【古典邦画】「慟哭」
静かに落ち着いて喋る朴訥な演技が評判だった俳優・佐分利信は、いくつかの作品で、主演もやって監督もやったんだよね。
ということで、1952(昭和27)年の作品「慟哭」。YouTube公式新東宝チャンネルにて。
当時の名優がたくさん出演してて、佐分利信の顔の広さを窺わせるが、真面目な彼らしく、芸とは、演じるとは何ぞや?をテーマにしたような暗い作品だ。
佐分利信が演じるのは劇作家の中年男・杉守。
妻を亡くしたばかりの彼は、彼の所属する劇団の研究生である若い文子(阿部寿美子)の存在を知る。
文子は杉守に積極的に近付いて、さらには自分の郷里の温泉にまで連れ出し、杉守は、文子を主演とした脚本を書くことになる。
その脚本は当初、杉守の昔の恋人で、劇団のスターだった須英子(木暮実千代)をイメージにしたものだったが、いつの間にか、それが文子に替わったのだ。
杉守は、帰って、須英子を訪ねて、主役を文子にやらせてほしいと頼み、演技の稽古を彼女に託す。
文子にとっては厳しい訓練の日々が始まるが、それに耐えかねた文子は、「杉守に愛される私が憎いのでしょ。だからそんなに厳しいのだわ」と口走り、家出してしまう。
杉守は、文子を探すが、彼女は酔った挙句に演出助手の男(三橋達也)と一夜を共にする。
それを知った杉守は、脚本に対する情熱の炎が消えてしまったことを悟る…。
確かに、須英子の、日常のことから演技を教える姿勢は厳しいが、罵倒する訳でもなく、理路整然と納得する形で教えているのだが、文子にしてみれば、ある意味、杉守を横取りしたことで、妬み・嫉みがあるに違いないと邪推したのだろう。
コレは、文子の演技ではなく、センスの問題だと思う。文子には女優としてのセンスがなかったということだ。
「先生、女優の魅力って芸にあるんでしょうか?それとも、その人自体にあるんでしょうか?」by文子
他人を、もしくは自分をも演じるということは大変なことなんだなぁ。よくあるように役にトコトン入り込むか、それとも、あくまで自分を主体に役柄とは一定の距離を保つか。
脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。