【古典映画】「羅生門」
最後に再度、黒澤明監督の「羅生門」(1950年)を鑑賞。
80分余りの小品だが、日本映画の存在を世界に知らしめて、クロサワさんの評価を一気に高めた作品。
原作は芥川の龍ちゃんの「羅生門」じゃなくて、「藪の中」なんだね。
江戸時代、山中で旅の夫婦が山賊に襲われて夫は死亡。
今でいう裁判のようなお上の吟味で、捕えられた山賊と、生き残った妻が証言するのだが、両者の言い分は食い違っている。
さらに、霊媒師の口寄せによって、死んだ夫の霊を呼び出し証言させるが、その言葉もまた山賊と妻の言い分とは違ってる…。
3人が3人とも証言が食い違う。つまりは自分に有利ではなくて不利な発言をするのだ。
見てた旅の者は「不思議だ。さっぱりわからない。恐ろしい話だ」という。
が、人間が自分を悲劇の主人公に仕立て上げる、つまりは美談とすることは、不可解ではあるが、別に不思議でも恐ろしくもない。人間が社会で生きることは、虚飾やフェイクを纏うことでもあって、他人とコミュニケーションを取るのも、やはり、自分を守るために多少の虚飾を用いるものである。
そういう虚飾を完全に捨て去ることのできない人間の業の深さを表現したのではないか。
山賊も、妻も、声を荒げて、泣き叫び、自分のいうことが如何に正しいかをアピールする。クロサワさんは、人間の内面の奇々怪界を表現したかったに違いない。しかし、それが人間なのだがね。
襲って来る猛獣のような大げさな演技、笑う泣くのウザ過ぎる演技、転げ回る役者、雨と泥で汚れた格好、滴る汗、森の中の光と影のコントラスト(モノクロが活きる!)…ここにもクロサワ流のダイナミズムは健在だ。
ある意味、人間不信の物語にも見えるけど、ヒューマニストのクロサワさんは、虚飾も含めて人間そのものを深く愛していたからこそ、若い初期にこういう映画を撮ったのだと思う。
ラストに、捨てられた赤ちゃんが出て来て、旅の者が、「ワシが自分の子として育てる」と微笑むシーンでもそれがわかるね。クロサワさんは人間の良心に絶望なんかしていない。希望を持ってたのだ。