35歳からのウソ日記123『サジを槍に変えても日本一』
2020年9月28日
継続は力なり。
これは継続したことのある人で、なおかつ力になったと感じた人だけに響く言葉だ。
私には継続する力がなかった。
何かを始めればすぐにやめてしまう。
それは出来ようが出来まいが。
すぐ出来てしまうような事はつまらなかったし、全然出来ないことはさらにつまらなかった。
私は早々にサジを投げてしまう。
両親は私が好きなことは何かないかと色々な習い事をさせてくれたが、どれも続かなかったので、私に期待することをやめた。
サジを投げられたのだ。
サジばっかり投げていた私への罰なのであろう。
周りの友人たちからもおちょくられるようになる。
サジ投げって競技があればお前は日本一になれるだろうな、と。
最初は笑っていられたが、段々と腹が立ってくる。
幼い頃から身体が一回りほど大きかった私は力というもので友人たちのおちょくりに制裁を加えた。
継続する力はなかったが、単純な力は無駄にあったのである。
その力に頼りすぎた結果、私の周りに人が寄り付かなくなった。
ドーナッツの真ん中の空洞部分に立っている私とドーナッツ分ほどの距離を置く人たち。
どーなっているのだろうよく悩んだものだ。
「サジ投げって競技があればお前は日本一になれるだろうな」
あのおちょくられていた日々が遠くの空に懐かしく、キラリと輝いていた。
楽しかったんだと気付かされる。
手を空に向けて出来るだけ伸ばしてみた。
でも輝いている思い出には届かない。
どうにか届かないものか。
何か投げれば届くのだろうか。
サジ投げるのは得意なんだけどな。
サジ投げって競技ないかなと真剣に考えたこともあった。
あるわけもなく、途方に暮れる。
しかしそこで代わりと言ってはおかしいのだが、やり投げに興味が湧いた。
サジを槍に変えてみても得意かもしれない。
身体の大きさも活かせるかもしれないし、何よりも何かを遠くに行ってしまった思い出に届けたい。
そして私はやり投げを始める。
自分から何かを始めたのは初めてだった。
身体の大きさは存分にやり投げ競技に活かせた。
成績はどんどん伸びていき、やり投げで大学に進学することになる。
初めて何かを続けている。
もっといい成績を、いや日本一を目指した。
その結果があの時の友人たちの耳に届いてくれるようにと。
しかしその思いとは裏腹に大学に入ってから成績は伸び悩んだ。
私はやり投げに使う800gという重い槍に腹を立てる。
その怒りをぶつけるように重い槍を投げる。
いい成績は出なくなるどころか悪くなっていく。
今度は槍をサジに変えようかという気持ちが湧き出す。
不満は全て相棒とも言える槍にぶつけていた。
実際に槍を殴ったこともある。
殴っても意味がないことは分かっていてもやってしまう。
自分は結局何か気にくわないことがあると力で解決しようとするのかと情けなくなる。
友人に力を向けた時はどうなった?
みんな離れていった。
今相棒である槍に対しても投げることにではないことに力を向けていないか?
槍も私から離れていってるのでは?
同じことを繰り返しているのでは?
その後悔を胸にやり投げを始めたのでは?
それから私は槍と真剣に向き合うことにした。
メンテナンスを怠らず、力任せに投げるのではなく、槍の特徴と自分の力をうまく活かすために会話を続けた。
私の成績は信じられないほど伸びた。
どーなっているのだろうと驚く。
そして大学で日本一に輝くことになる。
この成績はあの友人たちの耳に見事に届き、久々の再会を果たす。
そこでみんなから言われたのは日本一がすごいという話より、丸くなったなということだった。
一人は食べていたドーナッツを手に持ち、これくらい丸くなったと言い、みんなから相変わらず例えが下手だなとおちょくられ、笑った。
あの日が戻ってきたと両目に向かって心臓あたりから込み上げてきものがあったが、溢れないように努力する。
私が投げ続けた重い槍が本当にみんなに届いた瞬間だった。
彼らとは今日も集まってたくさん笑いあった。
継続は力なりの大事さを私は今なら分かる。
しかし私にとってもっと大事なものが二つある。
重い槍と思いやりだ。
完
それでは また あした で終わる今日 ということで。
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