「私家版 差別語辞典」
著者の「路地」(by中上健次)関係の本は、前にも興味深く読んで勉強させられた。この本も同様だった。
主に、“路地”及びそこに住む人々を蔑む、貶める、揶揄する目的で使われてきた言葉を取り上げて、語源や歴史的背景、使われ方、現状等を解説したもの。
“路地”生まれの著者だからこそ書ける“差別の現場”のドキュメンタリーでもある。
例えば、俺だったら「障害」。「障がい」とも「障碍」とも表記する。健常者と比べる害(不便)になってるから「害」なのだろうが、決して「害」ではないということで変えられているのだろう。
障害当事者の俺から言うと、そんなのはどうでもよい。こういう場合、たいてい当事者よりも、周囲の連中の議論の方が活発なものである。
生活に支障が出るのは事実であるから、やはり不便という意味でも「障害」という表記で全然かまわないと俺は思う。そのためのバリア・フリーがあり、ボランティアがあり、戻ろうと努力するリハビリがあるのだから。
ただ障害の種類や度合いは人によって違うから当然、一括りにはできないだろう。数種の表記があってしかるべきかもしれない。
特に、言葉は社会や時代、文化と共に“生きている”ものだから、自然と流行り廃りがあって、使われないようになったり、他の言葉に代わったり、死語になったりは当たり前のことだ。
本に取り上げられてる言葉も、今ではほとんど使われてないことが多い。ただ表向きは死語に近いけど、隠れて、隠語として使われてたり、いざという時に差別する意志で発せられたりはあるようだ。
不当かつ理不尽な差別を受ける人々は当然、差別解消の動きをする。権利の回復を願う。これまでの運動では、そこにマルクス主義だったり、特定のイデオロギーを持ち込んでしまう。
そして、闘争となると、ますます差別をする側との乖離が進んでしまうと思う。根には差別があるけど、怖い、面倒臭い、寝た子を起こすな、で近寄らなくなるのだ。それでは差別解消とは程遠い。言葉も敏感にそういう流れを察知してしまう。
現在、差別は、差別と被差別という単なる二元論では解決できない複合的な構造を持ってしまった。被差別者が他の差別をすることも多い。
だから、単に差別語を言い換える、禁止にする、使っても謝罪して終わりにして隠しても、それは問題から逃げてるだけである。言葉は生きているから必要がなくなったら自然と死んでいくものだ。
著者はいう。「人は皆、等しくなんらかの差別にさらされている。だからこそ差別されることを恐れてはいけないし、差別を受けて傷付くことを恐れてはいけない。差別を押し殺すことによって生じるのは、建前論の横行と、よりくぐもって陰湿になる差別、そして、卑劣な言い替えのみである」。
本来、言葉は自由なものであり、人間の歴史と文化そのものなのだ。差別語は使ってはいけないけど、ことさら隠すこともないのだと思う。