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世界への入口

 私の記憶の引き出しは、そこに収められるはずの内容が少し過酷だったせいなのか壊れている。だから生きた記憶というより、他人に起こった出来事を遠目から観察していたかのような雰囲気で脳裏に残っている。

 私には四歳上の知的障害のある姉がいる。小学校低学年の時、教室の窓から、グラウンドで泣きじゃくる姉の姿をよく見かけた。あれだけ頻繁に虐められていたのだから先生達だって気づかなかった筈がない。当時はまだ障害のある者を指差して笑う差別が蔓延る時代だった。
 家でも姉は苦痛を強いられた。姉を「普通の子」にしたかった母は、嫌がる姉に無理矢理、勉強を教えた。
母の期待に応えられずパニックを起こし叫び暴れる姉の声を聞くと、アルコール依存症の父は「うるせー、真由美を黙らせろ」と階下から怒鳴り暴れた。
 姉も母もパニックになると、母は姉に向かって「一緒に海に飛び込もう」と声を荒げるのだった。
(母は、姉と一緒に死ぬと言っている。母の視界に私はいない)
 私はそんな淋しさを募らせていった。
 小学校低学年にして、これ以上ないぐらい暗い心が出来上がった。
 誰も頼らない。何も信じない。世界を信じない。

 だが、暗い心をそのまま表すのには抵抗があった。
 学校では居場所を確保しておく必要を感じたし、家でも諍いが起きない方が助かる。そんな一心でピエロのようにヘラヘラと笑顔で明るく振る舞った。
 小学校四年生の頃、父が浮気をした。
 毎日のように朝まで帰らない父を夜通し母と一緒に待つ。母は私に、父の悪口や経済的不安、自分の不遇などを繰り返し繰り返し聞かせた。
 母の愚痴の嵐は私を追いつめた。大好きな母を苦しめる父を、世界を、一層嫌いになっていった。私は母に護られる対象ではなく、愚痴を受け入れ続けるゴミ箱として存在するしかなかった。
 母に私を好きになって欲しかったのかも知れない。帰らない父を待つ間、食器を洗ったり部屋を綺麗にしたりして懸命に母に尽くした。
 明け方、玄関の鍵が「カチャ」と音を立てると、もう父を待たなくてもいいのだという安堵感と共に、今から諍いが起こるという緊張が走った。毎日が戦場のようだった。

 父の浮気はしばらくして落ち着き、私が中学生になる頃には両親の諍いは滅多になくなった。いわゆる冷戦状態。口をきかない。ただ、世間体だけは大切にする両親だった。
 世間体を守る為に行くお墓参りの際は、私が通訳のように振る舞う。父に何日の何時にお墓参りに行くのかを聞き出し、それを母に伝えると、その時間にはお花が用意されていた。会話が交わされる事のない不自然な苦しいお墓参り。一体何十回したのだろう。

 結局こんな「家族ごっこ」は、私が三十六歳の時まで続いた。当時、毎日のように母と姉に対し「出ていけ」と怒鳴って暴れていた父に命の危険を感じた母は、いきなり父を捨てて、姉を連れ、私の暮らす街に逃げてきた。

 一人暮らしになった父が亡くなるまでの三年間、私には父への恨みと愛着が同時に存在していた。「おまえに会いたい」という父の願いを断わる罪悪感にも耐えられなかった。そんなわけで、年に何回か、父の好きな横浜中華街でランチをした。会うたびにやつれていく父を前に胸は痛んだが、何もできなかった。
 夏の暑い日、父は大好きだった浜辺の車中で、遺体となって発見された。検視結果は熱中症。警察から説明された経緯、会社の経営状況、最後に会った時の言葉……さまざまな事が自殺を示唆していた。けれど母に話せば姉に伝わってしまう。それだけは避けたかった。秘密を持つのは苦しいけれど、母と姉には一生「父は病死」という事にしておくつもりだ。

 話を私の中学生時代に戻す。
 暗い心をひた隠し笑顔で振る舞う事、内面と外面の開きが大きくなればなる程、自分だけではなく他者に対する不信、人間不信も大きくなっていった。私の精神は明らかに壊れ始めていた。
 私は日常的に太ももをカッターで切っていた。切る前の怖さ、切っている間のドキドキ、うっすら流れる血の赤み。
 私はまだ生きている、という実感がほしかった。当時はリストカットなんて言葉も知らなかったから、自分の「切る行為」は恥ずかしく絶対に知られたくない秘密だった。

 幼い頃に身につけた、感情のメーターを「弱」にして耐えしのぐ生き方。それは、苦しみも悲しみも、もちろん喜びも「弱」のまま生きていく、抜け殻のようなものだった。月日だけが頭上を通り過ぎていった。
 ただひとつだけ、生きている実感を感じられた事があった。親孝行をする事。
 今考えると、言い方は悪いが、ろくでもない親なんかに構わずに自分が幸せになればよかったのではないかと思う。けれど当時の私は親孝行をする事でしか生き延びられなかった。

 そもそも人は子ども時代に親から無条件の愛情を与えられる事で自己肯定感(=ありのままの自分が存在していてもOKという感覚)を培える生き物だと思う。私には、その自己肯定感が決定的に不足していた。自分以外の誰かに必要とされなければ私には生きる意味がなかった。
 そのために社会的評価を上げる事にこだわった。それなりの大学に入り、それなりの会社に入り、父と同じ一級建築士になった。結婚して実家を出てからも、父の経営する建築士事務所で父の跡を継ぐべく働いた。

 だが、その「親孝行ロボット」は三十一歳で壊れた。
 うつになった私は、それまで勤めていた父の会社を辞めざるを得ず、こだわっていた社会的評価が一転して「精神疾患患者」となってしまった。自分が無価値に思えて、一呼吸一呼吸が苦しかった。

