35歳からのウソ日記84
2020年8月20日
プルルルルルルルル
発車のベルが鳴り、電車と同時に人々の物語も動き出す。
田舎で育った私は夢を叶えるために東京に向かう友達を駅のホームで見送ったことがある。
友達の決断とその行動力に感服し、心から応援したく見送りに行った。
彼の夢を乗せて電車が発車していく。
物語が走り出したのだ。
電車が見えなくなるまで力一杯に手を振り続けた。
真っ直ぐにどこまでものびる線路。
電車はどんどん小さくなっていく。
私はまだ手を振り続けている。
さらに小さくなっていく。
振っている右手から休み希望を提出されたので、左手に変わりに働いてもらうというシフトをとっさに組んだ。
左手が働いてる間も電車は少しずつ小さくなっていく。
全然見えなくならない。
左手からも休み希望が提出されたところで電車はまだ見えていたが、手を振るのをやめた。
右手と左手を労うために肩を揉んであげようと思ったが、その揉む作業も手が行なう仕事なので諦める。
おかげで次の日の肩の筋肉痛はすごいものであり、今でもその痛みを昨日とは言わないが、一昨日のことのように覚えている。
私はその時に決めたのだ。
将来はマッサージ師になろうと。
違う。
痛みの方が強い思い出みたいになってしまっている。
私は夢を見つけたのだ。
車掌になり、人の夢や物語を乗せて運んでいきたいと。
私の物語も同じく走り出したのであった。
その夢は叶うことができ、私は車掌になることができた。
モットーは時間通りに人の夢、物語を運ぶこと。
東京のような首都圏では遅延は珍しくないだろうが、私が運転する区間では遅延は滅多にない。
というより私は一度も遅延したことがなく、時間通りに到着し、発車する。
同僚には少しくらい遅延したって誰も怒りはしないよと言われるが、私のモットーに反するので遅延は絶対にしない。
そんな遅延しない毎日を過ごしているとドラマのような駅のホームでのシーンが実際に起こらないか期待してしまう。
10年以上働いているが、見たことない。
しかしこの時の私は今日ドラマのようなシーンを見ることになるとは思いもよらないのだった。
普段のように遅れずに駅に到着。
するとホームにはカップルが横並びではなく、男性が電車に背を向けていて、それと向かい合う形で女性が立っている。
胸の前あたりでお互い拝んでいるような風に両手と両手をつないでいた。
別れのシーンだ。
待ってました。
大変長らくお待ちしてました。
電車のドアと私の興奮が重なりプシューッという音を出して開く。
男性が旅立ち、女性が見送りに来ているのである。
別れを惜しんでいるのが握っている両手を見れば明らかだ。
プルルルルルルルル
発車のベルが鳴り始めた。
もう時間である。
ドアを閉めなくてはならない。
遅延だけはしないと心に決めている。
男性の方は足を擦りながら後ろ向きで電車に乗り込む。
ムーンウォークみたいだった。
つないでいた両手は片手だけを伸ばし指先だけが重なってる状態になっている。
それなのに先ほどより強く結ばれているようにも見える。
私の手は閉めるのボタンへと向かう。
残念ながら時間だ。
私はボタンを押した。
「大変申し訳ありませんが、車両の連結部分の点検をしなくてはいけないとの連絡が入りましたので少しの間停車します。ご乗車の皆様には大変ご迷惑をおかけしますが、ご協力のほどよろしくお願いします。」
押したボタンは車内アナウンス用のだった。
閉めるのボタンではなく。
カップルにもう少しだけ時間を与えたくて、無意識に自分のモットーを曲げてしまっていた。
実際には連結部分の点検は必要なかったので、彼らの連結されている手を眺める。
女性の方が机上に振舞おうと流れている涙と一緒に笑顔を作った。
下手くそな笑顔なのに普通の笑顔より美しい。
男性も頑張って笑顔を作る。
そして彼らはゆっくりとつながっていた手をほどいた。
離れたのに先ほどまでより強いつながりを感じる。
そこで私はアナウンスをまた入れた。
「大変長らくお待たせしました。連結部分はしっかりと結ばれていましたのでまもなく発車いたします。ご乗客の皆さまには大変ご迷惑をおかけしたことを心からお詫び申し上げます。皆さまの新たな旅立ちの目的地まで安全にお届けしますのでゆっくりとお過ごしください。」
時間通りに運ぶことだけが夢や物語に必要とは限らなかったのだ。
私はモットーを曲げてしまったが、清々しい気持ちでいる。
この電車が今日以降、遅延が頻繁に起こるようになることを今日の私はまだ知らない。
完
それでは また あした で終わる今日 ということで。