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祓い 清め 禊ぎ

いつもありがとうございます。

神社参拝。じっくりと自分の調え。
普段から深い呼吸を心掛けているのですが、そこにある空間のお力を借りると身体に廻る感覚の清々しさがあります。

普段からよく参拝するのですが。
私の場合。 大切な人や全体のご加護をお願いを かしこみ申すことはありますが、ほとんどの場合が神様のお願い事が何かを聞きに行っています。

自分が循環する大自然ならばどうするのか?

全体で一つの身体であった場合。細胞の一部として何を担って何を機能させる役割りなのか?

そんな感覚ですかね・・・

自分を調えて煩悩を見つけて捨てに行っている感覚でもあります。

日々、生活していればどのような人でも穢れが溜まるものです。
「穢れ」とは「汚れ」という意味とは違います。

「汚れ」であれば本当に幼き悪行の領域で人を軽視したり、傷つけたり、支配したり、無視したり、不純に搾取したりというものです。

「穢れ」は自分が生きる中の不浄なものと言えるでしょう。
働くことや、勉強や、人との関わりの中で受け取るもの。自分が起こす縁起というものには、良いもの悪いものありますが、その疲れの中で肉体的にも精神的にも浄化してゼロに戻さなければ不純となっていくものです。

「氣が枯れる→穢れ」という由来で言葉の音が出来ています。

ピンと来ない方が少ないとは思うのですが、今日も明日も元気で前向きで不通に過ごしていても、お家のチリやホコリのように蓄積するものなのです。
人のため、家族のため、子供のため、大切な人のため・・・と日々を過ごしていても「大好きで夢中」ということをやっていても、ちゃんとに付着を続けるのが穢れです。

穢れが溜まると視野がいつの間にか狭くなっていったり、偏った考え方になったり、深く見て心を考える事が粗末になったりという事が起ります。

忙しく頑張っていることで自己の納得は出来ていて、家やプライベートにも頑張っていて・・・と 過ごしていても。実は家族であったり大切な人が本当に求めているものは全く別で「大切な人のために」が。実は「逆に大切な人達」が自分のことを想って我慢して、気遣いばかりで演じていてくれた。なんて事は多くあります。
特に子供は「親が子供を守りたい」以上に親を守ろうという本能と、まだ成長が熟していない表現力や言動が上手く嚙み合わないので親から見ても、いつも通り、いつも元気、こういう性格・・・メッセージを受け取れていないことが増えていきます。
特に「穢れ」の視野の狭さや偏りに自分で気付いていなければ、尚更となります。 

穢れの不浄と共に「罪」が育ち始める

「罪穢れ」とセットで言われる事が多いです。

「罪(ツミ)」とは「自分を包み隠してしまう」ことです。

一生懸命に頑張っている、よく考えている、間違えていない・・・と過ごしていて、自分を俯瞰して見て、内観、内省することが無くなると偏りから生まれる自己肯定と自己保身の包み隠しの仮面と鎧をまとい始めます。

自我の偏りの時は自分を隠せる打算の環境や人に身を置くようになり、逆に誤魔化しが効かない大切に思って見てくれる人を遠ざける傾向が出てきます。泥沼ぬかるみで抜け出せなくするブラック企業のような環境にはまってしまう人の傾向もここにあります。

「自分は間違っていないんだ」というようになると、心の奥底に押し込めているだけで、本当は違うという自分との不一致の差で自分を見失い始めます。向上心とは別の他人との比較が始まることもあります。等身大が見えなくなるんですね。そして本当に大切なのは何かも見えないので、抜けなければならない泥沼に気づくこともなくなる場合もあります。

自己肯定ではなく自己否定したくない保身は更に視野を狭めるものです。
本当にやるべきことは等身大での「自己俯瞰」「自己内観」「自己内省」「自己対話」。手放しや断捨離、やり直しなのですが。
自分を取り戻して、大切にしてくれる大切な人の言葉に真っすぐ耳を傾けることはどんな高価なプレゼントより価値がある愛の豊かさなのですが。
成長と退化が逆転してしまうのです。

清々しく向上心を持って活き活きといる時は、例えば徳を積んでいるような方々と向上していきます。
しかし「罪」の現象に至ると硬い殻で包み隠しているので、こうした「徳」であったり人として立派な方々を避けるようになります。

人間的に豊かな方々は洞察力が鋭く、言葉と行動、言動が一致しているかどうかですぐに人の本質を見抜いてしまいます。

自己修正すればいいだけでどうでもよいことなのに、自己否定したくない間違えた保身で自分がバレてしまうことに恐怖を持っています。これもその人間力ある人に対する他人との比較が起こしているのです。
逆に考えてみれば、心の深いところや魂では本当の自分が解っているんです。

穢れと罪が付着から育つ段階になると周囲環境も自分隠しができる場所なので、承認欲や打算が強い人とぬかるみが多くなります。
本来あった自分との不一致がますます大きくなっては、同じ今と同じここにあっても、大切な人や大切な自分は黄泉の迷路深くに入ってしまいます。

罪穢れ育ち汚れとなる

罪穢れはただただ普通に生きていても祓い清めという自己のお掃除をしなければやがて「汚れ」という現象になります。

心の奥底で違うことに気づいているのに見ないようにする、包み隠すことは、自分に素直を失った嘘をつくことです。

「汚れ」とは不純であり不誠実ということです。

ここに至ってしまえば、自我を振り回すままにその偏りを貫いていくのか。
逃げていた分、相当な勇気で覚悟を持って罪穢れの黄泉の国から抜け出して禊ぎ祓いをするかです。
ただ。大切な人がいる。大切にしてくれる人がいる。という無償の愛が存在していることを心の奥底に知っているということは、きっぱりと、清々しく穏やかな美しい方に行くことだと私は思います。

誠実に生きて自我をよく研磨した純粋で生きること。
自分のお役目を存分に発揮するために。
子供や若い世代に自分の穢れを付着させないために。
祓えたまえ 清めたまう

特にこれからやってくる・・・いや。創る新世紀の世界。
おそらく、情勢の後処理から混乱を治めながらを考えれば7年か8年くらいは立て直しを皆でやる期間でしょう。
暗いことはありません。やっと清々しい時代になります。

無駄な傷がつく人がいない。
競争の必要がない。
誠実で微笑む穏やかな日々を創る沢山の仲間と力を合わせる創造ができますように。

ありがとうございました。

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