 精神科の先生は粘り強く、出口のない話を聴いてくれた。私のいる場所に降りて寄り添い、一緒に歩いてくれた。私に初めて真剣に向き合ってくれる大人ができた。暗く醜い心の内をさらけ出す事は人生初めての経験だった。素の自分を受け入れてもらえる温もりが少しずつ私を癒やしてくれた。
 初診から一年ちょっと経った頃、ACの自助グループを勧められた。私はまだ先生しか信用していなかったし、よくわからない会には怖くて行きたくはなかった。泣く泣く先生の言葉に従い、足を引きずり会場にたどり着いた。

 そこで、また人生初めての経験をする。
 私によく似た暗い生い立ち、母親のカウンセラー役をして傷ついた心を持っている「仲間」に出会った。
 私は子ども時代から、自分の存在を「異物」と捉えていた。屈託のない子どもたちの中に紛れ込んだ、戦場からの帰還兵のような異物感だった。周りの人間たちに悟られやしないか怯えながら必死で人間を装う妖怪のような気分だった。
 世の中に自分のような感覚を抱えた人間なんていないと思っていた私にとって、自助グループでの仲間との出会いは衝撃だった。もしかしたら私が認識してきた「世界」とは違う世界が本当は存在しているのではないかという可能性に気づけた。

 今では自助グループ歴は十年を超えた。ほぼ毎週、自分の心に正直に向き合ってきたつもりだ。
 自助グループに辿り着いた当初は感情を「弱」にしてきた影響か、自分が何を感じているのか自分自身の感情すら掴めずにいた。自分の話す番が回ってきたら必死で話をしたが1~2分しか保たなかった。仲間のように話せない自分にもどかしさを感じたものだった。

 でも仲間の話を聴く事、自分が話をする事を続けていくうちに、少しずつ自分が感じている事を掴めるようになっていった。それは、子ども時代に安全を守るために閉ざした引き出しの鍵を開けていくような作業だった。鍵を開けるたび、傷ついた自分の「カケラ」がそこに落ちていた。酷く傷ついたカケラと出会い、痛みに圧倒された日も数え切れない。それでも、失われた自分自身を集めて再構築する作業は、心を持って生きる為には不可欠であったと思う。

 そこに、もし仲間がいなければ、とっくに放り出していたが、仲間がいつも勇気をくれた。
 仲間の話の中には(がんばっているな、がんばれ!)と思わせてくれる力があった。同時にその仲間の仲間である私も(もしかしたら、がんばれているのかな?)と思わせて貰えたりもした。自助グループの仲間の存在がよく「鏡」に例えられるのは、そんな理由からなのかも知れない。

 最近になって、ようやく自分の全体像が見えてきた気がする。
 自分を構築した事で、次は構築された自分をいかにしたら幸せにできるかという次のステップを考えられるようになった。ところが、構築した自分は明らかに欠陥だらけの人間だった。その欠陥ぶりに愕然とした。
 人は生きる為に誰かと関わり、その温かみを栄養にして生きる生き物だと思う。でも私には「人を信じる」という恐怖に打ち勝てる能力が、まだまだ備わっていない。誰かと関わる事が怖くて仕方ない。生きる為に必要な栄養が供給されない状態。

 そんな話を吐き出した時、主治医の先生が「人間なんて食べて出して寝て60点、合格ですよ」と言ってくれた。(合格と言われても、こんな人生じゃ、苦しみと楽しみの割が悪すぎる、生きていたくない)と何ヶ月間か毒づいていた。
 さすがに先生も痺れを切らしたのだろう。私をきちんと叱ってくださった。今まで感情のまま怒る大人には振り回されてきたが、きちんと叱ってもらえたのは初めてだったと思う。ほっぺを打たれたかのような鋭い痛みが心を締め付けた。一日中泣いたりもした。そんな時間を経て、ようやく先生の言っていた「食べて出して寝て60点、合格ですよ」の真意が心に染み渡ってきた。

 子ども時代を戦場で過ごした後遺症だろう、抑うつ状態はかなりの強度で遺っている。一日の大半をベッド上で過ごす。部屋の電灯さえも脳への負担に感じて苦しくて消している事も多い。テレビなんて見られるのは余程調子のいい時だけだ。時間だけが延々とある。本当に「食べて出して寝る」それだけだ。

 でも…。濃い人生だと思う。
 心の通い合った大好きな仲間に自死をされるという悲しい経験もした。機能不全家庭で育った者が生き続ける過酷さを痛いほど思い知らされた。私は亡くなった彼女の想いも引き連れて生き抜く覚悟でいる。命を全うするのが今の目標だ。

 回復の過程では、いろいろな景色が見えた。
 とにかく「心」ありきなんだ。世界を「心を持った目」を通してみなければ、せっかくの景色も何も映らない。温かい誰かの言葉も温かいと感じられない。
 世界を信じず人間に興味を持たなかった私が、主治医の先生を信じられるように変わった。懸命な仲間の生きざまに触れ、仲間の幸せを心底願える人に変わった。
 幸せなんて結局、誰かの幸せを願ったり、誰かに感謝できたりする心の中にしか存在しえないのだから、子ども時代に失った「心」を取り戻せた事は、たとえ同時に痛みも取り戻したのだとしても、この上なく貴重な出来事だった。

 心を持たなかった私には、心というものの尊さが強く感じられる。
 心とは本当に不思議なものだと思う。

※写真はキュートン様と撮らせて頂きました私の宝物です。
 くまだまさし先生推しです。
 ひきこもりの私にとって推し活は大切な”世界への入り口”です( *˙ө˙*)و

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