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35歳からのウソ日記117『満員電車が連れていってくれた過去の記憶』
2020年9月22日
昨日の昼ごはんはスッと思い出せないのに、生まれてすぐの記憶は鮮明に残っている。
ということに気付かされたのは満員電車に乗っている時だった。
すでに満員の電車に自分を押し込む。
すでに乗っている人からは嫌な顔をされる。
すでにその事には慣れてしまっていて、あなた達と私は同じ境遇で、早く乗ったか遅く乗ったかの違いなのだから気にしていては生きていけないという考えを素手に強くギュッと握りしめながらギュッと自分を押し込む。
パンパンに人が詰まっている車両はおそらく外から見たら少し膨らんでいると思う。
まるで妊婦さんのお腹のように。
ギリギリで入り込んだために私の目の前にはドアの境目があり、後ろには無数の乗客。
電車が揺れるたびに乗客全員がせーので合わせたかのように同じ方に傾く。
しかし押し寿司さながらの私たちは倒れることはない。
もしかしたら唯一の良いところかもしれない。
どれだけ油断していても絶対に倒れない。
倒れることができないというのが正しいのだが、倒れないというのも紛れもない事実である。
満員電車の大変なところは各駅で大量の人が降りては、乗るを繰り返さなければいけないことだ。
1度楽になったかと思ったら、また押しつぶされるような痛みが襲ってくる。
まるで陣痛のように。
私の降りる駅はまだまだ先である。
何回も乗客が降りては乗らなくてはいけない。
私の場合は反対側のドアが開く駅が続き、私が降りる駅でようやく目の前にあるドアの境目が開く。
それまではずっと押しつぶされる形が続く。
お先真っ暗である。
自分の降りる駅で開く目の前のドアという小さな光を遠くに感じることしかできない。
大人も満員電車では無力である。
まるで生まれたばかりの赤子のように。
満員電車でのドアも開け閉めするという仕事を滑らかに行うことができない。
ドアもストレスを感じているだろう。
普段ならドアはドア自身の力で開けていると思うが、満員電車の場合は中にいる降りなきゃいけない乗客達の力でこじ開けられているのではないだろうか。
そんなことを考えることしかできなかった満員電車の中だったが、ようやく私が降りる駅に着く。
パンパンに詰まった車両のせいですんなり開けられないドア。
そんなドアの気持ちを他所に内側からさらに早く降りようとドアへ圧力をかける乗客たち。
開けたいドアの気持ちと降りたい乗客の気持ちは同じ結果を望んでいるのにうまく協力できていない。
開くというよりは張り裂けるようにドアが開いていく。
ドアの境目にいる私の体が少しずつ、頭から順番に外の世界に出ていっている。
そしてようやく解放された。
外に出るとなぜか初めて光を見たかのような眩しさを感じ、さっきまで息をしていなかったかのように大きく息を吐き出しては吸い込み、背中には汗が滲み、額では汗が陽の光によって輝いていた。
その時に鮮明に思い出したのである。
まるで自分が昨日昼ごはんで食べたトコロテンみたいだなと。
完
それでは また あした で終わる今日 ということで。