載の論文「多元的古代の成立」で「氏の問いはまことに正しい。 この“ 両年次の対応”がもし“故意” によるとした場合、 確かに右の類の不審が生ずるであろう。またもし書紀のこの記事が「造作」であるとする立場に立つ場合においてもまた、同じ不審が生ずることとなろう」と、佐伯氏の批判が“正当”であることを是認しています。私はこれを仮に「佐伯命題」と名付けたいです。
その上で、古田先生は自説が「 干支のずれ(十二年)などによる「年代比定上のミス」を主とする」ものであると反論しています。私もこの古田説を継承するものです。
しかしながら、黒澤説はこれが『日本書紀』の「造作」であるとしているのですから、黒澤正延氏が自説の正しさを証明しようと思うならば「佐伯命題」に対して正面から反論する必要があるのです。
これは黒澤説に限らず、『日本書紀』の「推古朝遣唐使」記事を造作や盗用扱いする全ての人に当て嵌まる批判です。
戦後の歴史学界では何でも「造作」扱いするのが正しい、という風潮が一部でありました。そのような態度は学問的であるとは言えません。
私たちは「佐伯命題」に限らず、史料を都合よく「造作」するような態度とは一線を画すべきであると考えます。