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YS2.54 プラティヤーハーラ: 自身のもつ光に気付くために

ヨーガ・スートラを有名たらしめるのが、ヨガのゴールを目指す8段階を記す八支則。ヤマ、ニヤマ、アーサナプラーナーヤーマときて、今回は5つめのステップについて。
ヨガインストラクターのもえと申します。どうぞよろしくお願いします。

※前回は、こちらの「YS 2.53 そして次につながる」からどうぞ。


ヨーガ・スートラ第2章54節

स्वविषयासंप्रयोगे चित्तस्य स्वरूपानुकार इवेन्द्रियाणां प्रत्याहारः॥५४॥
svaviṣaya-asaṁprayoge cittasya svarūpānukāra-iv-endriyāṇāṁ pratyāhāraḥ ॥54॥

When the senses are separated from their objects and as it were conform the nature of the mind, that is [called] withdeawal. (3)
感覚がその対象から切り離され、あたかも心の性質に適合するとき、それをプラティヤーハーラと呼ぶ。


光を見逃してしまうから

これまでに、プラーナヤーマの練習を続けることで、内なる光を覆い隠していたものが消滅すると説明がありました。それでも、そこから進めるのに「完全な必要な適性には至っていない」と書いているのは、インテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参照2。以下、インテグラル・ヨーガ)です。

厳しいようにも聞こえますが、内側の光の覆いがなくなっても、そもそも心が外の世界に引っ張られているままであったら、それはそうだろうなと思いませんか。

これは、青い鳥を家の外に探しに行ったものの、実は家にいたというあの有名な物語をほうふつさせます。光を探しに外の世界のあちこちに行ってみるものの、そのあいだにもずっと内側で輝くそれに気付かず、探す旅は続き、ひとつひとつに喜んだり悲しんだりする。その悲喜こもごもに忙しくしていれば、家の中、もしくは内側をじっくり眺める余裕は、確かになかなか見つけられるものではありません。

では、どうすればいいのか。


門を閉じてみる

引き続きインテグラル・ヨーガですが、あちこちに引っ張られてしまう理由として感覚を挙げていて、「感覚とは要するに下界が心の中に入って来る門である」といいます。だから、感覚という門を閉じて、心の視点を内側に向けるというわけです。


面白いなと思うのは、フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)は、心が感覚に従うのではなく、感覚が心に従うのだということを理解すべきだと書いている点です。そうであるなら、心を決めれば感覚という門を閉じなくても内側に意識を向けられるはずなわけです。でも、そうではない。

簡単なことではないんだよということを、いまもう一度思い出しておくといいなと思います。実際にインテグラル・ヨーガは、この習得では簡単なことではないし、1~2年で習得できると思うのは軽率だし、「そもそもいつでも滑り落ちる可能性がある」と書いています。

そして、そもそも心の動きを定めることも、簡単ではないわけです。ヨーガ・スートラの、始めの始めの第1章2節を覚えているでしょうか。


眺めてみるならば

ハリーシャ(参考3)が面白いことを書いています。前提として、心が外側の世界にあちこち引っ張られるのは、それらに興味があるわけです。だから、それと同じように、視点の向きを変えて内側を眺めに行くのであれば、内側の、つまりは心の性質に興味を持っておくことが最低限必要だと書いています。そこに好奇心が向けられないのであれば、機能しないとまで書いています。

好奇心がくすぐられるような対象であれば、各々のペースこそあれど、そう飽きることはないはずです。そうであれば、練習を継続していくことができる。それはそうだなと、言われれば気付くことですが、たとえば練習をただこなすだけになっていないかなどなど、少し振り返ってみるのにもいい機会かもしれません。


次回はプラティヤーハーラを練習することの恩恵について。そして、絶賛八支則の途中ではありますが、次のスートラは、第2章の最後のスートラでもあります。パタンジャリは、どうしてここでいったん区切ることにしたのか。

次回もどうぞお楽しみに。また来週、ここでお待ちしています。

※ 本記事の参考文献はこちらから



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もえ|渡辺朋江
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